第50話 美濃彩華〜過去⑤激情〜

「お前、美濃と付き合ってんの?」


 若干棘のある声色でそう質問されたのは、次の授業に体育を控えた休み時間のことだった。今月で何回目のことだろうか。


「……付き合ってない」

「まじ? 美濃も同じこと言ってたけどなー」


 美濃にも訊いたのか、と詰め寄りたい気持ちを抑える。

 勘弁してほしい。

 美濃は昼休みに、いつもの中庭に来なくなった。

 どこで昼食を食べているのか知らないが、俺のクラスの生徒と食べていないことは確かだ。

 最初は殆ど信じられていなかった性格に難ありとの噂も、最近は徐々に信憑性を帯びていっている。

 仲の良かった面々の誰かが、あの噂に賛同したのだろう。

 でなければ、性格に難ありなどという低レベルの噂がここまで長持ちする道理がない。


「火のないところに煙は立たないっていうし、でもまあ二人がそう言うなら俺も追求はしないわー」


 なら最初から訊くな。

 立ち去っていく背中に、そう言い放ってしまいたい。

 校内で美濃と話していると、誰かに見られている気がして息苦しい。

 間違いなく今しがたの質問をしてくるような輩が多いせいだ。

 こんな状況が続くと、美濃と話すこと自体がストレスに感じてしまいそうで怖い。

 美濃が俺に近付かなくなったのは、そう思い始めた時のことだった。


「羽瀬川ー」


 制服から体操服に着替える手を止める。

 声を掛けてきたのは、榊下だった。


「なに?」


 榊下は、クラスの中心人物。

 俺は高二になってから榊下とはそこそこ良い関係を築いていた。榊下を擁する中心グループに身を置いているおかげで、美濃との噂が周知されてもクラス内で孤立せずに済んでいる。

 少なくとも男子生徒が美濃に寄り付かなくなったのは榊下の一言がキッカケだというのに、俺は榊下グループという名の庇護下に置かれている。

 罪悪感は、勿論あった。

 だが、自分を優先するのは自然なことなのだ。

 美濃の言葉は、今の俺を支えるものになっている。


「なにって、今日お前体育委員の代理だろ。みんなより先に行かなきゃ先生に怒られっぞ」

「あ、そっか。山下今日休みだもんな」


 体育委員が休むと、その代理が体育の時間を先生と一緒になって仕切らなければならない。

 体操もみんなの前でしなければならないし、準備もある。

 美濃のことを考えていたら、そのことが頭から抜け落ちてしまっていた。


「ぼーっとしてんな、そんなんじゃ美濃に嫌われんぞ」


 誰かが茶化すと、周りで着替えていた男子の数人がクスクスと笑った。

 最近俺は、孤立する美濃に唯一干渉する男子として、勇敢なやつだと周りから囃し立てられていた。

 つまり美濃は、裏ではまるで腫れ物扱いだ。

 あくまで男子だけの悪ノリで、美濃本人に対して何か言う奴はいないし、女子に同じようなノリを求めるやつもいない。

 そのことは、美濃が女子とはいつも通り楽しそうに話して輪の中に入っていることから分かる。

 だが自己防衛にしては、やりすぎなことは明白だ。

 受験勉強が始まったストレスなどが重なり、鬱憤の捌け口が欲しいのかもしれない。

 それでも殆どの生徒は、友達と遊んだり、スポーツをしたり、ゲームをしたり、何か好きなことをすることで発散している。

 こんなやり方は、下品極まりない話だ。

 そう思っている生徒は、俺を含めこのクラスの中には必ずいる。

 それでもこの悪ノリに目立った反論が出てこないのは、自分が巻き込まれたくないからだ。

 この悪ノリを裏で批判しているやつもいるだろう。

 だがそれでは意味がない。

 過半数のクラス男子に認められている風向きを変えられるのは、クラスの中心人物に反論してもらうか、大人数が見守る中反論してその主張を周囲に認めてもらう他にない。

 殆どの生徒は中心人物ではない為、残された手段は後者しかない。

 失敗すれば、男子の輪から排斥されるかもしれない。

 そして、そこまでしようとする肝の座った男子生徒は、このクラスにはいない。

 中心人物である榊下がこの悪ノリを止めれば流れも変わるだろうが、それも期待できない。

 榊下は美濃に振られているからだ。

 この悪ノリに加担することはないが、止めようとする様子もない。


「じゃ、先行くわ」


 せめて誰かから放たれたウケを狙った言葉にはのらずに、教室から出る。

 廊下を歩き、階段を降りる。

 踊り場に出たところで、大きく息を吐いた。

 教室より数倍、此処の方が居心地いい。


「でっかい溜息ね」


 階段から見下ろすと、美濃が一人でいた。

 女子更衣室は男子が着替える教室の一階下にある。

 喋るのは、随分久しぶりだ。

 美濃は俺を待つことなく階段を降りて行った。

 俺は小走りで追いつくと、並んで歩く。


「いいの?」

「なにが?」


 訊き返すと、美濃は笑った。


「なんでもない。なんか久しぶりね」

「……最近あんま喋ってなかったもんな」


 自分で言って、胸にグサリと何かが刺さる。

 垂れてくる心の紅血に気付かないふりをする。


「そうね。またあんたが良ければ、ゲーセンにでも行きましょ」


 美濃はそう言うと、小走りで俺から離れた。


「でも羽瀬川って、普段は部活あるから無理な話かもね。じゃ、女子は今日体育館だから。上手くいってるようで良かった」


 俺は最後の言葉をいまいち理解することができず、ぎこちない笑みで応える。

 美濃が去っていった瞬間、上から榊下達が降りてきた。


「お前まだこんなとこいるのかよ、まじで怒られんぞ」

「……いや、そんな時間経ってないって」


 俺は今、どんな顔で喋っているのだろうか。

 そんな考えが、更に表情を強張らせるように思えた。


 ◇◆


 今日の体育は、50メートル走だった。

 運動部は皆んなテンションが上がった様子で、待ち時間を雑談で潰す。

 体育の先生も「今日は自由の日」と言っていて、特に雑談を注意する様子はない。

 普段は雑談を許容しない先生が不干渉なことから皆んなのテンションは更に高く、順番待ちの雑談は各々盛り上がっている。

 俺の隣は榊下で、これも傍からすれば盛り上がっているように見えるかもしれない。


「んで、お前が美濃と知り合ったのっていつなの?」


 榊下の質問に、俺は笑いながら答える。


「知り合ったのは普通に高一だよ。仲良くなったのは高二だけど」

「あ、そっか。俺ら高一もクラス一緒だもんな」


 榊下は顔が整っていることから女子人気はかなり高い。

 加えてノリの良さから男子にも支持されて、高一の五月には既にクラスの中心人物となっていた。


「俺は高一から美濃と仲良かったから、付き合いは結構あるけどな。今が十二月だから、そろぼち二年か」


 榊下は靴紐を結びながら、少し自慢気に言う。

 それが理解できなかった。

 最近榊下は、美濃と話していないはずだ。


「振られてから話したのか?」


 この質問をすると、榊下はムッとするかもしれない。

 そう思いながら訊くと、意外にも榊下は軽く笑った。


「当たり前。確かに一回振られたけど、今はまた良い感じよ。最近は毎日ラインもしてるしな」

「え、そうなんだ」

「おう。やっぱあいつ良いやつだよな。ふつーに面白いし」


 毎日ラインといえば、美濃は親しい人としかしないはずだ。

 このことが本当なら、既に二人の仲は回復している。


「はは」


 光明が見えたことから、思わず笑みが溢れる。

 久しぶりに、心から笑えた気がした。


「そのこと周りに言おうぜ。なんか最近、美濃って男子と話さないだろ。榊下は知らないだろうけど、お前の一言で結構他の奴影響されて美濃から離れてんだよ」


 悪ノリに加担している訳ではないが、そのきっかけを作ったのは榊下が「近くにいると好きになってしまうだろうから、受験期間には美濃に近付かない方がいい」という考えを誰かに言ってしまったからだ。

 だがきっかけが榊下なら、その榊下自身が悪ノリを否定すれば効果は大きい。

 しかも榊下はクラスの中心人物。

 彼がこのことを他の男子に話していけば、一気に風向きは変わる。

 美濃が男子と再び話すようになるのは、時間の問題だったのだ。


 ──初めから、俺が心配する必要なんてなかったのか。


 美濃は知らないところで、榊下と再び仲良くなっていた。

 これで大丈夫だ。

 安堵感から肩の力が抜けていく。


「いや、周りには言わねえよ」

「は?」


 反射的に聞き返してしまった。

 俺の言葉で榊下は悪ノリの発端となったことを自覚しただろうから、快諾してくれることを確信していた。

 それなのに迷うことなく拒んだことへ、理解が追い付かなかった。


「恥ずかしいだろ、普通に」


 ──確かに、榊下の立場からしてみればそう思ってもおかしくないことだった。


 振られた相手と、毎日ラインをしているのだ。

 高二男子なら、羞恥心を持ってある意味当然のことだ。

 だが、俺が今美濃の為にできることは、ここしかない。


「……頼む。ほんと、頼むわ。ラインしてたら、今の美濃が苦しい思いしてることくらい分かるだろ。あいつはそういうこと言葉にはしないけど──」


 美濃は、一切弱音を言わなかった。

 それは強さでもあり、同時に誰かに頼ることができないという弱さでもある。

 だが、榊下ならば、頼りになる存在だ。

 美濃も相手が榊下なら、もしかしたら頼れるかもしれないのだ。


「分かんないよ。美濃って、そういう踏み込んだ話、俺にはしてこないから」


 榊下の声色に、僅かに憎しみの色を感じ取る。

 俺は耳を疑った。


「羽瀬川は美濃と色んな話したから、美濃の気待ち分かるんだろうな。もう一回言うけど、俺は分かんねえよ」

 

 榊下は冷ややかな笑みを浮かべて、続けて言った。


「こういう状況を作れば美濃ともっと踏み込んだ話ができると思ってたけど、相変わらず壁がある」


 ──こういう状況を作れば、と言ったか?


「どういう意味だ?」


 瞼がピクピクと震えるのを感じる。

 込み上げてくる何かを堪えるのに必死で、声は少し固かった。


「ここだけの話な。羽瀬川信用できるから言うけど、美濃孤立させたの俺なんだ」


 それは知っている。その遠因となったのが榊下だったのいうのは分かっていた。

 だが、俺は。


「自覚なかった、と思ってたんだけど」


 自覚が無いからこそ、悪ノリには加担しない。

 悪ノリを止めることもしない。

 俺は、そう思っていた。


「自覚? あるに決まってんじゃん。計算してんだよ、俺」

「計算?」


 馬鹿みたいにおうむ返しをする。


「そそ。周りから急に人がいなくなったらさ、やっぱ絶対傷付くじゃんか。俺美濃には一回振られてるからさ、もう一回告白できる状況に持っていくにはやっぱそういう状況下で優しくするのが効果的かなって」


 つまり、なんだ。

 美濃があんな顔をするようになったのは。


「元々美濃に振られたやつが沢山いたからか、思ってたより効果出ちゃってびっくりしたけどな。まさか他の男子があんな悪ノリも作ってくれるとは」


 美濃は、弱みを言わない。

 だが、一度だけ。

 俺の肩に頭を預けてきた、驟雨の日。


 ──ありがと。


 あれが、SOSのサイン。

 あの時美濃は、振り向かなかった。表情を見せなかった。

 今思えば、あいつは。


「そんで久しぶりにラインしたら、いつもよりすげえ元気な返事きてさ。こりゃキタなって思ったんだけど」


 限界だった。


「クソ野郎!!!!!」


 飛び掛かり、全体重を乗せて拳を振り下ろす。屈んでいた榊下の顔面に直撃し、倒れ込んだ榊下に馬乗りなってもう一度拳を掲げる。

 異変に気付いた体育の先生が何かを叫ぶ。

 榊下の目にも驚きの色が、そして一瞬で怒りの色に切り替わる。


「この──」


 榊下が身体を捻り、馬乗りから逃れようと俺の鳩尾を強打する。

 掲げた拳から力が逃げる。

 だが、それがなんだ。こんな痛み、あいつに比べたら。

 今度は両手で榊下の顔を固定し、ど真ん中に頭突きを食らわす。

 反撃しようとする榊下の動きが鈍くなると、一発、二発と拳を振り下ろす。

 三発目を食らわそうと両手を掲げると、横から強い衝撃があり、俺は地面に吹き飛んだ。


「何やってんだお前、落ち着け!」


 榊下グループの一人が、俺にタックルをしてきたのだ。

 何も知らないのに、なんで邪魔をする。

 興奮状態の頭でも、その答えは簡単に出てくる。

 榊下が、俺より人望があるからだ。

 周りから見れば、俺が突然榊下を殴り付けたように見えたのかもしれない。

 俺は跳ねるように飛び起きて、再び榊下へ掴み掛かろう両手を伸ばす。

 だが今度は身体を後ろから引っ張られ、誰かにがっちりと羽交締めされる。

 そして先生が割り込んできて、俺は何もできなくなった。


 ──俺は美濃に何もしてやれなかった。


 脳裏に純粋に楽しかった、夏頃の情景がフラッシュバックする。

 爛々と輝く太陽の光から逃れられる、中庭のベンチ。

 そこでは、美濃が笑っている。皆んな笑っている。

 俺も、そして榊下も。

 どうしたら良かったのか、俺には分からない。

 どうすればあの日常を守れたのか、きっとこれからしばらくの間考え続けることになるだろう。

 だが、今分かることがたった一つ。

 俺も、美濃から逃げていた。

 会話も少ない。近付こうともしない。美濃が話しかけてきても、無意識に会話を短めに切り上げる。

 周りの視線が気になるからという、自己保身のために。

 俺も、同じだ。

 このクソ野郎たちと、同じだ。

 目頭に熱いものが込み上げてきて、俺は歯を食いしばった。

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