第45話 温泉旅行⑤

「じゃ、お風呂行こっかな」


 旅館へ戻ってきて数十分後。

 彩華は空になった茶菓子の袋をくしゃりと丸めながら、そう言った。


「おう、いってら」


 俺は三つ目の茶菓子に手を伸ばしながら返事をする。

 熱いお茶を少しずつ飲みながら、茶菓子を食べるのが温泉旅館で味わえる至福のひとときだ。

 茶菓子を咀嚼する俺の姿を見て、彩華は肩をすくめた。


「食べすぎじゃない? ご飯前にそんなに食べると、お腹いっぱいになっちゃうわよ」

「いいんだよ、温泉で汗かいてカロリー消費すっから。それにお前も美味しそうに食ってたろ」


 この後夕食が部屋に運ばれてくるのは分かっているが、高級旅館は茶菓子も一流。伸びる手を止められないのだ。


「私は健康のためよ。温泉へ入る前に何かお腹に入れとかないと」

「え、食べた直後にお湯に浸かるのは控えた方がいいんじゃなかったっけ?」


 健康番組でそんなことを聞いたような気がする。

 いつどこで聞いたか全く覚えていなくても、いつの間にか知識として消化されていることはよくあることだ。

 そんな俺から発せられた曖昧な疑問に、彩華はかぶりを振った。


「それはあくまでお腹いっぱいになった場合。茶菓子一つくらいなら、血糖値を上げて身の安全を守ってくれるのに役立つわ」

「身の安全って、俺らまだ若いだろ」

「知らないの? お風呂での死亡事故って、今や交通事故より多いのよ」

「……お風呂こわ」


 毎日欠かすことのないルーティンとなっているお風呂に、そんな大きなリスクがあるなんてあまり信じたくない話ではある。

 それに今日は温泉旅行なのだ、万が一にもそんな事態に遭う訳にはいかない。


「じゃあもっと菓子食うわ」

「待って、食べすぎって言ったところでしょ。一個で充分だって!」


 そう言って彩華は俺の手から茶菓子を取り上げた。

 浴衣の袖が鼻先を掠める。


「おい! 健康のためだろ!」

「一個で充分って言ってんでしょ、そんなに心配なら私が見ていてあげるわよ!」

「何言って──」


 勢いで言おうとして、息が詰まった。

 本当に何を言っているんだ、こいつは。

 俺が返答をしあぐねていると、彩華は息を吐いた。


「冗談に決まってんでしょ」

「……なんだよびっくりしただろーが!」

「本気にするの方もおかしいと思うけど」

「ぐっ」


 ……まあ、それはその通りだ。

 敷居の高い温泉旅館に訪れているという高揚が、いつもの冗談を本気と捉えさせたのかもしれない。

 心臓に悪い冗談に、俺は苦笑いする。


「ま、冷静に考えりゃそんな訳ないもんな。じゃあ、とりあえず温泉楽しんでこいよ」


 その言葉に彩華は「言われなくても」と笑って、階段を降りていった。

 遠のいていく足音を、俺は頬杖をつきながら聞いていた。

 一階にはこの部屋に滞在する客専用の、内湯と露天風呂がある。

 そして内湯と露天風呂の境目には扉があった。

 ──正直。

 仮に俺が彩華に付いて行ったところで別の湯に入れば──という、男として当然抱いてしまう欲求が脳裏を過ってしまうことは否めない。

 何も完全な混浴というわけではない。

 二人で温泉旅行に来ているのだから、それくらいはいいかもしれないという、淡い幻想。


「──っ」


 まだ湯気の立っているお茶を一気に飲み干す。喉に焼けるような痛みを覚えたが、その代わり邪念を振り払うことはできた。

 これが、彩華のことを知らない普通の男ならば。

 二人きりで温泉旅行へ行くという事実を、例え付き合っていなかったとしても、そういう・・・・ことをしても許されるという判断の材料にしてしまうかもしれない。

 実際旅行などの予定を取り付けて、一夜を過ごしてから付き合い始めるカップルもいる。

 だが俺たちはカップルでもなければ、これから付き合う予定も、多分ない。

 彩華との仲を訊いてくる友達は、藤堂を含め複数人いる。

 それは俺が彩華と付き合いそうで付き合っていないという、微妙な距離感だと周りに思われている証拠に他ならない。

 周りに見られているという感覚を窮屈に感じたことも、一回や二回ではない。

 それでも周りからどう思われていようが、俺はこの彩華との関係がとても好きだから。その関係を崩してしまうことは絶対にしたくない。

 俺はそう思っていて、彩華も同じように思っているのだろうと踏んでいたのだが。


「……この状況」


 そんな言葉が口から漏れる。

 二人きりで旅行なんて、今までの付き合いで初めてのことだ。

 彩華がどういう考えで俺を誘ったのかは、よく分からない。冷静になって思い返してみると、彩華の軽い誘いに、俺も特に考えることなく了承していたが。

 もう少し考えてから返事をすればよかったのかもしれない。

 彩華が俺に信頼を置いてそういった誘いをしてくれたのは素直に嬉しいのだが、あいつは一つ勘違いをしている。

 俺と彩華は確かに親友だ。


 ──ただ、いくら親友であったとしても。


 先程までの彩華の浴衣姿を思い出す。

 上品な着こなしに加え、露わになったうなじから漂う艶やかな雰囲気。

 何も思わないはずがない。

 志乃原に負けず劣らずといった美貌を前にして、何も考えるなという方が無理のある話なのだ。

 こうした思考が、彩華の信頼を裏切る形になるのかは分からない。それは彩華が判断することで、そこに俺の気持ちが介入することはない。

 彩華は、もし俺が思考を持ち合わせてしまうことを知った時、どういった感情を抱くのだろうか。

 それも、その時になってみなければ分からない。

 結局人の気持ちなんて何もかも、想像の域を出ることはないのかもしれない。


 俺は胸のモヤモヤを晴らそうと、空になった容器に熱いお茶を再び注ぐ。

 注がれるお茶に、茶柱は抗うことができず沈んでいく。

 揺れ動く茶柱を眺めながら、俺は想起した。


 高校時代の、美濃彩華。

 俺と彩華が出会った、青い春の日のことを。

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