第44話 温泉旅行④
「奇遇ですね、先輩!」
志乃原は手を振って小走りしてきた。
周りの人はその光景を微笑ましそうに見ながら通り過ぎていく。
大学では間違いなく嫉妬の視線を多く感じるであろう状況だが、さすがは温泉街というところか。
家族連れや大人のカップルなどが多くを占めるこの場では、そういった感情を抱く人は少ないのかもしれない。
──そんなことより。
「奇遇ですねって、お前……」
クリスマスに開催された合コンの際も、同じような台詞で突入してきたのを思い出す。
あれから数ヶ月が経ったと思えば感慨深い気持ちも無くはないのだが、今重要なのは志乃原をこの場から連れ去るということだ。
ここにいる理由を訊くのはその後でいい。
「ちょっと来い」
「わっ」
手を掴んで、彩華が入った店の逆方向へと歩き出す。
二人を遭遇させるのは気が進まない。お互い反応に困っている場に一人佇むのはごめんだ。
数十秒歩くだけで元々いた路地は見えなくなり、人通りの少ない路地裏へと辿り着いた。
夕闇の頼りない光が閉ざされる。
「せ、先輩、こんな人気のない場所に問答無用で連れてくるなんて……」
「うるせえ、なんでいるんだお前」
あざとい声色で発せられた言葉を一蹴すると、志乃原は小鼻を膨らませた。
「奇遇って言ったじゃないですか、奇遇ですよ」
「そういやこの前この温泉街が載ってるパンフレット読んでたな。あれか」
一週間前、志乃原は俺が読んでいるパンフレットを覗き込んでいた。タイミングから鑑みるに、志乃原がここにいる理由は十中八九そのパンフレットだろう。
「まあ、そうですけど。だってパンフレットに載ってるこの温泉街、とっても魅力的だったんですもん」
「やっぱり。ったく、付いてきたいならそう言えって」
思わず息を吐くと、白息が視界に広がる。
すると、志乃原は「いやいや」と首を振った。
「違いますって。今日会ったのはほんとに偶然ですよ。私、今別の人と来てますから」
「へ?」
間抜けな声が出た。
志乃原の表情からも嘘を吐いているようには思えず、俺は一旦深呼吸する。
「なんで深呼吸してるんですか?」
「ほっとけ、いやちょっと待って」
……考えてみるとパンフレットから分かるのは場所だけで、俺が行く日時までは分からない。
志乃原に日時を事細かに伝えていたわけではないので、今日この場に志乃原がいるのは本当に偶然なのかもしれない。
そうなると、今の俺の発言はただの間抜けということになる。
「……冷静じゃなかった。悪いな」
本当に奇遇だったのか。
そう結論付けて、俺は謝罪する。
「まあ、先輩がいたら面白いなーとは思ってましたけどね。ほんとにいるなんて、これはもうアレですね、運命の赤い糸!」
「はいはい、ご馳走さま」
「もー、なんで流すんですかー!」
志乃原はむくれて不平を言った。
反応したらしたで、微妙な表情をされそうなのが嫌だと言いたい衝動をぐっと堪える。
「んで、志乃原は誰と来てんの」
「お、いい質問ですね。質問されなかったらどうしてやろうかと思いました」
「やだ、俺殺されるの?」
「さすがに社会的にしか殺せませんよ〜」
「一番怖いやつじゃねえか!」
志乃原はケラケラと笑った。
軽いノリで喋れるということは、恐らく相手は学部の友達といったところだろう。
「ぶっぶー」
志乃原は俺の思考を読んだように、両手の人差し指を口元で交差させた。
「正解は、バイトの人とでした!」
「よく俺の考えてること分かったな……」
数ヶ月の付き合いといえど、密度は濃い。
普段なら一人で過ごしていたような日にも家に入り浸るようになっているのだから、当然だ。
何を考えているのかを察することができるようになってくる時期なのかもしれない。
「バイトで仲良かった人、連絡先分かったんだな。よかったじゃん」
「おお、バイトの人って言うだけでそこまで伝わるとは。さっきからなんか以心伝心ですね」
志乃原がバイト先で仲良かった人の連絡先が分からないと凹んでいたのは、つい先日のこと。
それくらいは分かっても不思議ではないのだが、口に出すのも野暮なので「そうだな」と言って頷く。
志乃原も満足そうにコクコクと頷くと、嬉しそうに口を開いた。
「バイト先に制服返しに来てたところで偶然会えたんですよね、ほんと最近の私めちゃめちゃついてます。先輩にもこの幸運分けてあげたいです」
「その恩恵に預かりたいところではあるけどな。そういうことならそろそろ合流しないとまずいんじゃないか?」
今頃彩華も俺を探しているかもしれない。
幸いそろそろ夜の帳が下りる頃合いだし、一旦旅館へ入ってしまえば遭遇することはないのだから、早々に解散するのが賢明な判断だ。
「先輩がこんなところまで連れてきたんですけどね」
……ぐうの音もでない。
早とちりでここまで連れてきた本人が言うことではなかったと、俺は頭を掻く。
「ごめん。そのバイトの人にも、謝っといて」
「分かりました。じゃあ、ここで解散しますか?」
「え?」
再び間抜けな声が出た。
志乃原には、事前に男グループで温泉旅行へ行くと伝えてあった。
そのこともあって、てっきりいつかのサークル活動のように、グループに押し掛けてこようとするんじゃないかと危惧していたのだが。
志乃原は俺の表情から何かを察したようで、苦笑いした。
「私のことなんだと思ってるんですかー。先輩のグループに無理やりお邪魔はしませんよ。サークルとかと違って、今日はほんとのプライベートですしね」
「おお、珍しい……」
思わず漏れた言葉に、志乃原は口を尖らせた。
「珍しいんじゃくて、これが私の通常運転なんです! ……多分!」
「なんで自信無さげなんだよ」
一瞬で軌道修正した後輩に、俺は思わず笑ってしまう。喜怒哀楽の激しいやつだ。
細かな感情の起伏をありのままに発言する後輩は、話していて退屈しない。
「だって常識とか、人によって捉え方も違うじゃないですか。断言はできませんって」
家に入り浸っていることを思い浮かべたのか、志乃原は唸った。
それこそ杞憂というものだ。
一人暮らしの学生にとって、家事を手伝ってくれる存在もいうのは喉から手が出るほど欲しいものなのだから。
「その分ご飯作ってくれてんだろ。大丈夫だよ」
俺が言うと、志乃原は目を輝かせた。
「そっか、先輩本人がそう言うなら私がとやかく考えることもないんだ!」
……その結論は間違っていないのだが、こうも瞬時に判断されると否定したくなるのは一体どうしてなのだろう。
俺は肩を鳴らして、「じゃ、解散すっか」と言う。
すると志乃原は眉をひそめた。
「解散するのはいいんですけど。ちょっと、先輩」
「ん?」
「……ずっと待ってたんですけど」
キョトンとする俺に、志乃原は小物入れを太ももへぶつけた。
「浴衣ですよ! どんだけ無反応なんですか!」
「あっ」
端麗な容姿と華やかな浴衣の組み合わせに最初は目が眩んだものの、途中からそれどころでなくなっていた。
ようやくジッと志乃原を見つめる。
「……どーです?」
志乃原は控えめな上目遣いでこちらを窺ってくる。
俺は顔を逸らして、感想を伝えた。
「……綺麗っすね」
「あはは。照れ隠し下手なんだー」
志乃原は手を口に当てて笑う。
俺は人を褒めるという言動に苦手意識がある訳ではない。
だがこうして改めて求められると、気恥ずかしくなってしまうのはどうしようもないことだ。
「じゃー先輩、またね」
「おう」
俺の返事に、志乃原は口に弧を描いて応えると、元気に下駄を鳴らして大通りへと小走りで戻っていく。
少しずつ小さくなっていく背中を見届けようと、俺は壁にもたれた。
壁に目立つ汚れはない為、浴衣が変色することもないだろう。
……そういえば、俺も浴衣を着ていたのだが、何も言われていない。
「俺にだけ感想言わせといて……」
感想を求めている訳ではないが、自分だけ感想を言わされたという事実が癪だ。
俺は小さくなっていく後ろ姿を恨めしげに眺める。
すると志乃原の朱色の浴衣姿が、狐面の浴衣姿の影と交差するのが見えて、跳ねるように姿勢を戻した。
「……間一髪だな」
朱色の浴衣姿は狐面の中身に気付くことなく、そのまま去っていく。
狐面の浴衣姿はその後ろ姿に一瞬目を奪われた様子だったが、表情は狐面に隠れて確認することはできない。
やがて狐面を被った彩華は、俺に近付いてきてこう言った。
「──あんたって、運悪いの?」
そう言って狐面を外した彩華は、どこか諦めたような表情だ。
俺も苦笑いして「多分」と頷いた。
今しがた志乃原から幸運を分けてもらったはずなので、効いてくるのを待つしかない。
俺と彩華は再び狐面を装着して、温泉旅館へ戻るため足を進める。
狭い視界から、提灯の灯りがチラついているのが見えた。
───────────────────────
いよいよ明日が発売日!
12月シーズンに発売できるのも、ひとえにこのWeb版から応援してくださっている皆さまのお陰です。本当にありがとうございます!
2巻を出すのには初週、その翌週の売上が重要だということで……少しでもご興味を持っていただけた方は文庫版でも楽しんでいただけたらと思います。
3万字程度の加筆がありますので、真由、彩華がお好きな方には喜んで頂けるかと……!
特典情報は活動報告にてお知らせしております。
詳しくは特設ページやツイッターにて。
それでは文庫版も楽しんでいただけることを祈りながら、失礼致します!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます