第39話 志乃原の憂鬱

 結局、温泉旅行はツアーなどに参加せず、一日を気ままに過ごすという話で落ち着いた。

 そもそも温泉街と旅館だけで、お釣りが来るほどの体験ができるのだ。一日に行動できる人間のキャパシティは限られているし、それ以上を望んでもいいことはない。


「旅行だったら、とことん贅沢したくないですか?」

「贅沢する為に体力消費して、一番楽しみたい時にくたばってちゃ本末転倒だろ」

「……男子同士なら、それもあり得ますね。限度を知らなそうですし」

 

 志乃原は俺の話を聞いた後、そう言った。

 旅行相手のことは、彩華ということを伏せて高校の男友達複数人ということにしている。

 最初にそれを言った時は若干憐れみの色が混じった目で見られたので、後ほど何かしらの形で弁明したい。


「ほっとけ。それより、なんだって今日も家に来てんだよ。バイト終わりだろ」


 朝に電話が来て、今は夜。少なくとも八時間以上のシフトに入っていただろうに、何故か志乃原は家にいた。


「やだなー先輩ったら。本気で言ってるんですか?」

「んだよ」

「先輩に会いたかったからに……決まってるじゃないですかっ!」

「あっそ」

「つめた!?」


 ウインク付きのからかいを無視して、俺は本棚から漫画を取り出す。お気に入りの漫画を開こうとすると、志乃原が「待ってください!」と制止した。


「なに?」

「えっとですね。先輩、一度漫画読み出すと全然相手にしてくれないから。とりあえず止めました」

「そうか」


 俺は構わずページをめくり始める。この漫画は来週に新刊が出る。その前に内容を復習しておけば、新刊を倍楽しむことができるのだ。

 その内容はというと──


「……」


 視線が痛い。チラリと見ると、志乃原がジッとこちらを見つめている。


「……分かったよ。どうしたんだ今日は」


 パタンと漫画を閉じて、訊いた。

 いつもの志乃原なら、俺が漫画を読み出すと自分も好きなことをして過ごし始める。

 互いに一人の時間を尊重し合っていたからこそ、家に通われてもストレスフリーだったのだ。

 もっとも、ご飯を作って貰っているので多少のことは許容しなければいけない立場ではあるのだが。


「バイトでなんかあったのか?」


 朝の電話ではいつも通りだった。

 考えられるのはバイトの間だろう。


「先輩すごい。ほんとすごい」


 志乃原はパチパチと手を鳴らした。

 この様子なら大したことがあった訳ではないだろうが、一度した質問を取り下げるのも格好がつかない。

 俺は黙って答えを促すと、志乃原は少し間を置いてから口を開いた。


「バイト先で仲良くしてた人が、辞めちゃってですね」

「そっか。そりゃ残念だな」

「はい。まあ、それだけならまだ良かったんですけど」


 志乃原はそう言いながらクッションへダイブした。


「私、その人の連絡先知らないんですよね。もう一生会えないって思うと、なんか寂しくて」

「え? 仲良かったのにか?」

「なんか最近いつもバイト先で会うから連絡先が無くても困らなくて……ってあー。それでもやっぱり連絡先くらい交換しとくのが普通ですよねー」


 なんで交換しなかったのかなあ私、と志乃原はクッションでジタバタする。

 志乃原なんて、知り合ってからすぐに交換してそうなものだが。

 事実、俺は志乃原と知り合った初日に連絡先を交換したのだ。


「よっぽど気に入った人だったんだな」

 

 口に出すと、少しモヤっとした気持ちになった。

 志乃原が誰を気に入ろうが、前までの俺ならこんな気持ちにならなかった。

 共に過ごす時間が長くなってきた弊害だ。

 ただの日常会話でも、こうした感情の起伏が起きてしまうのがいい証拠。


「そうですね、気に入ったっていうのはなんか偉そうで嫌ですけど。別に相手は男じゃないですしね」

「あ、女の人の話だったのか?」


 ……思い返せば、そのバイトの人が男だということは一言も言っていなかった。

 早とちりしていたのか。


「……あっ、なるほどですね」


 志乃原がニヤリと笑う。

 それはもう、ここ最近で一番の悪い顔だった。

 早とちりしたことを隠そうとしていたが、遅かったようだ。


「もー先輩可愛いんですから。そんな訳ないじゃないですか!」

「うっせ、そんなんじゃねえよ。また恋愛で失敗されると、一緒にいる俺の株まで下がるだろうが」

「うぇぇ……なんですかその逃げ方ぁ……」


 言いながら自分でもそう思った。今のと同じような事を言ってのけるのが彩華なのだが、どうやらこの言葉は誰から発せられるかで効力が変わってくるらしい。

 どんな言葉にも言えることだろうが、やはり借り物の言葉じゃどうしても浅くなる。


「もうちょっと、なんかこう、くださいよ! 私を慰める良い言葉!」

「お前は俺になにを求めてんだよ……」


 志乃原はクッションを上にぽーんと投げて、またキャッチする。


「心の安定剤ですかね?」

「薬扱いかよ」

「言い方の問題ですよそれ。先輩といる空間が安心できるって言ったら、なんかポイント高そうじゃないですか」

「それ本人に言ったらマイナスだけどな……」


 まあ、確かに悪い気はしない。

 そもそも悪い気がしているのなら初めから家になんて上げないのが俺の性格だ。それくらいは自分でも分かっている。


「あ」


 志乃原の視線を辿ると、時計の針はもう二十三時を回っていた。毎度毎度のこと、遅い時間まで残りすぎだ。


「明日もバイト早いんで帰りますね。ありがとうございました」

「明日もバイトだったのかよ、タフなやつだな。……まああんまり気を落とさず、頑張れよ」


 気の合うバイト仲間がいるのといないのとでは、時間の過ぎる速さが違う。

 少なからず、俺も志乃原の気持ちは分かっていた。


「連絡先交換できなかった人と会う方法がないって、こんなに不便に感じるものなんですね」

「まあ、このご時世誰とでも繋がれるからな」


 会ったことのない人とでも、連絡先を交換できる時代だ。

 バイトで同じ時間を過ごした仲良い人が連絡すら出来ない状態になるということは、一際哀しく感じるのかもしれない。


「先輩は──」

「いなくならねえよ。いいから帰れ」

「……私の言いたいこと、言われたいことを瞬時に察知しサラッと発言する……とんでもない先輩ですね」


 志乃原はわざとらしい声色で驚きを表す。

 玄関の前でブーツを履くために屈んでいて、表情までは見えないけれど。

 何となく、今の志乃原の表情は想像できる。


「明日もバイト頑張れよ」


 志乃原の頭に、ポンと掌を乗せる。

 俺を見上げた志乃原は、普段とは違った笑顔で返事をした。


「……はい!」


 多分この笑顔が、俺の日常を彩ってくれている。

 口には出さないが、それだけは間違いなかった。

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