第41話 温泉旅行①
温泉旅館『
周りが山で囲まれているため民家などは少ないものの、温泉街は大勢の人で賑わっているらしい。それほど名の知れた温泉なのだろう。
季節は三月、徐々に気温が上がり始めた上旬。
今日は彩華との温泉旅行の日だ。
お昼に集合し、今はバスの中で揺られている。スマホをいじったり、たまに雑談したりと、ゆっくりした時間が流れているので体力はまだ満タン。
これからバスを降りて旅館にチェックインし、荷物を置いてから温泉街へ繰り出す予定だ。
「もうすぐ着くわね」
隣に座っている彩華が、窓の景色を眺めながら言った。
俺もスマホゲームを閉じて、彩華越しに景色を確かめる。
「良い雰囲気じゃん」
そう言葉を漏らすと、彩華が耳をぴくんとさせた。
「ち、近い」
「あ、わりい」
景色を確かめることに集中して、いつの間にか彩華の顔が目と鼻の先にあった。比喩ではなく、本当に。
乗り出していた身体を席に戻すと、彩華はクスリと笑った。
「夢中になって距離感分からなくなってたのね」
「自分でも意外だわ、こんな景色に捉われるなんて」
徐々に窓から流れる景色の速さは落ちていき、もうすぐ目的地だということがアナウンスによって告げられる。
昔ながらの温泉街は、田舎に住んだことのない俺にとって何もかも新鮮に映る。煌々と輝くイルミネーションとは、また違った趣があるようだ。
「着いた。行くわよ」
バスが徐行から停止にかけてノロノロと進んでいると、彩華が立ち上がる。
俺たちが座っているのは、運転手に一番近い席。早めに席を立てば、一番先にバスから降りられるはずだったのだが。
「うおっと」
立ち上がったタイミングでバスが停車して、バランスを崩す。窓際によろけると、彩華が身体を支えてくれた。
「気を付けなさい」
「イケメンかよ……」
「なによそれ」
一旦体制を整えるために座り直すと、通路側は既に乗客の長蛇の列で埋まっていた。
目的地は皆んな同じ温泉街だ。
家族連れや、老夫婦、様々な人たちが列に並んでいる。
温泉街には敷居の高い旅館が集まっていることもあって、学生らしき人は殆どいないように思えた。そのためか、列の進みは異様に遅い。
「タイミング逃したわね。ちょっと出られそうにないかも」
「だな。悪いな」
「ううん、急かした私が悪いわよ。本来停車まで席を立っちゃいけないしね」
そう言って彩華も座り直す。リクライニング席にもたれると、丁度いい弾力が押し返してくれた。
窓越しにも、温泉街が人で賑わっているのが分かる。ジブリなどで出てきそうな館も並んでいて、今からあそこへ行くのが楽しみだ。
「そこのカップルさんや。先どうぞ」
通路側から声が掛かる。
俺と彩華は、恐らく同時に振り向いた。
老夫婦が立ち止まり、道を空けてくれている。
「俺たちのことですか?」
俺が訊くと、彩華がパシリと肩を叩いた。
「バカ、そうに決まってるでしょ。早く立って」
「お、おう」
急かされるように立ち、老夫婦の前に入れてもらう。
すぐに降車口だったので、とりあえずバスから出て老夫婦を待つ。
降りてきたのは、上品な服に身を包んだ老夫婦だった。
「ありがとうございました」
彩華がぺこりと頭を下げる。俺もそれに倣ってお礼の言葉を口にした。
「ありがとうございます。わざわざ立ち止まってまで列に入れてくださって」
それを聞くと、お婆さんはコロコロと笑った。
「いいえ、とんでもない。若いカップルを先に行かせてやれって、お爺さんが言うものですから」
「なに、若い頃を思い出してな。後ろの乗客には迷惑かけてしもうた」
高価そうなジャケットを着たお爺さんも照れ臭そうに笑う。
何と返事すればいいものかと思案していると、先に彩華が口を開いた。
「着いた途端にこんなお気遣いいただいて、とっても嬉しいです。良い場所なんですね、この温泉街」
彩華はカップルということを否定しなかった。
そのことに少し驚きはしたが、気持ちは分かる。
友達二人で来ています、と言うことで顰蹙を買うリスクを背負うのであれば、そのまま話を通してしまった方がお互い気持ちの良い会話ができるからだ。
彩華の言葉に、お婆さんは嬉しそうに頷いた。
「そうなのよ、私たちもかれこれ四度目なんだけどねぇ。日本の良いところをギュッと詰め込んだような、とても贅沢な場所なの」
更に言葉を続けようとするお婆さんに、お爺さんは苦笑いを浮かべた。
「これ婆さん、これ以上二人の時間を奪っちゃいかんぞ。わしらと違い、若い時間は貴重なんじゃ。老い先短いわしらが、二人の歩みを止めちゃいかん」
「あら、そのつもりよ? それに、私たちの時間も貴重じゃないの。老い先短いんだからねぇ」
お婆さんの言葉にお爺さんも「まったくだ」と笑う。
二人の間には、俺の想像がつかないような時間が流れている。そう思わせるようなやり取りだ。
そして、老夫婦は一緒に軽い会釈をした。
「それでは、楽しんで。末永くお幸せに」
「あ、ありがとうございます」
俺と彩華は会釈を返す。
老夫婦はゆっくりと旅館へ歩いて行った。
旅行には一期一会はつきものだ。それが旅行の一つの良さでもある。初っ端からあの老夫婦に会えたのは、幸先がいい。
「あんな風になれたらいいわね」
「……は!?」
横から聞こえてきた呟きに、俺は驚いて声を上げる。
彩華は「なによ」と言う表情で俺を見たが、やがて気付いたらしく顔を赤らめた。
「ち、ちが、あんたととか、そういう意味じゃないわよ!」
彩華が珍しく動揺する。
自分より動揺する人を見ると冷静になるのが世の常だ。
呟きが聞こえた瞬間は、カップルということを否定しなかったのは俺が考えていたものと別の理由があったのかもしれないという疑念が生まれかけた。
澄まし顔を繕うと、その疑念も霧散する。
「冗談だよ」と言うと、彩華はじっとこちらを見た。
俺は本気で勘違いをしていたのだが、今の動揺した彩華にはバレない自信がある。
志乃原も実はこんな感じで俺をからかっているのではないだろうか。確かめる
「なによ、生意気な……」
彩華はぷいっと顔を逸らし、息を大きく吸う。
次にこちらへ向き直った時は、いつもの表情に戻っていた。
もっとも、それも取り繕ったものだろうということは、耳の赤さで分かる。
「ほら、私たちも行くわよ」
「別れた途端あの夫婦に追いつくの、何か気まずいだろ。もうちょいここでゆっくりしようぜ」
「……ま、それは言えてる」
立ち止まって、俺は空を見上げる。
春にしては、まだ肌寒いこの季節。
澄み切った青空が、俺たちを歓迎してくれているようだ。
「晴れて良かったな」
俺が言うと、彩華は頷いた。
「本番は、ご飯とかが出てくる夜だけど。でも、そうね。晴れるに越したことはないわ」
彩華も空を見上げた。眩しそうに目を細める様子に、俺はどこか微笑ましい気持ちになる。
後ろでバスが発進する音が聞こえた。
都会から運んできたバスが、この贅沢な空間と外を繋げる唯一の交通手段。
世の中の喧騒から隔離された場所に、俺たちはいる。
その事実が俺の気分を高揚させた。
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