第10話 相坂礼奈
「──礼奈」
渇いた声が口から漏れる。
礼奈は俺と同じくらい驚いた様子で、目を見開いた。
「……悠太くん」
その響きが、懐かしい。その声、表情仕草、その全てがあの頃の記憶を刺激する。
グレーのチェスターにブルーのスキニー、高めのヒールというコーデも以前見たことがある。
付き合っていた頃の黒髪が茶髪へと変わっているが、俺がかつて心を通わせていた相手がそこにいた。
お互いが何も言い出さないまま数秒経つと、礼奈の隣にいる女子大生が口を開いた。
「礼奈、この人だあれ?友達?」
「え?あ、うん。そんな感じ」
礼奈は言葉を濁すと、困ったような表情で再びこちらを見た。
「……なんか久しぶり。元気にしてた?」
周りの目を気にした社交辞令であろう言葉に、心の中で大きく息を吐く。
隣にいる女子大生は、俺のことを知らないらしい。一年以上付き合っていたため顔見知りとなった礼奈の友達は複数人いたが、この子と会うのは初めてだった。
「……まあ、そこそこな」
こちらも無難な言葉で返す。
言いたいことは、今更なにもない。
浮気をされた次の日に別れて、その時も礼奈は何も弁解しなかった。
別れよう、そう告げた俺に頷くだけで。
二ヶ月振りの再会だが、何も知らないであろう礼奈の友達に、あの件のことを言うような真似はする必要もない。
たった二ヶ月。言葉にしてみれば短いかもしれないが、別れた当初は一日過ぎるのが吐きそうになる程遅かった。だから感覚としては、数ヶ月振りの再会。
礼奈が彼女だった時は、あれだけ大切に想い、好きだけではとても形容し切れない色んな感情があったけど。
別れてしまえば、それもただの他人だ。
相対したこの数十秒で、俺はそのことを強く実感した。
「それ、買うの?」
礼奈の何か無難な会話をしようと紡ぎ出したであろう言葉は、俺の持つ財布へのものだった。
手にあるのは、志乃原に贈る用の財布。
「まあな。ちょっと高いけど」
「そ、そっか。喜んでくれるといいね」
「ん」
短く返事をすると、これで会話は終了とばかりにショーケースに視線を戻した。
礼奈に対する気持ちが整理されていくのを感じる。
別れた直後は、それこそ顔が映った写真を見るだけで胸が締め付けられた。
今でこそ気持ちは若干乱れたが、それも別れた直後に比べたら全然ましだ。これからは、時間が解決してくれるだろう。
「その、また会える?」
「は?」
返事をしたのは俺ではなく、先程から黙っていた彩華の方だった。
礼奈も驚いたように彩華を見る。
「あんた、正気?」
その声には、たっぷりの侮蔑が込められていた。
礼奈と彩華は直接の面識はない。
付き合っていたころ何度か会わそうとしたが、彩華の都合がいい日がことごとく無かった。
だが彩華は礼奈の顔を俺から見せられており知っていたのだ。
礼奈もその一言で察したのか、目を逸らして足早に店を後にした。
通りすがりに、「またね」と残して。
「……おい」
礼奈の姿が見えなくなったのを確認してから、彩華に話しかける。
「ごめん。あんたが普段通りにしようと努めてたから私も我慢しようと思ったけど、ムカついた」
「気持ちは嬉しいけどな。あいつが元カノだ」
「何度も写真見せられてたからすぐに分かったわ。可愛いけど、それだけね」
「まあ、うん。そうだけど」
多分、可愛いこと以外にも良いところはたくさんあった。
でも人間、誰だって良いところなんてあるものだ。
それを今彩華に伝えるのは野暮というものだろう。
彩華は、俺のために怒ってくれたのだから。
「──ありがとな」
思わず出たお礼に、彩華は苦笑いした。
「こんなことでお礼言われてもね。あんたの元カノの友達は関係なかったし、あの子には悪いことしちゃったし」
彩華はそう言うと、怒気を逃がすように大きく息を吐いた。
「ほら、それじゃその財布で決まりね。私がカード払いしとくから、後でお金返してね」
礼奈との再会で思考が完全に買い物からフェードアウトしていたが、彩華の一言で我に返る。
さっさとレジに向かう彩華の手には、いつの間に俺から取った財布が握られている。もう片方の手には彩華自身のお目当てであろうバッグを引っ掛けており、今しがたの怒気はどこへやら、とても明るい表情だ。
「やっぱり高い買い物する時って、ウキウキするわね」
「分からないこともないけど……まあいいや。財布買うか。自分で金出すわ」
礼奈と出会ってモヤモヤした気持ちを、散財することで晴らしたかった。それが日頃世話になっている人への贈り物なら、一石二鳥だろう。
「いや、私が出す」
「え、なんで」
「カードで買ったらポイントがつくもの。私に500ポイントちょうだい」
「が、がめつい!」
他に人がいる時はこんなこと言わないくせに、二人になったらすぐこうだ。
楽にしてくれている分には文句ないのだが。
「じゃ、あんたは店の外で待っててね」
「はいはい……」
渋々折れると、彩華は上機嫌でレジに向かった。
◇◆
待つこと五分。
店を出た彩華から一言、
「ほら。あんたの分」
と財布の入った袋を寄越された。
その袋に財布以外のものが入っているのが見えて、思わず取り出す。
「これ……」
キーケースだ。黒い光沢が目立ち、決して安くない値段であったことが伺える。
「あげるわ」
「え、これいいのか? ていうか何で唐突に」
「誕生日プレゼントよ。あんたの誕生日七月だし、もうとっくに過ぎただろうけど。そういえば一度もあんたに誕プレあげたことなかったなって思ってさ」
「ま、まじか! これカッケェな、丁度キーケース無かったし、サ、サンキュー!」
プレゼントは渡す方も、貰う方も緊張するものだ。
渡す方は「気に入ってくれるかな」と緊張し、貰う方は「下手な反応で相手に嫌な思いをさせてはいけない」と緊張する。
特に俺は特に貰うのが苦手なタイプで、本当に嬉しいと思っていても反応がしどろもどろになってしまう。
だが今は、本当に欲しかったものを貰って思わずテンションが上がってしまった。プレゼントを貰って意識せずに良いリアクションができたのは、本当に久しぶりのことだ。
彩華も、そんな俺の反応に満足そうにはにかんだ。
「いーってことよ。苦しゅうない」
「いやほんとありがと、まじで」
「喜んでくれたなら、私も嬉しいわ。よし、じゃあ行くわよ」
「え、どこに?」
「バイキングよ! 初めて自分から男にプレゼントあげた私へのお礼を、態度とお金で示しなさい!」
「おい、後者で台無しだ!」
思わずつっこむと、彩華は声を上げて笑った。
そのまま彩華はバイキングが開かれるホテルの方向にウキウキしながら歩き始める。
それについて行きながら、俺は先程の言葉を頭の中で反芻させた。
──彩華のやつ、自分から男にプレゼントあげたの初めてだったのか。
仲が良いといっても交友関係を把握しているわけじゃないので、プレゼントくらいは普通にしてるものだと思っていた。
バイキングを待ちきれずに早歩きする彩華の後ろ姿を見て、口が緩む。
彩華は俺との、恋愛に発展しない完全な友達という関係を気に入っているのだろうけれど。
彩華の初めてプレゼントを贈った相手が俺で嬉しいと思うことくらいは、バチも当たらないだろう。
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