第42話 温泉旅行②

 旅館は俺が思っていたより何倍も風雅な館だった。

 チェックインをする際のフロントは伝統的な日本建造を思わせる木造でありながら、どこか洋風な雰囲気も漂わせている。

 和と洋が折り重なった絶妙なバランスで保たれている空間に、俺と彩華は暫くうっとりとしてしまう。

 そして、俺たちが泊まる客室はというと──


「広いな、おい!」


 二人が泊まるにしては、十分すぎるほど広い。

 畳の部屋と広縁が別れているのは一般的なそれと変わらないのだが、規模が違う。


「寛ぐ場所と寝室が別れているのね。……っと、肝心の露天風呂は一階か」

「……すげえなこの客室」


 思わず感嘆の声が出る。

 この客室は二階建なのだ。

 一階に風呂場、二階に寝室。もちろん客室の風呂場なので、その客室に泊まる人しか入ることができない。

 一階は広大なオープンテラスとなっており、内湯からも空が一望できるという仕様。


「ロケとかで使われそうな客室だな。芸能人とかが泊まってそう」


 素直な感想が口から漏れる。

 客室の写真をSNSに上げる人の気持ちが少しだけ理解できた。確かにこれは自慢したくもなる。

 だがここでその発想が浮かぶのは、こういった場所に慣れていない証拠でもある。実際慣れていないのだが、それを自ら認めるのは何だか癪に触るので、俺はポケットから出しかけていたスマホをしまい込んだ。

 階段を降りていくと、その先は脱衣所だった。

 今は仕切りで見えないが、脱衣所の先に露天風呂が広がっているのだろう。

 先に脱衣所に着いていた彩華が何かを読んでいるのが見えた。

 覗き込むと、露天風呂の仕様を確認しているようだ。


「へぇ、御影石……どうりで高級感があるわけね」

「聞いたことあるくらいだな。やっぱりこういうところでしか採用されないような石なのか?」

「知らないわよそんなの」

「今の呟きはなんだったんだよ……」


 呆れて言うと、彩華は軽快に笑った。


「こういう高級な場所では、とりあえず分かったような口振りで感心しておくと間違いないのよ」

「間違い……ないか?」

「あんたがつっこんでこなきゃボロも出ないわよ」


 彩華は口を尖らせ、浴場へと足を踏み入れる。

 屋内には内湯、屋外には露天風呂。

 この二つがこの旅館に泊まった人だけの空間という訳だ。

 内湯にはまだお湯も入っていないが、泳げるくらいの広さがあることが分かる。


「一人で入るのには広すぎるな」

 

 俺が呟くと、彩華も同意した。


「そうね。でも、こんな広いところで一人っていうのも贅沢じゃない?」

「まあな。温泉に一人って結構珍しいし」

「そうそう。一度こういう広い浴槽のど真ん中で、お湯に浸かってみたかったのよね」


 それも開放感があって良いかもしれない。

 幼少期に、人の少ない銭湯でクロールをしたことを思い出す。あの頃は他人へ配慮するという意識がまるで存在していなかったが、今は違う。もう一生あんなことをする機会はないと思っていたが、この場なら誰にも迷惑をかけることはない。


「……あんた、変なこと考えてない?」

「うん、クロールしたいって思ってたな」


 素直に言うと、彩華はドン引きしたような表情を見せる。顔で正気? と語ってくるようだ。


「したいだけで、やらねえよ」

「どうだか……あんたってたまに頭おかしいから」

「失礼な!」


 さすがにこんなお高い場所でクロールをするほどお子様ではない。少しばかり童心が蘇ってしまっただけだ。

 外に出る彩華へ付いていくと、眩い陽光が露天風呂から反射していた。

 彩華は身体をぐっと伸ばして深呼吸する。


「んー、気持ちいい。来た甲斐があったわね」

「まだ来てから何もしてねえじゃん」

「またあんたはそういうこと言う。ちょっとは合わせなさいっての」


 彩華は呆れ顔で「この先苦労するわよー」と付け足してきた。

 発言を相手の意見に合わせること。この社会では、世を渡っていく上で必須のスキルだ。それは学生同士においても同じこと。

 自分が否と思っていても、肯定した方が自分にとって益があるという場面には、生きていればいくらでも遭遇する。

 要所要所を見極めて発言することが、上手い世の渡り方だと俺は思う。そして、彩華はそれが上手い。

 誰もが、自分の楽しいと思ったことを否定する人よりは同意してくれる人と一緒にいたいと思うから。

 ただしそれは、本当に仲良くなる一歩手前までの話。


「いいじゃん、俺とお前の仲だし」

「私はいいけど……あれ、じゃあ別にいいのか。今日は二人だもんね」

「そうだろ」


 彩華のほかに誰かがいるなら、配慮を込めた発言をしていた。彩華に対しても、気を遣えないということはない。

 だが彩華と二人きりの時に本音を言わなければ、俺は一体いつ本音を言えばいいのだろうか。

 生きていく上で、いつも本音を話すことのできる相手は必要だ。

 そして俺にとっての相手は、高校の時からずっと変わらない。


「じゃ、今日も気楽にいきましょうか」

「おう」


 彩華は柔和な表情を浮かべて、屋内へ戻っていった。

 俺ももう一度だけ露天風呂を眺めてから、彩華へ付いていく。

 屋内へ入る寸前、柔らかい風を肌で感じた。

 春風に煽られる枝葉のさざめきが、耳に心地よい響きを残してくれた。


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ちなみに、書籍版は約三万字ほどの加筆をしています。お楽しみに!

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