第34話 相坂礼奈 〜過去③その日〜

 ──その瞬間、俺の心臓は確かに一回止まったと思う。

 誇らしげに担いでいた木箱入りのシャンパンが落ちるのを何とか堪える。心臓は止まっても、シャンパンを落とさない余裕はあった。

 そんなはずはないと首を振る意識の上から、やっぱりなと冷ややかな声を出す別の意識が降りかかる。それでもやはり最後には驚きが勝って、俺はその場に佇むしかなかった。


 礼奈との一年記念日当日。

 俺は予約していた店への最後の下見を済ませ、帰路についていた。当日にまでわざわざ下見をしていた理由は、せっかく見栄を張って高いコースを取り扱う店に予約したのに、道に迷っては格好付かないからだ。

 そのついでに、デパートに寄って記念日に作られたシャンパンを購入。これも計画の内。

 最近礼奈からの連絡の頻度が極端に落ちたことが何を指しているのか、それが解らないほど俺は鈍感じゃない。

 だから今日は勝負の日だった。

 僅かに逡巡した様子を見せる礼奈に、強引に約束を取り付けたのだ。強引といっても一年記念日ということで、礼奈は全く気乗りしないという様子でもなかった。

 俺が待ち合わせの時間を言い切ると、微笑して「わかった。楽しみ」と応じたのだ。

 ──それがどうだ。

 待ち合わせにはまだ時間があるというのに、自宅前で礼奈の後ろ姿を確認した時は胸が踊った。だが横に男がいることを視界に収めた時、俺の頭には嫌な予感が過った。

 嫌な予感は、数秒と経たない内に的中した。

 男が礼奈の手を握る。

 礼奈もそれを拒む様子はなく、二人で路地を歩いて行った。

 手を繋いで歩く二人は傍から見れば紛う事なきカップルそのものだ。声を掛けようとしたが、寸前のところで止まる。

 声を掛けなくても、どうせ明日には会うことになる。

 俺は大きな鉛を三つも四つも引きずったような足取りで自宅へ帰った。


「……わけ、わかんねえ」


 掠れた声は自分の声じゃないみたいで、俺は短く乾いた笑いを上げる。

 可笑しい。こんなの、道化じゃないか。

 彼女へのサプライズでこちらが動いている間、礼奈は他の男とデートして、そのコースに彼氏の自宅前を選んでいるということ。それを俺が目撃してしまったことが、何だか誰かに全て仕組まれているほど上手くいっている気がして、本当に可笑しい。

 再び乾いた笑い声を出す。

 連絡の頻度が下がったのはここ二ヶ月ほどだ。

 付き合い始めより気持ちが離れてしまったのだということは、重々感じていた。

 礼奈とのデートよりサークルの行事を優先しなければならないことがたまたま続いた。付き合って以来初めて半月以上顔を合わせなかった。

 社会人や遠中距離恋愛ならともかく、家もそこそこ近い学生同士の恋愛にしては結構な期間だ。それでも少し珍しいという程度で、特別気にするほどでもない。

 だから半月ぶりに顔を合わせた時も、いつもと変わらず礼奈に接した。だが礼奈は、半月前とは違っていた。

 以前なら俺の言うくだらない事にもクスクスと笑ったり、「仕方ないなあ」と優しく微笑んだりしていた。

 だが礼奈はもう笑わなかった。


「つまんない」


 面と向かって言われた時は、俺も腹を立てた。

 確かに笑わない礼奈に焦燥にも似た感覚を覚え、いつも以上に面白くない言葉を連ねていたことは自覚している。

 それでも直接つまらないと言われると、さすがにプライドが傷付いた。


「つまんないなら、もういいよ。今日はここでお開きにしよう。お互い、明日は早いことだし」


 明日お互いに朝からサークルの予定があることは事実だった。だがまだ夕陽が辛うじて残っている時間で、予定があることを鑑みても早い解散であることに違いない。いつもなら晩御飯を一緒に食べていたはずだ。

 だから俺は、礼奈がここで何かしらの対応を取ってくれることを期待した。

「ごめん」とも、「言い過ぎた」とも言われなくていい。

 ただ今の発言に後悔したような素振りがあるなら、それで許そうと思っていた。

 だが礼奈は能面のような表情を崩さず、「そう。じゃあ、帰る」と言って去ってしまった。


 この時のデートから、礼奈の心が俺から離れていく音が聞こえてきた。

 俺がラインで謝ると、礼奈も素直に「私も言い過ぎた」と返してきたが、俺の気持ちは晴れなかった。

 その時は「ごめん」という謝罪が欲しかったのかもしれない。それには多分俺が自分から謝ったことが関係していて、中高生のようなプライドがまだ捨て切れていないことを恥じた。

 恥じながら、このプライドは成熟した大人になってからも胸で燻り続けるのだろうかと不安に感じた。

 それでも俺は礼奈のことを好きなままだった。むしろその想いは付き合い始めと同じくらいに強いものとなっていた。

 あの頃の礼奈を失いかけていたからこそ、自分にとって大切だったということに気付いたのだろう。

 ベタなきっかけではあるが、そうしたきっかけは本当に響く。


 礼奈にはデートの誘いをかなりの確率で断られた。

「用事がある」「サークルが忙しくて」

「人と会う約束があるの」


 無難な断り方に俺は何も言えず、諦めるしかなかった。

 それでもたまに了承されるデートには気合を入れて、以前のように礼奈の機嫌を損なわないように気遣った。

 その結果デートは礼奈にとっても楽しい時間になったようで、そのことが俺を楽しくさせた。礼奈によってSNSにデートの様子が投稿されるのを、俺はいつも楽しみにしていた。

 気をよくした俺は久しぶりにテーマパークに行こうと言った。だが礼奈は首を振る。

 その頃の礼奈はまるで人目がある場所を避けるように、俺の家の近所付近にある店にしか行こうとしなかった。

 店に入ってもどこか遠い目をしていることがあり、俺の話に反応はするものの彼女は何か別のことを考えているのだろうかと一瞬で勘付いてしまうほど、礼奈の態度は解せないものになっていた。

 それが最近になって、礼奈の笑顔が再び増え始めていた。

 この一年記念日は、俺はそれに有頂天になっていた矢先のことだ。


 俺は天井の模様を眺めながらひとしきり笑う。涙は全く出なかった。




 次の日俺は何の準備をすることもなく、ただ身体を寝かせていた。

 スマホのバイブが震える。

 画面を覗くと、礼奈が俺の自宅前に着いたという連絡だった。

 まず最初に感じたのは、脳が沸騰するほどの怒りだった。力任せにスマホをベッドに投げて玄関へ進む。

 だが浮気をされたということが、随分と情けないことに思えて裏切られた怒りさえ徐々に萎んでいった。

 残ったのはこれからどう処理しようかという虚無感だけだ。

 俺は無表情で玄関のドアを開けると、階段を降りた先に礼奈が見えた。礼奈は俺を確認すると、いつもと同じペースで階段を上がってくる。

 俺は不意に彼女を力任せに問い詰めたい衝動に駆られたが、その気持ちも一瞬で萎んだ。

 こんな時だというのに、彼女は可愛かった。

 そう感じてしまう自分のことが情けないを通り越して面白くなってしまい、口元を緩める。


「入っていい?」


 礼奈が訊いた。

 彼女が俺の部屋へ入ろうとするのは、数ヶ月振りのことだった。

 俺は無言でかぶりを振ったが、彼女はそれを理解できなかったようだった。再度「入っていいかな?」と訊いてきた。

 今度は俺もはっきりと言った。


「いいや、駄目だ」


 礼奈の目に戸惑いの色が浮かぶ。


「どうして?」


 簡単な問いだ。部屋に入りたいと了承を取ろうとしたが、断られた。理由を訊こうとしただけの言葉。

 そんな簡単な言葉さえ、今の俺には不愉快に聞こえた。

 頭の中で轟々と雨が降っている。


「別れよう」


 口から発せられたその声は、我ながら実に怜悧な声色だった。先ほどの掠れた声同様、人は何かとんでもないことが起きると自分の声さえ失ってしまうのかと感じた。

 礼奈は俺の言葉を聞いて、俺の表情を見て、口を僅かに開けた。その後言葉を発することなく俯く。

 唐突に別れを告げれば、何か言ってくるのが普通と言えるだろう。

 ただ俯くしかできない理由は、礼奈が察したから。

 無言で俯くのは浮気を肯定したも同然だ。


「いいな」


 俺が言い放つと、礼奈はゆっくり頷いた。

 勢いよく扉を閉める。

 二人の間に隔てられた扉は、今の俺たちの心を象徴しているかのようだった。もう、心が交わることはない。

 暫くその場で佇んだ。

 同様に礼奈も、早々に立ち去ろうとしていないのが扉越しにも伝わってきた。

 扉越しに二人が佇むだけの時間がどれ程過ぎただろうか。

 それは十秒にも、数分にも感じられる時間だった。

 だが最後の時間にも幕が降りる。

 やがて郵便物を入れるボックスから、カランと金属物の落ちてくる音がした。

 足音が遠のいていく。

 完全に聞こえなくなった後、俺はボックスの蓋を開けた。

 中には合鍵が入っていた。

 俺が礼奈に渡していた鍵だ。

 そこで初めて、目頭が熱くなったのを感じた。

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