第35話 雫

 会場から出ると、礼奈はエレベーターのボタンを押した。

 間も無くエレベーターが到着し、二人で乗り込む。

 ドアが閉まり閉鎖的となったその空間で、礼奈は一言も発しない。


「なあ、ビルから出る必要は無いんじゃないか」


 俺がようやく訊くと、礼奈は少し時間を置いて答えた。


「あんまり聞かれたくないじゃない。地下の駐車場なら、誰もいないと思うし」


 その言葉に光を放っているボタンを見ると、そこにはB1と書かれている。

 ──駐車場こそ人が集まりそうだけど。


 そう言おうとした矢先、エレベーターから到着の音が流れた。

 仕方なく付いていくと、駐車場に繋がるロビーに人気はない。不思議に思っていると、礼奈が口を開いた。


「この駐車場を利用できるのって、ビルの関係者だけなの。今日は休日だから、滅多に人は来ないと思う」

「……なるほどな」


 辺りを見渡すと、俺たちがいる場所は少し広めの待合室といった具合だ。

 ドアを開くと駐車場に出られる。


「ここで話しましょ」


 礼奈はそう言って、ベンチに腰を下ろした。

 この空間にあるのは二つのベンチと、小綺麗な自動販売機のみ。

 俺は自動販売機からカフェオレを購入し、礼奈の隣に座った。


「相変わらず好きなんだ、カフェオレ」

「まあな。一週間に三回は飲まないと気が済まない」


 礼奈は僅かに口角を上げた。


「変わらないね。前も同じこと言ってたよ」


 礼奈の言う"前"とは、十中八九付き合ってた頃のことだろう。

 俺は此処に談笑しに来た訳ではない。その事を改めて思い返して、俺は無表情を貫いた。


「怖いよ、悠太くん」

「元々こんな顔だ」

「嘘ばっかり。だって悠太くんのそんな顔、私全然見たことないもの」


 礼奈はそう言ってクスクス笑った。

 付き合っていた頃と変わらない仕草に、俺は顔を背ける。


「チョコは何個貰えた?」

「……一個」

「じゃあ、これで二個目だ」


 肩に微かな感触を感じ振り向くと、丁寧に包装されたチョコが差し出されていた。


「二人の時じゃないと、渡せないと思って」

「これ、手作り?」

「うん、もちろん」


 付き合っていた頃、礼奈はあまり料理をしなかった。お菓子作りをしていた記憶もない。


「ほら、いらないって言っても無理やり持たせるんだからね」

「……じゃあ貰っとくけど」


 ──受け取らない選択肢を取るのが良かっただろうか。

 元カノからのチョコを受け取るのは浅慮な気もしたが、拒む気にはならなかった。

 掌に乗せられた包みを一瞬眺めて、俺はベンチに置いた。

 礼奈といる時間は、思っていたよりもずっと落ち着いたものだった。

 俺たちが別れてから二人きりになったのは今日が初めてであることから、もっと殺伐とした空気になるのではないかと思っていたのだ。

 いざ礼奈を前にして、そうした感情が浮かんでこないのは自分でも意外だった。


 本題である、浮気の弁明。

 礼奈はなかなか本題を切り出さず、当たり障りのない話をしていく。同じく俺も、普段通りに喋っている。

 礼奈と別れてもう数ヶ月が経った。

 こうして二人きりで話をしていると、ほんの少しではあるが、付き合っていた頃に戻ったかのような錯覚に陥る。

 学生の一年という期間はそれほどに長い。


 だが、彩華が今頃会場で心配していることだろう。彩華の意見を聞き入れずに礼奈に付いて行った俺に何が起ころうと、自業自得のはずだ。

 それでもなんだかんだと心配していそうなのが、俺の知る彩華だ。なるべく時間は掛けたくない。


「ねえ。今何考えてるの?」

「え?」


 唐突な質問に、思わず間抜けな返事をする。

 そんな俺の様子に礼奈は息を吐く。


「変わらないね」


 ……何が変わらないのか。

 その答えを考えていると、礼奈が先に口を開いた。


「浮気してないよ、私」

「……あぁ。その根拠を聞きに来たんだ」


 穏やかに過ぎていたまやかしの時間が終わりを告げる。

 もう、充分。

 俺も礼奈も、恐らく先程と表情は違っているはずだ。


「付き合ってる最中、実は私、大学のミスコンに立候補してた時期があったの」


 初めて聞いた話に、俺は思わず首を傾げた。


「ミスコン? 初耳だぞそんな話」

「すぐに取り下げたの。私たちって共通の友達もいなかったし」


 ミスコンの多くは、立候補の時点からSNSを通じて票集めの活動を始める。俺が知らないということは、そうした宣伝活動が活発になる前に立候補を取り下げたのだろう。


「それにね、立候補したのは私たちが別れる直前のことなの。だから悠太くんがこのことを知らないのは、当たり前」

「……それが浮気してないって話にどう繋がるんだよ」


 礼奈は苦笑いを浮かべる。


「悠太くんは、見ちゃったんだよね。私が男の人と手を繋いでいるところ」


 脳裏にあの光景が過ぎる。

 記念日当日、手を繋いでいた二人。


「……だったらどうした」


 あの時のことを思い出すと、今でも胸が疼く。

 忘れようとすればするほど脳に深く刻まれていき、夢にまで出てくるのだ。

 思い出せないだけで、多分今でも夢に出てきていることはあるだろう。

 礼奈の弁明が、そんな光景を払拭してくれる。

 パーティを抜けてまで地下に訪れたのは、そんな期待もあってのことなのかもしれない。

 だが。


「……あれね、ただのミスコン運営の人なの。私から手を繋いだとかじゃなくて──」


 頭の中で火花が散って、急激に集束していく。

 冷めた脳内で俺は落胆していた。

 そんな落とし所だろうとは思っていたのだ。

 証明するものは何もない。あるのは互いの記憶だけ。

 だから事実の有無を言い争うことは無意味だ。

 そして予想していた弁明の範疇を越えないのであれば、事細かに説明されたいと思うほど俺の気は長くない。


「そうか。わかった」


 俺はカフェオレを飲み干し、ゴミ箱に捨てる。

 ゴミ箱は既に缶で溢れていたが、無理やり押し込んだ。


「え、待ってよ」


 俺がエレベーターのボタンを押したのを見て、礼奈は慌てたように立ち上がった。


「さっき会場で、俺に勘違いしてるのはそっちだからって言ってたよな。もう一回その言葉をそのまま返すよ」


 俺を追いかけようとした礼奈の足が止まる。


「俺は別に、あの時礼奈が誰といたか、その後何をしたなんてもう興味ない。そんなことは別れた直後に散々考えて、やっと吹っ切れたんだ」

「だから、私浮気なんて──」

「あの時の俺が浮気だと思った。それが俺の中の答えなんだよ。例えノリで手繋いだだけだとしても、魔が差しただけだとしても、手を繋いだのは事実だろ。あの時俺はそれを浮気だと判断して、そこで終わったんだよ、俺たちの関係は」


 どこからが浮気なんて答えは人それぞれ違う。

 身体の関係に発展した際に初めてそれが浮気だと言う人もいれば、二人で食事しただけで浮気だと言う人もいる。

 そんな曖昧な境界線を引くのは他でもない自分自身だ。

 あの時の自分が、他の男と手を繋ぐ光景を見て浮気だと判断した。

 それが全てではないのか。


「……おい、何か言えよ」


 押し黙る礼奈に返事を促す。

 エレベーターが地下に到着し、扉が開いた。


「うん。そっか、終わった話。もう悠太くんの中ではそうやって区切りがついてるから、私が何を言っても迷惑なだけなんだよね」

「……何か特別な事情があったんなら別だ。そうした例外の話がある可能性があったから、ここに来たんだよ」

「そんな事情があっても、悠太くんの取る行動って変わらないと思う」


 そこで初めて礼奈の口調が強くなった。


「だって悠太くん自身に、もう答え出てるんだもの。悠太くんの気の持ちようは変わるかもしれないけど、私たちの関係が変わったりしない」


 ──関係が変わる?

 彼女の言葉回しに若干の違和感を覚えた。

 礼奈は、この邂逅で俺との関係を変えようとしていたのか。

 終わっていた関係を、再び何らかの形で始めようとしていたのだろうか。


「悠太くん、さっき会場で彩華さんに言ってた。私に付いてくるのは踏ん切りをつけたいだけだって。……それが全てだよね。私が間違ってた」


 礼奈の呟きを背中に受けながら、俺はエレベーターに入る。


「……なあ。何でわざわざ俺に会いに来たんだ?」


 最後になるであろう質問に、礼奈は哀しそうに微笑んだ。

 それまで一度たりとも見たことのなかった表情に、思わず目を見張る。


「決まってるじゃん」


 ゆっくりとドアが閉まり始める。


「──会いたかったからだよ」


 その言葉を最後に、礼奈の姿は無機質な色のドアに切り替わった。

 閉まり切ったドアの外からは、エレベーターが上がる際の音しか聞こえない。

 隔絶された空間で、俺は最後の礼奈の姿を思い出していた。

 彼女の頬に、透明な雫が伝っていた気がしたのだ。

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