第5話『夢物語』
人生は一幕の喜劇に過ぎない。そこでは様々な役者が衣裳と仮面で扮装し、代わる代わる登場しては、退場を命じられるまで己の役を演じるのだ。
――エラスムス
未来は美しい夢を信じる人のためにあります。
――エレノア・ルーズベルト
最近は嫌な夢ばかり見る。走れなかったり、履歴書を書き損じたりするような、生々しい悪夢だ。医者から薬をもらっているが一向に良くなる気配はない。その理由はわかっている。わかっているが、解決しようのない悪夢だ。
私の名前は、池口守。今年で社会に出なければならない大学4年生だ。しかし、いや当然かもしれないが、社会に出たときの自分の姿も、その後の夢も思いつかない。子供のころの夢は小説家になることだったが、気づけばそれも廃れていた。昔はJ・R・R・トールキンやJ・K・ローリングの作品を読み漁り、いずれは自分も彼らと肩を並べる想像をしていた。だが現実は厳しく、数本、短編を何とか時間をかけて書き上げると、それからはあっという間に、脳の奥底でふつふつと湧いていたはずの想像の源泉は枯れてしまった。
そうして、社会の荒波を乗り越えることばかり考えていると、頭は不安と焦りでいっぱいになり、気が付けば立ち上がることも億劫になっていた。
夢も希望もない、人生が好転する気配もない。されどテスト・ペーパーでは嘘の自分を書き、履歴書の自分と現実の自分との溝は深まるばかりだ。悲しくとも涙もでない。もう、泣く気力もわかない。気が付けば、終わりのない空想を続ける日々に陥っていた。
されど、人間は生きていると腹が減る。
自分は、父と母のことを心から尊敬できない。ここまで、育ててくれたことには感謝している。しかし、子供のために身を粉にして働き、夢を捨てたその姿は見ていて気分のいいものではない。自分のせいでたった一度の他人の人生を狂わせてしまったようで、何故だか責められている気がした。
ときどき、過去の良い思い出に浸りたくて
そうはなりたくなかった。最後は、花火のように華やかで、誰かに語り継がれるような人生を歩みたかった。しかし、髪を染めたり、何か派手なことをする勇気もなく、だらだらと人生の結末に向けてゆるやかに進んでいた。
そのような自己嫌悪の中、今日も一日が始まる。やることはない。皆は内定をもらっているのだろうか。形のない不安が心を満たす。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
何事にも結末はある。自分のそれは最高のものであってほしかった。結末がなければ意味がない。結末こそが重要なのだ。そして、今の自分はそれにかなう人間だろうか。そう考えると頭が真っ白になった。
息が詰まりそうだ。呼吸ができない。その苦しみの中、人生が好転することを祈って、再び布団にもぐった。
夢の中で、少女の柔肌を抱く。寝る前に少し――男性諸君ならわかってもらえると思うが――少しだけみだらな妄想をしたせいかも知れない。現実には少女の敏感な柔肌も、絹のような緑の黒髪も知らないが、何故だか無性に現実感があった。彼女は硝子のような瞳をしており、その腕は少し力を加えたら折れてしまいそうなほどか細い。その慎み深い胸に顔を埋める。もう現実なんてどうでもいい。
少女が語りかけてくる。その声は小鳥のさえずりのようで、見た目といい、声といい、すべてが理想の通りだった。
「満足したかな」
孤独の不安に怯えていたこともあって、離れたくなかった。
「いや、もう少しだけ」
「もう満足したでしょ」
「いやいや、もう少しだけ。少しだけこうさせてくれ」
「うるせえな、もういいだろ」
その声は野太い男の声だった。
その衝撃で目を覚ますと、時計の針は6時をまわろうとしていた。そんなに寝ていたのか。ふらつきながら、夕食の準備をする。もう少ししたら、家族が帰ってくる。そうしたら、きっと就職活動の状況か何かを聞いてくるだろう。そのようなことは耐えられないし、それ以上に家族と顔を合わせたくなかった。
母が用意した夕ご飯の皿の上の烏賊か何かの炒め物を急いで食べると、誰もいないのに用事があるかのように振る舞って、部屋に戻った。そのような自分が大嫌いだった。嫌いで、嫌いで、逃げるように布団に籠った。不思議なことにあれほど寝たのに、瞼が重力に負け、気が付く間もなく眠りについていた。
「随分と早い再会だな」
先程と同じ女の声。しかし、その容姿は先ほどと異なっていた。その姿はまるで――スペインの画家、フランシスコ・デ・スルバランが描いた――『シチリアのアガタ』によく似ていた。いや、そのものと言ったほうが正しいかもしれない。彼女が立つのは何もない真っ白な空間。自然と明るく、地平線がどこまでも続いている。
「てっきり、君は少女趣味があるのかと思ったよ」
その女は嫌味っぽく笑う。表情を動かすたびにぴきぴきと音を立てる。最初は何のことかわからなかったが、その顔をよく見るとうっすらひびが入っているのがわかった。これは絵の具が割れる音だ。このシチリアのアガタは油絵が、そのまま実像をもってあらわれたのだ。そのため、動くたびに絵の具が割れるのだ。
「いや、シチリアのアガタが好きなんじゃなくて、十字軍とかキリスト教の歴史を調べるのが好きなんだ」
何故、自分の夢で言い訳をしているのだろう。自分のそういう何事にも自信を持てないところが嫌で仕方なかった。
シチリアのアガタは再び笑うとその場で一回転した。そうするとその姿は黄金色の羊に変わり、さらにそこから――ヒエロニムス・ボスが描くような――正体不明の怪物を数回経て、その姿はどこにでもいるような、中肉中背の青年へと変わった。特徴のない、記憶に残らないような青年だった。それは自分に似ていて、まるで自分がそのような特徴のない人間だと突きつけられているようで嫌だった。
「僕はモルぺウス、君たちっぽく言えば夢の神ってところかな」
ようやく、この夢がどういうものなのかつかめてきた。神さまに会う夢か。久しぶりに縁起の良い夢を見ることができたようだ。
「それで、モルぺウスさま、何か願いでもかなえてくれるのかい」
面倒くさげにそう言うと、彼は極端に不機嫌そうになり、姿を再び変えた。次は犬の頭を持つ巨人――イコン画の――聖クリストフォロスになり、私をひょいと持ち上げて、自分の顔の前に持っていくと咆哮した。顔に唾が飛ぶ。気分が悪い。自分の夢にも舐められるとは、これほど嫌なことがあるだろうか。
「貴様、下手に出ていれば調子に乗りおって」
自分の夢だと思うと、腹が立ってきた。
「本物の神だと言い張るのだったら、何か試してみろよ」
「神を試そうと言うのか」
「ああ、試してやるね。あいにく、俺はクリスチャンじゃないので」
聖クリストフォロスはきょとんとした顔になると、そこからしゃがれた声で笑った。
「だったら、明日、洗濯物を見てみろ。お前にぴったりの奇跡を見せてやる」
そう言うと、彼は私を放り投げ、私は奈落へと落ちていった。先ほどまで立っていたはずの地面はそこにはなく、どこまでも、どこまでも落下していく。そして、とうとう底につくと、そこには自分の部屋の寝台があった。
アラームが鳴った。目覚めの悪い夢だった。外からは、鍋をひっくり返したような雨が降る音がする。まるで炒飯か何か炒めているような音だ。こういうところで、美しい詩的表現や、古風で雅な表現ができないあたり、自分には小説家の才能がないのだろう。ゲーテの詩集を読んだところで、その才能はひとかけらも身につかなかった。
台所に行き、朝食を用意しようとするとメモが一枚置いてあった。それは母が書いたもので、「雨が降るらしいので、洗濯物を取り込んでおくように」とあった。まずい。大変まずい。外から聞こえる音から推測するに、洗濯物はずぶ濡れだ。朝食などほっぽりだして、ベランダへと向かった。
そこで奇跡を見た。ベランダの――それも洗濯物の上にのみ――雲に穴が開き、日の光が柱のように射している。以前、本で読んだことがある。ナザレのイエスが救世主として再臨する際や昇天する際には、天に穴が開くと言う。まさしく、その光景だ。
「嘘だろ」
そう呟きながらも、洗濯物を取り込むところに小市民の
確認すべく、部屋の本棚に押し込んでいた聖書を引っ張り出す。そして『旧約聖書』の『士師記』を開いた。
あのモルぺウスとかいう神は聖書の士師記第6章第36節から第40節までを再現して見せたのだ。それに気が付くと奇跡というすごさよりも別の感情が浮かんできた。
「夢の神でありながら、他の宗教をまんま真似するほど想像力がないのは夢がないな」
無意識にそう言って、自分の冗談に自分で笑ってしまった。モルぺウスはギリシャ神話の神だ。それが、聖書の真似をして自己の能力を示そうとしたと考えると、どことなく滑稽だ。さらに言えば、夢の中でも彼はキリスト教の聖人の姿を取っていたし、他人の褌で相撲を取るとはまさにこのことだった。
次の日、空は太陽が火によって形作られていることを人々に思い出させるほど晴れていたが、我が家の洗濯物だけびしょぬれだった。確実に彼は神だ。そして確実に私は彼を怒らせた。
「一体、何が狙いだ。あいにくだが、こちらに捧げられるような小羊といった生贄はないぞ」
いつもより3時間は早く寝た。それは正体のわからない神を名乗るものに会って、その狙いを確かめるものだったが、内心、理由をつけて現実から逃げることができるとも思っていた。そして、うまいこといけば、人生が好転する良い機会かもしれない。そのような思いが錯綜する中、その日は眠った。
アメリカ合衆国、ニューヨーク。今日は以前の真っ白な世界ではなく、その喧噪の中に立っていた。しかし、車は一台も走っておらず、それと似た音を立てながら
そして、目の前には観音菩薩像が、鈍い黄金色の輝きを放っていた。今日の姿は観音菩薩なのか。短い付き合いだが、どれがモルぺウスなのか何となくわかってきた。
人付き合いはそこそこ得意な方だが、これはそうでない人間でもわかる。明らかに拗ねている。まるで子どものように、拗ねて、相手を無視しているのだ。たぶん聖書の丸写しだったことを笑ったから、それに関して怒っているのだ。だから当てつけのように、キリスト教ではなく、仏教の神仏の姿をもってあらわれたのだろう。
しかし、話ができなければ接触した意味がない。だから、必死で語りかけた。幾度も謝ったし、そのような題材を選んだ彼の美的感覚を褒めたりもした。そうして1時間が経ったころだろうか。その重い口を開いた。
「わかればよろしい」
神故か、それとも増長させ過ぎたのか、その尊大な態度が鼻につく。それでも、また機嫌を損ねられたら元も子もないので、徹底して下手に出た。
「今日はおしゃれな姿ですね」
そういうと機嫌をよくして、観音菩薩のアルカイックスマイルで上がった口角がますます上がる。
「夢の世界では信仰心が強ければ、強いほど、姿かたちがはっきりする。今の僕たちはその力が弱まっているから、他人の姿を借りるしかないのさ。けれども、その中でも僕のファッションセンスは特別だけどね」
彼の自慢にも丁寧に対応する。これが人間関係を円滑に保つ秘訣である。このように空気を良くしてから質問をすれば、相手は答えてくれるものだ、
「それで、一体、何の御用があって、人の夢に出てきたのですか」
そうすると、彼は
「あなたには、とある間抜けと戦ってほしいの。わたしたちはね、信者も、神殿も、祭りもない忘れられた神。信者がいないと祈りもないから暇で、暇でしょうがないの。それでね、暇をつぶすために、ときどき、代理人を立てて決闘あそびをするの」
意味が解らなかった。もし、戦士を求めているのなら、もっと適した人材がいたはずだ。それにも関わらず、心療内科のお世話になっているような大学生を選ぶ理由がわからない。
「暇だから喧嘩ってまるで欲求不満の子供じゃないですか。一体何の理由があってそのようなことをするのですか」
決闘あそびと言っても決闘は決闘。そのような遊びに命をかけるのなんて真っ平だった。せめて納得できる理由があれば、こちらも気持ちを落ち着けることができる。
そう聞かれたことが意外であるかのように、彼は首を傾げる。その仕草はやはり小馬鹿にしているとしか思えなかった。
「暇だから以外に何かあるのかというと困っちゃうな。君が暮らす日本の国技である相撲も神を楽しませるものだし。まあ、強いて言うなら次の仕事をどちらが担当するかを決めるためってところかな」
「次の仕事ですか」
神にも仕事があるのか。何だか世知辛いものだと思った。
「夢はね、君たちが思っている以上に重要なんだ。夢や
仕事の次は出世か。神といっても非常に人間くさい世界で生きているのだと思ったが、それと同時に哀れさも感じた。彼らは忘れられた神、そのようなことでもしなければ生きていけないのかも知れない。就職活動で心をすり減らしていた自分に無意識に重ねてしまう。
「誰と戦えば良いんですか」
気がつけば、自分はその戦いに参加する気になっていた。そして、その言葉を待ってましたと言わんばかりに、そのアイドルはにんまりと笑っている。
「相手はわたしのお兄さん、ごーまんでそんだいな、いやなやつなの。そいつはぜったいにゆーめいなやつをつれてくる。だから歴史
その馬鹿にしたような口調に、こめかみの血管が脈打つのを感じた。歯を食いしばり、それを耐えるが、向こうはそれをわかった上でそう話しているようだった。
「それじゃあ、決闘の日取りはいつですか」
彼は一回宙返りすると、姿を青い
「明日の晩、満月の夜、君をこの鸚鵡が夢の中で迎えに来る。それについていけばいい」
「それで、その決闘をして、俺に何の得があるのですか」
鸚鵡の口から蛇がするりと顔を出し、鸚鵡を頭から飲み込んだ。そして舌をチロチロと躍らせると、風船のように丸々と膨らみ、炸裂した。その中から海豚が飛び出す。陸に打ち上げられた海豚というのは、何とも言えない気持ち悪さがあった。ぬめぬめして、人間とはまったくことなる鼻から水を噴き出す。
「君の望むものさ」
「俺の望むもの」
「そう、君の望むもの。刺激、冒険、生きる意味、希望、それらが詰まった真理を教えてあげる。予言、いや預言かな。それも夢だから死んでも目が覚めて終わり。君にはまったく損のない取引さ」
息をのんだ。そのようなすごいものが自分に与えられるのか。そう思うと胸が高鳴った。これで変われる。自分は両親のようにはならない。偉大な人物になってやる。それを叶えるための答えが、今、目の前にまで来ている。
「本当ですね」
イルカの鼻から一凛の花が咲き、その花弁を纏って小さな少女の妖精が立っている。
「本当よ。あなたがほしいものがそこにあるわ。ただし、あなたが勝つことができればね」
少女は成長して大人の女性になると、優しい声で囁いた。
「今日はこれでおしまい。またあした」
アラームが鳴った。
その日は何も手につかなかった。やっと訪れた
そして、寝る直前、母が話しかけてきた。
「体調はどう」
その心配そうな顔を見ると、責められているような気になる。
「ぼちぼちかな」
もう数えきれないほどついた嘘だ。そのあとの就職活動の話でも嘘をついた。順調だとか、頑張っているとか、安心させるための嘘をついた。本当は限界寸前だった。いつ心が壊れてもおかしくない。そう思うほど、追い詰められていた。
無理やりにでも話を切り上げて、部屋に向かう。この状況を打破するために、今日の勝負勝たねばならぬ、負ければ明日はない。彼は安全だとか言っていたが、思いは死地に向かう兵士そのものだった。
夢の中で、モルぺウスが言っていた通り、真っ青な鸚鵡が飛んでいる。今回の世界は晩年のピカソが描いた抽象画のような極彩色のもので、どこを見ても目がちかちかする。
「待っていたぞ。待っていたぞ」
鸚鵡がくり返し叫ぶ。その金切り声が耳をキンキンさせる。目はちかちか、耳はキンキン、五感の内、二つが狂わされている。気持ちが悪い。吐きそうだ。
「あいつが待っている。あいつが待っている」
そう言って翼で右を差す。その先を見つめるとピカソの書いたガタガタの椅子にスペインの天才画家、サルバトール・ダリが座っていた。
「今日の姿はダリか」
そちらに向かっていくと、正体不明の違和感に気が付いた。筆舌しがたいその感覚は、モルぺウスがからっとした乾いた奇怪さを持っているのに対し、このダリは粘っこく、人間の持つ理解できないものに持つ恐怖心を駆り立てるような奇怪さを持っている。一瞬、本能的に近づきたくないと思った。
「あいつが今日の敵、間抜けのパンタソスさ」
後ろから不意に話しかけられた。振り向くと――ヨハネス・フェルメールの――『真珠の耳飾りの少女』が傍に立っていた。油絵の中から飛び出してきたせいか、顔が近づくと独特の香り、学校の美術室を思わせる臭いが鼻をくすぐる。
しかし、悲しいことに女性と関わったのも久しぶりな上に、フェルメールの傑作の美少女の顔が近づいてくると、その臭いにも関わらず、下腹部に熱いものを感じた。恥ずかしい。本当に恥ずかしい限りだ。
「きょ、今日はフェルメールなんですね」
「ああ、あいつがダリならこっちはフェルメールだ」
そういえば、昔、両親に美術展に連れて行ってもらった際に聞いたことがある。ダリは最高の画家としてフェルメールを絶賛していたと。むかつく兄貴がダリの姿であらわれたから、自分はそれを超える作家の作品の姿をとったのだ。何だか、子どもの喧嘩そのもののようで、馬鹿らしかった。
向こうからダリが、あの奇人ダリが、こちらに気づいて悠然と歩いてやって来る。小脇にキャンバスを抱えた姿は、それが偽物だとわかっていても緊張する。もちろん、実際にはあったことはないが、その立ち振る舞いはまさしくダリそのものを思わせた。
「やあ、ノータリンのモルぺウス、今日はわざわざ負けに来てくれて悪いね」
何とも口の悪いダリだ。彼はトレードマークの髭を撫でながら、嫌味ったらしく笑っている。この笑い方を見ると、モルぺウスとパンタソスが兄弟であることを思い出させたが、胸の奥にそれはしまっておこう。決闘の前に機嫌を損ねられたら、面倒だ。
「君たちが来るのがあまりにも遅いから、一枚、絵を描き上げてしまったよ」
ダリは自慢げにキャンバスを見せてきたが、それは、ある意味で筆舌しがたいものであった。先程の違和感に似た感覚、理解不能なものへ抱く恐怖心、この絵は酷い。酷い絵だ。観ているだけで脳みそがぐしゃぐしゃになり、かぴかぴのスポンジになるようだ。
「モルぺウス、君にはできないことだろう」
モルぺウスを見ると、唇を噛んで悔しそうにしている。汗がその額を流れ、絵の具がにじむ。
「大丈夫ですって、あなたにもあれぐらいの絵なら描けますよ」
耳元で小さくささやいたが、反応は予想に反したものだった。
「あたし、アレルギーで油絵の具に触れないの」
油絵の具の女性にはなれるのに、触って絵は描けないなんて、哀れというか、馬鹿馬鹿しいというか、何とも滑稽だった。
「試合準備だ。試合準備だ」
鸚鵡が知らせると、ダリは笑って去っていった。
「
そう聞くと耳飾りの少女は悔しそうな顔を浮かべたまま、『牛乳を注ぐ女』が持っているずんぐりとした陶製の容器の中からごそごそと何かを引っ張り出している。
「規則は簡単。相手を吹っ飛ばした方が勝ちさ」
小さな陶器の中からみすぼらしい帷子と錆びた剣が取り出される。正直、これだと誰が相手でも勝てる気がしない。そして、これを着て戦うようにいった。不安がむくむくと心の中にあらわれる。
「これ以外にも装備ってありませんかね」
モルぺウスは姿を閻魔大王に変えて、低くしゃがれた声で叫んだ。
「仕方ないだろ。貴様の信仰心が薄いからこのような装備しかないのだ。恨むなら自分を恨め」
その鬼の形相に思わずたじろぐ。そうすると次は大日如来に変身し、優しい笑みで落ち着いた声で話した。
「大丈夫、こちらには秘密兵器がありますよ。ほほほ」
心は不安で満たされた。
「準備終了。準備終了」
鸚鵡の呼び出しにしかたなく従った。そのうるさい鳥についていくと、そこには金網に囲まれた土俵があった。何もかもちぐはぐだ。
向こうではダリがしたり顔で待っており、こっちのフェルメールは今にも飛びかからん勢いだった。
「どうした、間抜けのパンタソス。代理人は尻尾を巻いて逃げたのか」
「ノータリンにはわからないようだね。英雄は遅れてやって来るのだよ」
そういうと2人は狼と蛇に姿を変え、唸り、舌をちろちろと踊らせ、威嚇合戦に入った。それから少し後ろに下がってお互いに身構える。このままではセコンド同士の場外乱闘が始まってしまう。焦って鸚鵡を見ると、向こうも同じことを思ったのか、二人に離れるように叫んだ。そして、自分に柵の中に入るように促した。
「ゴホン、エヘン」
鸚鵡が喉の調子を整えている。しかし、こちらにはそのような余裕はなく、負けるかもしれないという心拍数の上昇と、勝てば真理を得れるという胸の高鳴りが混在し、じっとしていることもままならなかった。そして体を慣らすように、その場で跳ねた。
「青コーナー」
鸚鵡の声は先ほどの金切り声とは打って変わってオペラ歌手のような美声に変わっている。そして、高らかに選手紹介を始めた。
「普段は就職活動にいそしむ大学生、抗うつ剤と抗不安剤のお世話になっております。池口守だ」
人の柔らかい急所を的確についてくる選手紹介に、試合前から心を折られた。
「赤コーナー」
その絶叫と共にパンタソスの代理人が土俵に入ってくる。その姿は、相手が手練れであることを示していた。
裏地に処女雪のような冬毛の貂をたっぷりと用いた真っ赤な
それは貴族、それも地位の高いものがかぶるような顔の出た兜で、彼が高貴で、雅な存在であることを物語っている。しかし、彼が本当に彼なのかは、判断ができなかった。服装こそ、男の――それもメリー=ジョゼフ・ブロンデルが描いた――アンジュー朝第2代イングランド王、獅子心王リチャード1世の姿であったが、本来ならば、騎士の逞しい顔があるべきところには、肉が削げ、むき出しとなった頭蓋骨があった。鋭い眼光を放つはずの瞳は、真っ暗な闇が広がり、その空っぽの眼窩には蜘蛛の巣が張っている。
そして、剣の握りにかけられた手も同様にむき出しの骨で、それは朽ちて皹が入っていたり、欠けたりしている。
長きにわたり、戦場に棄てられていた死体のようなそれは、まさしく伝承の中からあらわれた
青と橙の鸚鵡がまた叫ぶ。
「第三回十字軍の英雄が、神の膝元から帰ってきたぞ。腰にはエクスカリバーを佩いた、中世騎士道の鑑。我らがイングランド王、
その後ろではサルバトール・ダリが、水あめで固めたその特徴的な髭をなでている。その顔は如何にも傲慢で、こちらを馬鹿にしていることがうかがい知れる。あの尊大な神が、あの画家の姿をとっている理由が何となくわかってきた。
ダリは生前、自分のことを天才と言ってはばからなかった。そして、実際に高い評価を得た作品を多数、世に出している。奴は自分をそれに重ねているのだろう。あのような、子供の落書きのような、見ているだけで頭が痛くなるような絵を描くようなものには似合わない姿だ。きっとリチャード1世の
しかし、敵は第三回十字軍でイスラームの人々から恐れられ、かの名将サラーフッディーンからはこれまで戦ったことのない強敵と呼ばれ、フランスの尊厳王フィリップ2世からは悪魔と称された騎士だ。今、はじめて剣をもったような人間が勝てるわけがない。
リチャード1世は鞘から剣を引き抜き、それを両手で持って構えた。そして、身体をわずかに斜めに傾け、右足を前に少し出す。素人でもわかる。相手は手練れ、それも騎士の中の騎士、九大偉人や聖ジョージに続くような騎士の神のような人物だ。
後ろのモルぺウスに目をやる。彼も神の端くれ、それもパンタソスの兄弟だ。何か打開策を持っているかもしれない。それにさっき言っていた秘密兵器がそれにぴったりかもしれない。
しかし、こちらのセコンドは相手がリチャード1世ならこちらはアーサー王だと、1981年のジョン・ブアマン監督の映画『エクスカリバー』で鎧姿のナイジェル・テリーが演じたアーサー王に変身するなど、またしょうもない張り合いをしている。
「おい、これを使え」
そして、そのナイジェル・テリーが何かを柵を超えるように天高く放り投げる。それを受取ろうとするが、何分、このようなことをしたことがないので、取りこぼしてしまった。そうしている間にも、向こうは試合開始の合図を今か今かと待っている。
急いで拾い上げたそれは
しかし、短い。非常に短い。獅子心王は両手持ちの大剣を持ち、人間など一太刀で真っ二つにできそうなのにもかかわらず、こちらの武器は肘から拳にかけて程の長さしかない。これでは、一撃を浴びせる前に、こっちの上半身と下半身が離れ離れになってしまう。
「何かの冗談ですよね」
モルぺウスはどこかでみたIT長者の姿に変わると、笑顔で親指を立てた。そして、たった一言、私にとって死刑宣告を告げた。
「
鸚鵡が宙で一回転すると、色の違う極彩色の南国の鳥に変身した。そして、大きな、とても大きな男の声で叫んだ。
「試合開始だあ」
リチャード1世が待っていましたと言わんばかりに剣を振り上げて、切りかかってくる。咄嗟にこちらも剣で受けるが、錆びた剣はしなることすらなく、真っ二つに折れた。思わず、尻もちをつく。それが幸運にも体を左右対称に二つにすることを防いだ。帷子の前がはらりと切れて、まるで今風の上着のような状態になる。あともう少しだけ、ほんの少しだけでも切っ先が長かったら、あの世送りにされていた。
急いで立ち上がって、走ってその場から逃げ去ろうとするが、まるで足が鉛になったように重く走れない。こういう都合の悪いときは、夢になってしまうのだ。リチャード1世はそのようなことを気にも留めず、ふらつきながら剣を持ち上げた。
「おちつけ。相手をよく見るんだ」
向こうのセコンドと比べて、こちらは何とも頼りない。見たところで現実が変わることはないのに。だが、それにすがるしかない。
「わかったよ。見てみるから」
見たところで目の前には煌びやかな鎧をまとった骸骨がふらつきながら剣を持っているだけだ。
そうだ、ふらつきながら剣を持っている。構えているのもやっとのようだ。そうか、向こうには筋肉というものがない。その分、力もない。剣を一本持ち上げるのもやっとなのだ。
「うわあああああっ――」
がむしゃらに戦棍を振り回す。怖くて目を開けていられない。ただ、腕を上下左右に動かすさまは、まるで子供の喧嘩のようにみっともない姿だ。向こうも、その後ろにいる天才気取りの神も、その姿に困惑している。そうしていたら、木琴のような音色が響き、その後に鈍い金属音がした。
「――ああああっ。」
恐る恐る瞼を開けると、リチャード1世の腕が、あの十字軍で猛威を振るった騎士の右腕が、その剣と共に地面に落ちていた。そして、その持ち主の骸骨はなくなった腕の当たりの空を二、三度触ると、その現実に気が付き、床に落ちた腕を拾おうとしゃがみ込んだ。
「はっはっは」
モルぺウスがしてやったりと高笑いを上げる。
「間抜けなパンタソスめ。神の
嘲笑われたパンタソスは、先ほどのリチャード1世のように現実を掴めていない。
「そうか、リチャード1世は十字軍に参戦したけど、冒険が好きなだけで、宗教とか大義には興味なかったんだ」
仕掛けに気が付けば、あとは簡単だ。丁度いい高さにある敵の頭に鉄の塊をぶつける。するとまた、間の抜けた甲高い音を立てて、頭が転がっていく。そうすると、頭がないので、目の前が見えないのか、腕よりも先に手探りで頭を拾おうとしている。拾わせてたまるかと、その頭を蹴っ飛ばした。
「モルぺウスの勝ちい」
鸚鵡が高らかに叫んだ。
下馬評を覆し、あっさりと勝負はついた。パンタソスは小さく苦痛で唸り、球体や立方体、平面の三角形やぐしゃぐしゃとした線の塊になったりすると、燕になって獅子心王の上を旋回した。そうすると、その骸骨は夕日のような橙色の蝶の群れになり、燕はそれをすべて食べてしまった。
「うーん、こんなことならリチャード1世ではなく、サラーフッディーンを連れてくればよかった」
そう言い残して燕は、不可思議な夢の神パンタソスは飛び立っていった。
勝負に勝った。これで真理が我が物になる。そう思うとうれしくてたまらず、子兎のようにその場で飛び跳ねた。
西の――ピカソめいた――空が仄かに暗くなっていく。そして遠くから、何かの音が聴こえる。それは益々大きくなっていき、その正体が目覚まし時計のアラームであることがわかった。まずい、このままでは真理を得る前に目が覚めてしまう。
「モルぺウスさま、はやくお告げを」
そうすると少し淋しそうな顔をして、遠くを見つめて言った。
「永遠に続く夢はないよ。これで終わり、朝が来たから起きなくちゃ」
その言葉に、今まで抑えていたものが、怒りが、不安が、焦りが、そのすべてがどっと噴き出した。
「おいおい、ちょっと待て。この夢の結末はなんだ。結局、お告げはどうなったんだ」
語気がついつい荒くなる。
そうするとモルぺウスは神のくせにニヒルな笑いを浮かべた。
「君の悪いところはそこだよ。何にでも奇想天外で、奇妙奇天烈な終わりを求める。自分の人生でもそうだ。人生の最後に刺激的な、まるで催涙弾か閃光弾でも炸裂したような結末を求めている」
モルぺウスはそこで無意味に一回転すると、その姿を男や女にころころと変えて見せた。彼はときどき、このような無意味な変身といった理解しがたい行動をとる。
「人生というものはだね、無駄にだらだらと続き、最後は尻切れ蜻蛉で終わるものなのだよ」
「それじゃあ、つまらないじゃないか」
ぐにゃぐにゃと幼児のこねた油粘土のように姿を変えた後、最後は聖母マリアの形を取り、頭の後ろから丸く光を出した。まるでルネッサンスの絵画だ。
「つまらなくなんかないさ。最後にナザレのイエスみたいな悲劇的結末があろうとも、無駄に伸ばされた漫画みたいに釈然としない結末が待っていようとも、問題はそこに至る過程なのさ。君が卑下するような、毎朝電車に揺られて、会社に行く名もなき労働者たちも、そのぐだぐだと長い人生を精一杯生きている。そして結末に至るまでの間に、自分たちなりの夢と希望に満ちた物語を一本、人生をかけて一本書き上げるのだよ」
彼はその姿を若いアイドルの少女にまた変えると、その長い黒髪をなびかせて、小鳥が囀るような声で言った。
「その無意味に思える時間をどれだけ全力で生きたかが、その人間が何者なのかを決定づけるんだよ。むやみやたらと刺激を追い求めてはだめ。真実はいつも鼻の先にぶら下がっているのだから」
そして、神のくせに、また小悪魔的な笑みを浮かべると、手を振って別れを告げる。
「これがお告げさ。じゃあね、今度会う時は君なりの最高の物語を教えてね」
「ちょっと待ってくれ、おい、そんなのってあんまりじゃ」
アラームが鳴った。あんなにも目覚めたいと思っていた悪夢なのに、目覚めてみたら、目覚めてみたで淋しいものである。何故だか、釈然としない。結局自分は体よく、神々の兄弟げんかの手伝いをさせられたのではないだろうか。そう思うと無性に腹が減ってきた。
寝台を下り、台所へと向かう。部屋には誰もいない。皆、仕事に行ったようだ。冷蔵庫から朝食の卵を出して、目玉焼きをこしらえる。何ら変わらない、いつもの、どこにでもある日常。
「自分なりの物語か」
小さく呟く。誰にも届くはずのない言葉。だが、心の中でずっと響き続けている。そうして、朝食を胃袋に押し込めると、棚を開けて、写真帳を引っ張り出した。そこにはまだ電子化されていない家族の思い出があった。
自分の知らない父の写真。ギターを抱いて、バンドマンのような恰好をしている。学生時代だろうか。写真をそこからとって、裏を見ると、殴り書きで「俺たちの絆は永遠」と書いてあった。今の父からは想像できない臭い台詞だ。しかし、父は今もこの友人とあっているのだろうか。
別の
いつもなら、ここで終わる回想。しかし、モルぺウスの言葉が引っ掛かり、いつもはめくらない次の頁を開いた。
そこには生まれたばかりの姉を抱いた母の写真。なんとも言えない幸せそうな顔をしている。
父が姉の手を引いて、神社に行く写真。七五三のお祝いのようだ。姉よりも父が緊張している。
自分が生まれた写真。やはり、二人目であろうと子供を産むのは大変なのだろうか。母は疲れた顔をしている。しかし、笑顔だ。誇らしげな顔をしている。
次へ、また次へと頁をめくる。父はギタリストにはならなかったが、会社に貢献した人間としてささやかに表象されている。母は趣味が変わったようで、スカートよりもズボンの服が好きなようだ。子供のころと変わらず、ポスターの映画女優と同じ服を着ている。
子供のころと変わったものと変わらないもの。みな、「結」のない「起承転」の中で物語をつくっている。姉もそうだ。昔は漫画家が夢だと言っていたが、一発逆転の大博打よりも会社に就職する安定を選んだ。しかし、ウェブサイト製作という自分を表現する仕事をしている。夢を捨てたのではなく、少し、ほんの少し変わっただけなのだ。
「俺の物語、か」
どうせ、だらだらと続く人生なのだから、少しぐらい寄り道してもいい。小説家という夢の前に社会を見るのもいいかもしれない。私はスマートフォンを手に取り、就職活動のアプリケーションをそっと起動した。
夢は終わらない。ただ少し、変わるだけだ。
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