第52話 温泉旅行 終
目が醒めると、目と鼻の先にはお茶の入った容器が置いてあった。
先程昇っていた湯気はすっかり消え去っている。
茶柱は小さな容器の縁にくっ付いていて、これでは立つ立たないどころの話ではない。
はっきりとしない意識の中、のろのろとお茶を飲んで覚醒を促す。
いつの間に寝ていたのかは分からないが、長い夢を見ていた気がする。
直前まで高校時代のことを想起していたせいか、随分鮮明な夢だった。
──そうだ。
俺とあいつは、友達で、親友。
人間関係の何処かに一旦の区切りを作るとするのなら、あいつとはキリのいい距離感を保っていると言える。
親友という関係が、発展途上なのか、それとも終着点なのか。
俺とあいつの関係は、随分前から変わっていない。
「……それが、いいんだろ」
変わらないから、いいものもある。
あいつとの関係が、その典型例だと思う。
無理に変えようとした男は沢山いた。だから、
一度崩れた堤防を修復するのは至難だということが、今の俺は嫌というほど知っている。
息を吐いて、もう一度お茶を仰ぐように飲む。
お茶はすっかり冷めていて、茶柱が口の中にへばり付く感覚に顔を顰めた。
「何がいいの?」
「ブッッ」
茶柱が机に飛んでいく。
耳元で囁いた声の主は、驚いた声色で言った。
「ちょっと、吹くな!」
「い、今のは美濃が悪いだろ! 人の寝起きに話しかけやがって!」
誰だって、気配に気付かない状況で接近されると驚く。
それも寝起きで、声は耳元からしたのだ。
茶柱を吹くのも仕方ないというものだ。
「あんた、どうしたの?」
「へ? 何が」
何のことか分からず、訊き返す。
「いや、あんたに苗字で呼ばれたの久しぶりすぎて」
「ああ……いや、つい癖で」
自分でもよく分からない言い分に、彩華は首を傾げた。
「一体いつの癖よ、それ」
彩華は頬を緩ませて、クスクスと笑う。
時折見せる優しい表情は、高校の時から変わっていない。
不思議と鮮明に覚えている、高校時代の夢。
あの時の美濃彩華と、今の美濃彩華。
高校時代の友達なら、今の彩華が少なくとも高二までの彼女とは変わったと思うに違いない。
俺自身、彩華のどこが変わったのか、これまであまり考えることはしなかった。
何処が変わっていたとしても、彩華の俺に対する振る舞いは何一つ変わっていなかったから、気になることもなかった。
だが過去の記憶が鮮明になった今、答えは分かり切ったことのように思える。
以前に「なんでこんなにみんなと仲良くするんだ」と訊いたことがあった。
好きでもない友達と仲良くしている姿に疑問を持ってのことだ。
高校二年生の頃の彩華に対しては、絶対にしないような質問。
つまりこの質問が俺の口をついて出てきた時点で、彩華の変わった点は明白だった。
──他人を常に意識し、世渡りを円滑に進めるということ。
彩華が変わったのは、その一点。
彩華のサークルにて開催された、テストお疲れ飲み会。
努力したのだろうとは察していたが。
全ては、変わるため。
かつての強い意志が、今の彩華を形成している。
「……いや、もう一つ変わったところもあるか」
「いきなりなによ?」
彩華は眉を八の字にして、口角を上げる。
「綺麗になった」
「──はい!?」
彼女の容姿は、高校時代のそれに比べて、やはりレベルが上がった。元々美人だったが、今は過去の容姿を越えている。
それは大人びたおかげか、それとも優しい表情が増えたおかげか、スタイルに磨きがかかったおかげは分からない。
だが俺の目には、今の彩華が眩いほどに映るのだ。
「な、なにあんた。口説いてんの?」
彩華の言葉に、俺は瞬時に首を振った。
「ばか、違えよ。んなわけねえだろ」
互いに見えない境界線が、他人との間には確かに存在している。
それは、たとえ親が相手であっても同じこと。
その境界線が何処に引かれているのかを推し量ることが、人間関係を築くことに必須の力。
俺と彩華の間に引かれた境界線は、高校の時から変わっていない。変わっては、いけない。
だが、それでも。
「なによ。そんなすぐに否定されたら、それはそれでムカつくんだけど」
時折見せる、捲れるような表情を見てしまう度に思うのだ。
今まで変な気が起こらなかったのは、奇跡に近いものがあると。
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