第40話 パンフレットが呼び込む小悪魔な後輩

 彩華との温泉旅行が決まってから、数日が過ぎた。

 予定ではあと一週間余り。春休みということもあり体感時間ではもうすぐそこに迫ってきている感覚だ。

 ベッドに腰を下ろしている俺は、温泉街の魅力を余すことなく伝えるというパンフレットを片手に、何度も足を組み直す。

 楽しみではあるのだが、どこかそわそわした気持ちにもなる。そして、肝心の温泉を一人で入らなくてはならないという現実。旅行の本番は、旅館でとる豪華な晩御飯になるだろう。


「……む」


 気配を感じて、パンフレットから視線を外す。

 瞬間、髪の毛が鼻先を掠めた。


「うおっ!?」


 思わず仰け反る。それにつられて足が上がり、その足に後輩が引っ掛かる。


「きゃあ!?」


 結果、志乃原が俺にぶっ倒れてきた。傍から見れば、志乃原に俺が押し倒されている図。 普通逆だろ。

 柔らい何かが顔面を包み込んできて、俺はすぐさま抜け出そうとする。

 健全な男として甘美な感触を確かめたい気持ちは当然存在するものの、後々の代償を考えればそんなことはしていられない。

 逃れようと志乃原の脇を掴んで引き剥がそうとすると、志乃原が変な声を上げた。


「ちょ、先輩……!」


 普段耳にしないような声色に動揺しつつ、次に取るべき行動を考える。

 素直に謝るか、開き直るか。

 むしろ怒るか。

 ──攻撃は最大の防御なり。

 何とか志乃原から離れた後、俺は仁王立ちした。


「なにぶっ倒れてきてんだよ!」

「え!? 先輩が怒るの!?」


 志乃原はベッドに転がりながら仰天した。

 今の志乃原は部屋着で、外行きの服はハンガーに掛かっている。だからあんなに生々しい感触だったのかと、思わず頬を抓る。


「いや、無言でパンフレット覗き込んでた私が悪いから強ちその対応は間違いでもないですけど……」


 そう言いながら志乃原は自分の胸をそっと撫でる。

 恐らくそこが先ほどまで俺の顔が当たっていたところなのだろう。柔らかな感触を思い出し、「いや、まあ俺も悪いけど」と小声で言った。

 足が引っ掛かったのは事故以外の何物でもないのだが、志乃原も責められる行為をしていた訳ではない。

 それに思っていたより志乃原が怒りそうな気配もないので、俺が今しがたとった行動はただの大人気ない行動に成り果ててしまった。


「まあ、一緒にいたらこういう事故もたまには起こりますよね。多分」


 志乃原はそう言って笑う。

 本人はあまり気にしてなさそうなところを見ると、最初から素直に謝っておけばよかったと思う。

 急にあのような状況に出くわしたので、冷静な判断をできなかったのは仕方ないともいえるのだが。


「で、どうでしたか?」

「はい?」

「いや、感想ですよ。どうでした?」

 

 志乃原の顔をまじまじと見る。目の前で寝転がっている後輩が、正気かどうかを確かめるために。

 すると志乃原はそこで初めて動揺したように目を逸らした。


「……そんなに見つめないでください」

「照れるとこそこかよ」

「照れてないです。気まずくなっただけです」

「嘘つけ」

「嘘じゃないです」


 ラチがあかないので一旦口を閉ざす。

 間違いなくこの後輩は今照れたが、照れるところがおかしい。感想を訊くだなんて、恥じらいというものがないのだろうか。


「で、感想は?」

「そこそこだ、そこそこ」


 こんな質問、真面目に答える方がどうかしている。

 俺は適当に流すと、床に座り込んだ。


「ええ、そこそこですか。……そっかぁ」

「……おい」


 何故かシュンとしてしまう志乃原に、俺は唇を噛んだ。

 ここで「大変良かったです」と言えばからかわれることは必至だ。

 だが、それでも、不慮の事故だということを鑑みるにしても。胸に触れた感想が「そこそこ」では、傷付いてしまうのかもしれない。


「……大変宜しゅうございました」


 せめてもの抵抗で芝居口調で言う。

 志乃原はそれを聞いて口角を上げた。それはもう、素敵な笑顔で。


「よくできました、もー素直じゃないですね!」

「……ハナからそういう腹か!」

「そりゃあ、タダで許すほど安くないですもん。せめてお褒めの言葉くらいは頂戴しないと、割に合いません」

「そすか……」


 疲労困憊の俺を見て、志乃原は首を傾げた。


「それ踏まえても、絶対普通の男子なら嬉しいと思うんだけどなぁ」


 志乃原の言う通り、多少の役得感があるのは否めない。

 だがそれを口に出す訳にはいかない。

 何もしないという信頼関係が、俺と志乃原の奇妙な共同生活を支えているのだから。

 ……なんだかんだと、俺はこの生活を気に入っているらしい。


「腹減ってきたな」

「じゃあ、今日は麻婆豆腐にしますか」


 志乃原はあっさりと話題を切り替え、起き上がった。

 お腹をすかせたら、可愛い後輩が美味しい料理を用意してくれる。こんな環境に身を浸していれば、一時の衝動に身を任せるのは些か勿体ない。

 エプロンを腰に巻く志乃原の後ろ姿を眺めながら、俺は改めてそう思う。


「見られてると手元狂うんで、いつも通り漫画でも読んでてくださいね」

「いつも悪いな」

「好きでやってることなんで。お礼はヴィヴィアンの指輪でお願いします」

「文脈おかしくね? 無理だわそんな高い物」


 以前にも高価な財布をプレゼントしたばかりなので、とりあえず却下しておく。感謝はお金で表すものではないのだ。……そんな考えが綺麗事だということも分かっているが、一人暮らしの学生財布事情を考慮して許してほしい。


「ジョークですよ。先輩のお財布事情くらい把握してますから」


 志乃原はニヒヒと笑ってから、腕を捲る。

 キッチンに立つ志乃原のエプロン姿は、もうすっかりこの家に馴染んでいた。

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