第4話『劔鬼の創生』

闇で闇を追い出すことはできない。光だけが闇を追い出すことができる。憎しみは憎しみで追い払うことはできない。愛だけがそれを可能にする。


――マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師


私は真実に味方する。それが誰の言葉だとしても。私は正義に味方する。それが誰のためになるとしても。


――マルコムX


「つまらない。ああ、つまらない」


 自分も気が付けば、もう少年ではなく、青年、いや成年とされる齢になった。しかしながら、私の人生には山も谷もなく、ただただ明日の糊口を凌ぐために無駄に長い余命を使うだけだった。


 人間とは奇妙なもので、暇があればあるほど、思考の迷宮に陥り、心を毒するようになる。先人たちが死にもの狂いでもたらした豊かさは、格差と貧困、そして心の病をもたらす社会を生むに至った。

 

 この社会の何と息苦しいことか。高度に発達した社会構造システムは、当事者たる人間を置き去りにし、忘れ去られた者たちは、社会の部品ながらも不必要な存在とされた。それはまるで家具を組み立てた際に余る螺子のようなものだ。


 私もそのような余った螺子の一人だ。ぬくぬくと学校を卒業し、深く考えずに安い賃金で働く労働者となる。資本主義社会の歯車たるとして働き、顔も見たことのない、存在するのかもわからないのためにすべてを尽くすのだ。そして世間が政治だ何だと騒ぐ中、己の尺度のみで「自らにとって損か得か」を測る。まさしくの姿そのものであった。


 これを社会学者か政治学者はとして軽蔑するかもしれないが、そのような文化人や知識人を名乗ったり、知の巨人を気取った連中などどうでもいい。どうせ、奴らは私たちのような足元で蟻のようにこまごまと働く小さな市民など興味なく、未来だ、大義だと言って大きな何かを救うことで精一杯だ。その未来に私たちはいない。私たちの居場所などない。私たちなど、所詮は余った螺子なのだから。


 そういう人間たちと違って、今の私は社会のことを深く考えても、心を毒すばかりで何も得がない。市民よ、騒げ、騒げと声を荒げる奴らとは違うのだ。


 私は会ったこともない、見えもしない資本家という神を信じ、それの代理人を名乗る神父や教会のような企業といったものたちに、ただただ従う。向こうにとってそのような信者たちの存在などどうでもよい。大事なのは神たる資本家、従順な小羊など、いくらでも代わりはいるのだ。それはこちらも同じ、心から彼らを信じ、服従しているわけではない。それだったら、わざわざ騒いで無駄に体と心を疲れさせるよりも、ただただ忠実に、従順に隷属し続ける方がだ。


 本当のこと言えば、このような自分が大嫌いだった。自分の名前も大嫌いだった。赤井竜、こんな名前など捨ててしまいたかった。自分が嫌いで、嫌いでしかたなかった。だけども、本当の私はもっと素晴らしく、輝けるはずだ。本当はすごい人間なのだ。輝けないのは社会が悪い。社会を変えると騒ぐ奴らは私のような人間を救うべきだ。そのため、自分のことを根っこから嫌いになることはできなかった。醜い私を嫌う自己と、秘めたる素質が目覚めるのではないと期待する自我、その矛盾した性質を持つ等身大の人間が私だった。


 仕事が終われば、我が家と呼ぶには小さすぎる部屋に戻り、薄い布の上で泥のように眠る。そして休日になると、金もないので、寝転んで天井を眺めながら、ただただ心を毒するのであった。


 しかし、ただ休日を不健康に過ごすわけではない。暇な時間ができ、なおかつ懐が少しばかり温かい時、私は喫茶店に向かう。喫茶店『イスタンブール』。そこは珈琲コーヒーが安く、一杯で一日を潰すことができる。そして、そこに来る客に希望を抱くのであった。


 もしかしたら、あの薄汚い格好をした中年の男は短刀ナイフを隠し持っていて、急に暴れ出すかもしれない。うまくそれを取り押さえることができれば、きっと周りは自分を英雄視することだろう。もしかしたら、あの化粧の厚い妙齢の女は高名な演出家で、その目に留まって自分は舞台で頭角を現すことができるかもしれない。そのような独り善がりで、他人任せの希望を抱いて喫茶店に向かうのだった。


 だが、現実は上手くいかない。店に顔を出すようになって長い月日が経ったが、そういった面白い希望は訪れなかった。せいぜい酔っ払いが吐いたとか、となりに布地の少ない服を着た女が座ったとか、その程度だ。


「つまらない。ああ、つまらない」


今日もそうつぶやいて、休日が終わる。


 淡い希望と仄かな絶望が入り混じる日曜日、今日も喫茶店に向かう。その日も昼頃に入り、好きでもない珈琲を一杯頼むと、その苦い味わいに自分の人生を重ねた。それから時計の短針がいくつか回った後、扉についた鐘がなった。そこには一人の男が細長い袋を携えて立っていた。


 彼は奇妙な出で立ちをしていた。膝の上ほどの丈がある上着を羽織っているが、それは現代的なものではなく、数世紀前の白麻の西欧の陣羽織サーコートに似ていた。胸のあたりには真っ赤な―—十字架のような――剣の紋章が描かれており、彼が動くたびに長い刺し子キルトの袖口から鉄の輪の連なる帷子かたびらが鈍く光を放っていた。撫で肩に思える肉体は、その実、盛り上がった肉の鎧であり、その背はどこか山脈に似た形であることが服の上からも読み取ることができた。


 その顔は、温和な表情をしているが時折鋭い目つきをし、筋の通った鼻筋に、がっしりとした顎、口元には整えられた髭を生やしていた。彼はどこの国かはわからないが、西欧系の顔立ちをしており、少し巻いた短髪が額にわずかにかかっている。どこにでもいるような顔と評されてきた私とは異なり、居るだけでも目立つ容姿をしていた。


 奇妙、実に奇妙である。その恰好もそうだが、彼の言葉や動きの節々には何処か古風さがあり、まるで大衆演劇のように大袈裟で、どこか嘘くささがあった。しかし、それは嫌味っぽくなく、周りの人間に興味深いと思わせるような人懐っこいものだった。


 笑みを絶やさず、誰にでも気さくなその立ち振る舞いは彼を狂人ではなく、少し変わった人、変り者として受け容れさせるには充分であった。


 その場にいる皆が、彼との会話に花を咲かせる中、私は別のところに興味を抱いていた。それは彼が隣の椅子に立てかけている剣袋である。その中に何やら一物が収められていることは必定で、椅子にもたれかかりながらも、凛と立っていた。


 普通の人間ならば、その中は竹刀だと思うことだろう。しかし、明らかに一部が布を押し上げて、袋の形は菱形になっている。


 この中身はだ。私は直感的にそう感じた。十字架に似た剣を無理に剣袋に詰めているため、袋が凧のように布の張りつめた菱形になっているのだ。そうだとすればこの男はまるで――聖杯か何かを探す冒険者のような――十字軍の騎士そのものであると思えた。


 彼に向けていた奇妙さという偏見は消え、まるで珍しい虫を見つけた休暇中の少年のように、その男の笑みの張り付いたような顔も、細い指に筋張った手も、足を必ず4の倍数で揺らす癖も、すべてに神秘性を感じ、それを観察していた。


 これだ。これこそ、私の求めていたもの。この変化しない日常における希望だ。舌の上で唐辛子がはじけるような、目の前で火花が散るような、鮮烈な刺激だ。それから心臓は目の前に一糸まとわぬ美女かいるかのように興奮し、脳の中で火花が散る。そのせいか手が震え、自然と足が痙攣する。それからはずっと恥じらう乙女のように顔を伏せていたが、その表情は恍惚そのもので、耳のさきまで真っ赤になっていた。


 ああ、やっとだ。やっと変われる。このだらだらと流れるどぶ川のように無意味な人生が、苔むした石のように変化することない人生が、朽木のように腐り果てていくだけの人生が、すべて変わるのだ。


 それからは、時間も忘れて、男が動くのを待った。待って、待って、日が落ち始めても待ち続けた。彼は長々と冷めた珈琲をすすっていたが、ようやく立ち上がり、机に小銭を置いて店を出た。私はそれに合わせるように店を出た。その姿はさぞかし滑稽なことだっただろう。刺激を求めていながらも、実際にそれに出会い、そして後をつけるということをしたことがなかったので、焦って手足が無意味に動き、気味の悪いほど大きな声で言い訳を独り言として呟いた。


 空は血の気が引いたような紫色が広まりつつある夕暮れ。喫茶店を出て、商店街を悠然と歩くそのの後ろを怯えながら歩く。寂れていたとはいえ、商店街には人がまだ多くいたが、彼はどんどん人気のない方へと行き、街はずれの地下道へと入っていく。そのせいか、私を覆っていた人々はいなくなり、私は彼の背に向けて、その身をさらすこととなった。


「何か用があるなら、まるで下水を這うのようにこそこそとせずに、正々堂々としたらどうだ」


気づかれたのだろうか、頭の中が真っ白になる。何か言い訳を考えようとしても、それよりもこれから訪れるであろう何かへの不安で、すべてが塗りつぶされていく。


「あ、あ、あ」


 どうする。相手は変わり者と言えば聞こえはいいが、早い話が常軌を逸している人間、狂人と同じなのだ。そのような相手が激昂すれば何をするかわからないし、そもそも言い訳を思いついても通じるかどうかすらわからない。


 このような人気のない場所へ進んでいったことも、逃げ場のない地下道に入っていったことも、すべて罠だったのかもしれない。周りを見渡し、あたかも自分ではない誰かに話しかけているかのように振る舞ったが、周辺には潰した紙箱を敷いて、壁にもたれかかる浮浪者ホームレスが一人いるだけだ。このような馬鹿げた言い訳や演技が通じるとは毛頭思えない。


 どうする。どうする。汗が止まらない。足が震える。そこから動くこともできない。どうしようもない。もう終わりだ。


「グルルルルッ」


 後ろから聞こえてきたのは獣の唸り声であった。その背に冷たいものを感じながら振り返ると、傍にいた浮浪者がゆらりと立ち上がった。垢や泥で汚れた衣服を何層にも厚着しているせいか、その実像を捉えることは難しい。頭にもぼろぼろの帽子に口元は首巻マフラーですっぽりと隠し、布地のすり切れた傘を杖のようにして曲がった背を支えている。僅かに見える瞳は濁っているが、炯々とした眼光を放っていた。


「フーッ、フーッ、フーッ」


 息を荒げ、傘を勢いよく地面に叩きつける。そうすると布は脆く崩れさった。驚くべきことに、本来あるべき傘の骨はなく、鉈を思わせる分厚い片刃の剣が鈍く鉛色に輝いていた。


 そして自らの首巻に手をかけると、それを強く引きはがしてみせた。その汚れた糞掃衣ふんぞうえが如き布切れの下には浅黒い肌に、細く引き締まった筋肉、だらりと長く伸びた腕に大きい手を持っていた。鼻は異様に高く、耳は長く尖り、頭にはまばらに毛が生えている。足の爪は黄濁し、鋭く、地面に食い込まんとして、わずかに動くたびに固い道に触れ、食器同士が擦れるような音を立てる。


 この姿は見覚えのあるものだった。しかし、肉眼で見たことはない。それは昔話の中の小鬼ゴブリンの姿そのものであった。人の衣を脱ぎ捨て、民族的な獣の牙や銀貨コインの腰巻で止められた腰蓑と全身をなだらかに覆う鎖帷子のみになった姿は、細いものの貧相ではなく、猟犬のそれを思い起こさせるようなおそろしさがあった。


「貴様をずっと探していたのだ、アルクツルス・オブ・マンハンター」


 その怪物は先ほどまでの獣の唸りとはうってかわって、しゃがれた声で流暢に語る。


「お主は私を知っているようだが、私はお主を知らぬ」


 そういうとと呼ばれた男は、少し笑い、剣袋に手をかけた。その中から思っていた通り、抜き身の両刃の大剣が白銀の眩い輝きを放ちながら、朝日が昇るが如く姿を現した。それは11世紀ごろの西欧のものを思わせるもので、飾りのない実戦的なものだった。黄金色こがねいろの横に伸びた鍔、分厚い金貨コインのような柄頭には薄暗いせいでよく見えないが格子状の紋様が刻まれている。握りは銀色で麻縄か何かが巻かれているようだ。


 剣袋を投げ捨て、その握りを両手で持つと、男の眼が変わった。殺気と言うべきか、それとも生気に満ちているというべきか。そこには敵を討つという敵意が感じ取れた。両者はゆっくりと前ににじり寄り、そして剣の切っ先を相手へと向けた。手首が素早く動き、刃が空を切って音を立てると、その剣気に押されてか、私は腰が抜けてへたり込んでしまった。それを意に介さず、両雄は互いに相手しか見ていなかった。


 半身で左足を前に軽く出し、両手に握られた男の戦いの相棒はやや右下がり気味に敵に向けられている。その切っ先は小さく8の字を横に倒した形に揺れ、それはまるで蜂が花の香りに漂うようで、敵の斬撃を誘っていた。


 他方、その怪物は剣を顔の横に上げて構え、混凝土コンクリートに覆われた天をさす刀は刃を彼に向けたまま微動だにしない。どこか力を抜いているような男の構えに対し、怪物の腕の血管は怒張し、全身が強張っていた。眉間には刀傷の様に皺が入り、こめかみは寄生虫か何かのように脈打ち、大きく見開いた瞳で一点を睨み、鮫のそれのような黄色い牙をむき出し、息を荒くしている。


 誘いに乗らないと見るや否や、男は口角を少し上げて、大きく息を吐くと、手が筋張るほど柄を強く握りしめた。そのわずかな変化に怪物は気づき、それも腰を少し落とし、踏み込まんとした。


 両雄の間に沈黙が流れる。二人の彫刻の如く立ち姿を、地下道の橙色のぬるい光が照らす。その薄明かりの中でも、お互いに相手を睨みつけたままだ。先にどちらが仕掛けるか。緊張のせいか、呼吸がどんどん荒くなる。息が詰まる。まるで深海に沈んでいくようだ。この場にいるすべての人が、という闇へと落ちていくことを感じさせた。


「負ければ死――」


 息をするのも忘れていたのにもかかわらず、自然と口からその一言が小さく零れ落ちた。それは至極当然のことだ。戦の中の光、剣を持った戦士が向かい合った時、その結末は常に一つ。相手の骨の住処を切り裂き、戦いの汗を滴らせ、傷の海をつくり、その肉を鴉の餌食とする。それが命を奪うということなのだ。そのが槍のように突きつけられ、背中に一筋の冷たい汗を流した。


「――勝つのは一人」


 その言葉は戦士の耳には届いていなかった。それは彼らにとっての現実、いつの時代も変わることのない普遍の掟。それを知らなければ両雄ともここまで生き延びてこなかっただろう。だが、それも終わりだ。今日、この時、この瞬間、どちらかの命の灯が消えるのだ。


 心臓が張り裂けんばかりに脈打つ。いつ、どちらが先にしびれを切らすのか。瞬きの内に終わるのが、死合いというものだ。


「きえええええええっ――」


 怪鳥の如き絶叫と共に、怪物が先に切りかかる。天高く掲げられた剣は背から肩、腕へと連なりながら振り下ろされ、強烈な踏み込みも相まって、それは必殺の一撃に思えた。


 しかし、それに臆することなく、男は剣を体の前に構え、切っ先を右斜め後ろの下よりに傾ける。その奇怪な体勢のまま、同じく男も怪物へ向かって踏み込み、その剛剣を受け止めた。すると剣の上を怪物の刃がその一撃によって、鋼が唸り声を上げて滑り、それによって必殺の一撃は空振りに終わった。鎖帷子が擦れて鈴に似た音を虚しく響かせる。


 剣を振り下ろしきってむき出しとなった怪物の懐に男は飛び込む。そして、その体勢から腰から胸、肩、腕を巻き込むように旋回し、大剣を無防備にさらされた怪物の首に叩きつけた。


「――ゴボッ、ゴホッ」


 その剣はまるで水でも切るように、抵抗なく肉へと食い込み、血を纏いながら滑りだしていった。先ほどまで威勢よく奇声を上げていた怪物は、喉を潰されたせいか、気管に流れ込んだ血が詰まったせいか、漏れ出る空気ともに傷口からごぼごぼと血を泡立たせ、何か言いたげな口をして、崩れ落ちていった。その眼からは生気というものが消えうせ、先ほどまで固く締まっていた肉は緩み切り、足だけが空を蹴るように痙攣している。


 私の顔に血が飛ぶ。先程まで生きていたはずのものから放たれる血潮は生ぬるく、顔に粘っこくついて離れないのであった。その不快感や、目の前で命が消えたという事実は私の心臓を強く縛り付け、喉は締め上げられて声も出なかった。


 そして、それらの動きは次第に鈍り、怪物は剣の――それも永遠の――眠りについた。先ほどまで殺気と生気に満ちていたそれは、もう二度と輝くことはなく、その血肉をなされるがままにされるのだ。それが死、永遠に続く暗闇、終焉、破滅、永遠の眠りにつくということだった。


 私は恐怖からか、自分自身が頭の奥へと沈んでいくのを感じた。そして、消えゆく意識の中で、剣で空を切り、その血を払う男――アルクツルス・オブ・マンハンター――の立つ姿だけが最後まで残るのであった。


 瞼を何か揺れる光がくすぐり、顔が熱でひりつく。脳の深層にまで沈んでいた意識がゆっくりと浮かび上がり、今の状況を動かそうと指先や足を少し動かす。まだぼやけた記憶を何とか思い起こそうとする。


 弩のように勢いよく飛び起きた。そうだ、目の前で怪物の首が刎ねられて、そこで気を失ったのだ。当然のことだが、大剣の刃を他者の首に叩き込める人間の前で身動きが取れなくなっているのは危険なことだ。


 急いで、周りを見渡すと、目の前には煌々と輝く焚き火があり、その前で先ほどアルクツクスと呼ばれていた男が岩に腰を掛けていた。そして、そこは人気のない地下道ではなく、鬱蒼と草木が茂る林の中であった。


「やっと目が覚めたか」


 そういうと、男は焚き火に枝を放り込む。彼の足元には桶のような形をしたヘルムがあり、その後ろには革張りの雫の形をした大楯が木に立てかけられていた。そこには家紋だろうか狼の姿が描かれている。混乱しているせいか、現状を把握するということよりも十字軍だったら狼より、獅子ではないかと言った関係のない疑問ばかり浮かんでくる。そして、混乱して目を泳がせている私を見つめる彼の両の手で、地面に剣を突き立てるように握っている姿が、白目の中を転がる瞳に入った


「動かさない方が良いかと思ったのだが、の死体の臭い嗅ぎ付けて、その仲間が集まるかもしれないと思ったから連れてきてしまった。大丈夫か」


 私が怯えている様子を見て、彼は落ち着かせようと話し続ける。


「ここは先ほどの場所から一里ほど離れた林だ。人一人担いで歩くのは骨が折れることだったが、命には代えられないからな」


 先ほども言ったように、人間というものは奇妙なもので、不安や恐怖、焦りに晒されたときほど関係ないことを考えてしまう。林の中で焚き火をして大丈夫なのだろうか、火事になったりしないだろうか、そのような考えが頭の中をぐるぐると廻った。


 そうして冷静さを取り戻し始めると、その手に握られた剣へ恐怖心が湧き上がってきた。向こうも火に照らされる刃を見て、目を回しているのに気が付くと、低く、落ち着いた声で語りかけた。


「大丈夫だ、私は味方だ。これは君に向けるものではない。だから安心してくれ」


 そうして眼をじっと見つめると、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「君の名前は何というのだ。教えてくれ」


「あ、あか、赤井、赤井竜です」


 恐怖のせいか、舌が上手く動かない。しかし、彼はそれを察しているように優しく話し続けた。


 「赤井君か。そうか。私は君の敵じゃない。皆からアルクツクス・オブ・マンハンターと呼ばれている。よろしく」


人狩りマンハンター、で、ですか」


 その名前で私がより一層怯えているのをみると、彼はしまったという顔をした。そしてそれを取り繕うように自分のことを話し始めた。


「私は元々探偵マンハンターとして奴らと戦っていたが、気が付けば人狩りマンハンターという意味で呼ばれるようになり、アルクツクス・オブ・マンハンターと呼ばれるようになったのだよ。まったく、迷惑な話だ」


 彼は少し苦笑いを浮かべると、炎の中に細い枯れ枝を投げ込んだ。枝は熱で弾けて音を立てる。それが二人の間の静けさを際立たせた。


「そうなると、本名は違うということですか」


 私が尋ねると彼は、また少し笑った。それは先ほどの苦笑いではなく、優しい笑みであった。


「アルクツクスは中間名ミドルネームだ。尊敬するアーサー王からとったものでね。本当の名前はフィル、フィル・ストーンマンというのだ。他の中間名も合わせると、フィル・"アルクツクス”・ゴドフロワ・マンソン・ストーンマンとなる。今ではこの長い名前で呼ぶ人間はいないがね」


 初めて会った――向こうは気づきもしていないだろうが――喫茶店でもそうだったが、彼は人の懐に入るのが上手い。本当の名前を明かす。それは心を開いてくれたことであり、私を信頼してくれていることを意味していた。そうなると、何故だか急にうれしくなり、ついつい声を荒げてしまった。


「い、良い名前だと思います」


 彼はまた笑みを浮かべ、小さくお礼を言った。本当に笑みを絶やさない人だ。私はますますフィルのことが好きになった。


「もう一つだけ聞いてもいいですか。その――」


 私が質問を言おうとして、もたついていると、フィルはまた笑みを浮かべて優しく落ちついた声色で何でも聞いてくれと言うのだった。それが、またたまらなく嬉しかった。今思えば、人生の中で私は誰かに求められたことも、疎まれたこともなく、居ても居なくても変わらない小石のような人間だった。それにも関わらず、フィルは一人の人間として接してくれたのだった。これほどうれしいことはない。


「――さっきから話に出てくるって何ですか」


 そういうと途端に彼の顔が曇る。不味いことを聞いてしまったのだろうか。そう思うと不安と焦りで胸が太鼓のように鳴り響いた。10年来の親友を失いそうな、そのような気持ちだった。


小鬼ゴブリンだよ」


 フィルは怒りか、それとも悲しみか、どちらともつかない表情を浮かべた。


「小鬼ですか」


「ああ、小鬼さ」


 頭が混乱する。彼は私の発言を不愉快に思っているのか、それともその小鬼はそれほどまでに口にしたくないものだったのか。どちらにしても、私が彼の逆鱗に触れてしまったことは確かだった。


 私が言葉を紡ぎ出そうと、口を無意味に動かしてると、彼はその表情をまた笑顔に変えた。しかし、それは悲哀に満ちたもので、私を安心させるために無理をしていることは明らかだった。


「すまない。奴らのことを考えるとどうしてもな。奴ら、いや小鬼は――」


彼は決心を固めたのか、炎の中で絹のように揺れる光を見つめながら話し始めた。


「――小鬼は常世の生き物の中で最も醜く、愚かで、忌まわしい生き物だ。性質は怠惰で、自らの手で何かを生み出すことはなく、常に怠けることと奪うことのみを考えている」


 彼はそういうと、剣の握りに手を添えた。そして拳に力を入れ、歯を少し食いしばる。


「奴らは人間の女をいつも狙っている。そして、まるでかびか何かのように瞬く間に数を増やし、常世を埋め尽くし、人に災いをもたらすのだ。だからこそ、誰かが正義の刃を振るわなければならぬ」


 その剣は炎に赤々と照らされ、まるで燃え盛る十字架のようであった。


「奴らによって、私の妻、マーガレットの。それにもかかわらず、私が属していたを果たさなかった。主に誓ったのにもかかわらず」


 フィルの顔から笑顔が消え、それは憎悪に満ちた憤怒の形相であった。その言動、彼が所属していたという集団、そして小鬼の存在は彼の言う常世と、私の考える常世が違っていることを意味していた。


「君には関係ないことだったな」


 悲しい出来事を話しているのだが、私はすべてを打ち明けてくれて嬉しかった。彼は会ったばかりなのに君とは気が合うと言い、それがたまらなく嬉しかった。


 彼は右手の人差し指をゆっくりと立て、それをじっと見つめた。そこには大きな古い刀傷があった。焚き火に照らされたそれは、血のように赤々としているように見えた。


「たまに考えることがある。自分の言葉を世に知らしめることも、欲しいものを手に入れることも、そして――」


 彼は深く息をのんだ。それは重たい何かを持ち上げるような、そんな力仕事をするための呼吸に似ていた。


「――人の命を奪うこともこの指一本で済む時代で、何故、俺は戦っているのだろうか。化石のような時代遅れの剣を振るって何の意味があるのだろうか。そう考えると眠れなくなる」


「それならば、何故、剣で戦うのですか」


 それは深い意味などない、単純な疑問であった。しかし、時としてそのような疑問こそが確信を突くことがある。


「奴らにやられた傷のせいで、私はその指すら満足に動かすこともできない。それでも、そうであっても、私にはこれしかないのだ。もうこれしか」


 そう言うと拳を力強く握りしめた。拳の上にうっすらと骨と筋が浮かび上がる。素人目には、先ほどの死合いの最中さなかにそのような障碍は見られなかったが、きっと本人にしかわからない微細な感覚があるのだろう。そして剣術と小鬼への復讐へ向けられた執念の強さに、息が止まるような気がした。


「そして、この一振りは、に仕えし名のある英雄にして王の剣。その一突きは火竜かりゅうの鱗を穿うがち、その一撃で岩をも裂くという。これは、私の小鬼どもに対する決意、人々の守護者たる証なのだ」


 そう言うと剣を袋に戻し、兜をわきに抱えて立ち上がった。そして、それをゆっくりと被ると、楯を拾って背負い、私にこう告げた。


「すまない。長々と話しすぎたな。今日のことはすべて忘れてくれ」


 立ち去ろうとする彼の背に向かって、私は無意識に叫んだ。


 「わ、私を弟子にしてください。私も、ひ、人のために尽くしたいのです」


 フィルの目が変わる。鋼の合間から見えるそれは、先ほどとは異なり人斬りのものだった。


容易たやすい道ではないぞ。苦難と脅威に満ちた世界へ挑むのだ。それでもお主はかまわないと言うのか」


「かまいません」


 この好機チャンスを手放すものか。これはやっと舞い降りた希望、人生の刺激、生きる意味。絶対にものにしなくてはならない。そのためだったら仕事も、自分の命さえもどうでもよかった。


 それから、私とフィルとの、つまりは伝説の小鬼狩りにして崇高なる精神の騎士、アルクツクス・オブ・マンハンターとの冒険は始まった。


 騎士に仕える従士エクスワイアというものは、荷物持ちと楯磨きから始まる。していることは今までの仕事と大差ないが、それでも胸の高鳴りは止まなかった。何故ならば、常に何かが起こる希望に満ちていることだからだ。


 服装も決められたものになった。麻の肌着シュミーズ羊毛ウール頭巾フード付きの上衣チュニック、革の長靴ブーツとまさしく中世の農民といった格好だ。お世辞にもそれは勇ましいとか、美しいといったものではなく、頭巾は先が尾っぽのように垂れてるし、そもそも誰かのおさがりなのか、大きさがちぐはぐだった。その上、木で組まれた大きな背負子を背負っているのだから、なおのこと目立だった。


 そこには大小いくつかの楯だとか、天幕テントや椅子、使っているところを見たことない――彼曰く、騎士たるもの剣だけではなく、パイクから戦槌ウォーハンマーまであらゆる武器を使いこなさなければならないらしく、そのための予備らしい――武器がたっぷりと積まれているので、大変重たく、その姿は杖をつく老爺のように腰が曲がっていた。


 街を歩けば、顔から火が出るほど恥ずかしかったかもしれない。しかし、私たちは剣や武器の修行の為に、一日中、森や林に籠ることが多くなっていた。そうなると自然と他者との出会いも減っていった。それによって二人の時間は濃密なものとなり、気が付けばこの農民めいた従士としての格好に誇りを抱くようになっていた。

 

 いつしか、私たちは夜更けに小鬼どもを探す以外は、森から出ることはなくなり、外界との連絡手段も修行の妨げになるためすべて捨て去り、その生活は隠遁の様相を呈してきた。人は私たちのことを世捨て人と罵るかもしれないが、フィルはこれを隠者や隠修士であると自負していた。


「この生き様こそが男の本懐、戦う修道士ウォーリアー・モンクである騎士のあるべき姿だ」


 そう言っては、自分のことを聖大アントニオスかテーベのパウロスであるかのように語っていた。事実、彼の会話の中には度々、聖ゲオルギオスや大天使聖ミカエルといった聖人や御使いが登場し、彼らのように常世を蝕むをその剣をもって癒すのが使命であると言っていた。まさしく、その通りだ。だからこそ、私たちは天から授けられた使命に従事すべきであり、それが生きる意味なのだ。


 彼は人気のない森の中であっても、自分たちは小鬼のような獣ではなく、人間であることを忘れないようにと言った。それは信仰と信念、礼節、そして正直であるという高潔さと、忠誠心を持ち続けるように努めることを意味していた。私たちはただの血に飢えた野蛮な戦士ではない。天から授けれた使命に従事する騎士なのだ。そして騎士であるためには、そのような清廉な精神が必要不可欠なのだ。


 彼は他にも私に様々なことを教えてくれた。奴らは鶏肉チキンを好むため、養鶏場の近くにいることが多いということ、金銭の使い方を知らないということ。他にも、騎士として弱者をいたわり、に忠誠を誓い、敵前から逃げず、異教徒――つまりは邪悪で醜い小鬼たち――には容赦はしないいった心得も一から教わった。そういった些細なことも、偉人の金言のように感じた。


 騎士にとって重要な——出エジプト記のそれに似た——騎士の十戒についても学んだ。教会の教えを信じ、それに従うこと。その教会を守ること。弱者をいたわり、彼らの守護者であること。国を愛すこと。敵から逃げないこと。異教徒には容赦なく、その剣を振ること。主の教えに反かないかぎり、主人に忠誠を尽くすこと。常に寛大であり、相手が誰であっても施しをすること。嘘をつかないこと。そして——最も大事な戒律である——いかなるときも正義と善の味方として、悪と不正に立ち向かうこと。


 これらは騎士、そして小鬼狩りにも通じる精神だと思えた。これらを体現するのが——我が師——フィルだ。やはりアルクツクス・オブ・マンハンターの名は伊達ではない。


 そして、幾度か小鬼との果し合いにもついていった。奴らの多くは浮浪者に化け、人気のない路地裏や下水道に潜んでいる。フィル曰く、奴らは臭いでわかるらしい。私も彼のいるその域へ早く達しなければならないと思った。そうすれば、初陣を切り、奴らの醜い顔をその身体から自由にしてやれるのだ。


 フィルが剣を抜くと小鬼どものほとんどは怯えて逃げ惑っていた。中には、言葉こそ何かわからないが、手を合わせて命乞いのようなことをするものもいた。頭を垂れて、小さく背を丸める姿は哀れさを通り越して、滑稽ですらあった。


 やはり、小鬼を狩る伝説の男、の異名は奴らの間にも響き渡っており、その姿を見た途端に皆、恐怖に屈するのであった。そのような彼と共にいると、私も強くなれた気がした。


 それは今までにない力の実感だった。剣の柄を握るということは、相手の生殺与奪の権利のすべてを握るということだと知った。相手のすべてを支配し、すべてを操作コントロールすることができるのだ。それは如何なる性行為セックスよりも快楽に満ち、正義感を滾らせ、自分がであることを再認識させた。究極の力がそこにあった。


 私はまだ、小鬼を斬ったことはないが、同行するだけでもこの悦楽だ。本当に敵を斬ったときのことを考えるだけで興奮した。これこそが待ち望んでいた人生の刺激、生きる意味、希望だった。


 そしてフィルは私に戦闘についても多くのことを教えてくれた。騎士には精神性だけではなく、それを実行する力も求められる。それを叶えるのが勇猛さと戦闘能力であり、そのために必要な知恵を授けてくれたのだった。

 

 小楯バックラーを用いた打撃パンチを打つときは、錐揉みのように肩から拳にかけて内側にねじり込み、腰を使って放つということ。斬りかかってくる相手の一撃をいなし、剣をぐるりと回して相手の手首を打つ返し技カウンターでは、身体は逃げつつも、心では逃げずに攻め続けること。そして初めて私の前で小鬼を斬ったときに見せた首を突く水平切りは、剣ではなく、体で相手を斬ること。彼が一つ、また一つと技巧テクニックを見せてくれるたびに感動を覚えた。そして、私を後継者にするかのように型を教え込んだ。


 まだ、武器は持たせてもらえないが、私はそれでも満足だった。それほどまでに彼との生活は魅力的だったし、その冒険には希望と刺激が満ちていた。


 だが、彼との冒険には危険もあった。逃げ惑うだけならいいものの、小鬼たちの中には私たちを追い、その息の根を止めんとする不届き者もいた。やはり、善良な小鬼とは死んだ小鬼だけだ。奴らは生きる限り害をなす、邪悪で、常世で最も忌み嫌われる生き物なのだ。


 冒険を始めて最初に会ったそれは、名をラッカーと言った。奴自身が名乗ったわけではないが、我々が悪党退治のために、下水道に潜む小鬼の首を刎ねようとしたときにそいつは現れた。その小鬼が逃げようとして、奴をラッカー・オブ・アデルと呼んでいたのを強く覚えていた。


 ラッカーは岩肌に似た灰色の肌をしており、竹節虫ななふしのように長い手足を持った小鬼であった。しかし、他の小鬼と違ったのは、奴はその身体をくすんだ鎖帷子と緑の陣羽織サーコートで固めており、手には革の手袋グローブの上から鋼の籠手ガントレットを着けていた。事実、その肌の色を知ることができたのも、果し合いの前に鉢型兜バシネット面ぽおバイザーを上げてこちらに語りかけて際に、その憎悪に満ちた邪悪な顔を見ることができたからだった。。奴は両刃の鈍く黒ずんだ両手剣を持ち、わずかに右足を前に出して、正中線上にくるように剣を構えていた。


「マンハンター、貴様の悪行もこれまでだ」


「悪行だと。小鬼を狩って何が悪い」


 フィルは切っ先を右下寄りにし、いつものように半身で構える。そして、蜂か蝶が舞うように、刃をわずかに揺らした。急襲された以前の地下道での戦いとは異なり、こちらも革の手袋の上に眩く輝く鋼の籠手を着け、円筒上の兜をかぶり、その隙間から奴を睨みつけている。私も以前とは違う。彼の少し後ろに立ち、彼の服の上からでも動きを筋に至るまで読み取ろうと見つめていた。


 両雄とも構えを崩すことなく、ゆっくりと前に進んでいく。すり足で、じわじわと行くためか、足元を流れる下水に波は立つことはない。この澱んだ空気の中、そのわずかな水音だけが響く。


「きえええええええっい」


先に斬りかかったのはラッカーだった。剣を高く振り上げ、背、肩、腕と全身を使って叩きつける。フィルはそれを右斜めに受け、首元を狙いに行く。彼の得意な一撃だ。剣がぶつかり合い、甲高い音が響く。刀身はその衝撃で震え、唸り声を上げる。


 しかし、ラッカーは臆することなくそのまま踏み込み、肩がぶつかるほど近づき、鍔迫り合いへと持ち込んだ。二つの切っ先は下水の中に落ち、飛沫が上がる。振り上げようとするフィルとそれを抑え込むラッカー。鎖帷子越し、いやその下の鎧下越しでも二人の腕が怒張していることが読み取れるほど、力がこもっていた。鍔同士が歯ぎしりに似た音が鳴る。


 指の怪我もあってか、彼は戦いが長引くことはこちらに不利だ。フィルはこの拮抗状態を打破すべく、右膝を奴の腹に蹴り込む。そして、その身がわずかに離れると、間髪入れず鍔頭でその頭を殴りつけた。この一撃に小鬼を昏倒させるほどの威力はないだろう。だが、戦況を変えるほどの威力はあった。


 そのまま後ろにたじろぐラッカー。それに対してフィルも少し退く。一見すると好機に思えるが、それでも攻め込まない。彼はたびたび言っていた。果たし合いとは釣りに似ている。じたばたとせず、相手を観察し、こちらの罠に引っかかった一瞬を突ける冷静さを持った者のみが勝利を得ることができるのだと。


 それに対してラッカーはどうだ。頭を打たれ、明らかに混乱と焦りが見える。有利だと思っていた戦況をひっくり返されたことは、肉体よりも精神に大きく影響を与えていた。ラッカーの息が荒くなる。切っ先をこちらに向け、殺意をむき出しにするが、フィルはそれでも無駄な力を抜いたその構えを崩すことはない。


「マンハンター、貴様が奪ってきた命の仇、今ここで俺が討つ」


奴は剣を顔の横に構え、その切っ先を高く掲げる。それは以前の地下道の小鬼と同じ構えで、足、腰、背、そして肩から腕へと連なった一撃を打つつもりであることは明らかだった。しかし、ラッカーは以前の小鬼よりも腕が長く、間合いも広い。その上、先ほど見せた返し技を封じ込めるほどの膂力も持つ。これでは以前のようにはいかない。


「どうします、フィル」


「案ずることはない」


その声と背中はいつもの冷静さと落ち着き払ったもので、私を安心させた。足元を流れる下水の音が、小川のせせらぎにも聞こえる。


 気づけば、彼の切っ先は石像のように固まり、醜い小鬼の一点に的を絞っている。向こうもそれに気づき、腰を落として身構えるが、それフィルは動じない。それどころか、大きく息を吐き、呼吸を整える余裕すら見せている。


「マンハンター、悪魔め、覚悟っ」


 ラッカーが再び切りかかる。その剣は空を切り、鷲の叫びのような音を響かせる。金属音が鳴り、その音は鋼の嘆き声へと変わる。フィルが、アルクツクス・オブ・マンハンターがその一撃を受け止めたのだ。彼は籠手を利用して刀身を握り、右手と左手との間に距離をつくることで、相手の斬撃を腕の力だけではなく、全身を使って止めたのだ。


「ふんっ」


その状態のまま、再び、柄頭で相手の頭を殴る。兜が鐘のように震える。そして、怯んだすきに鳩尾へと前蹴りを繰り出し、刀身を握った状態でうずくまる相手の膝を槍で突くように刺した。


 筋肉も薄く、血が多く通い、なおかつ足を支える膝。そこから血が滝のように流れだし、筋を断たれたことで、力なく小鬼は崩れ去る。そして奴が振り返る隙も与えずに、素早く両手で柄を握ると、その刃をそのうなじに叩き込んだ。


 やはり、フィルは、いやは強い。如何なる小鬼も敵ではない。私の師は不敗の騎士なのだ。そう思うと誇らしさと共に、力が漲るような気がした。


 彼は一仕事終えたと言って兜を外した。その額には汗ひとつかいておらず、涼しげな顔をしていた。あれほどの剣の嵐に身をおきながらも、汗を流すことがないとは、彼の冷静さには感服せざるおえない。


「勝ったからよかったものの、今のは危なかったですよ。一匹とりにがしてしまいましたし」


本当は飛び跳ねて喜びたいところだが、幼稚だと思われたくなかった。少しでも自分を大きく見せようと、少し強い口調でそう言った。


「後ろに仲間がいると安心感だけで、無謀と思えることにも挑めるものよ。それに私たちなら、敵前から逃げる奴らを討ち取ることなど容易い」


 何と嬉しいことを言ってくれるのであろう。この言葉を待っていた。私の人生において最高の刺激、最大の生きる意味、そして希望となる言葉だ。


 私たちは現代のモーセとヨシュア、アーサー王とベディヴィア卿、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソン、バットマンとロビン、キャプテン・アメリカとバッキーだ。正義の二人組コンビ、最高の相棒、私たちの絆は終わることなく、熱く燃える正義の心は消えることはないだろう。


 しかし、悲しいことに常世に永遠はない。正義の執行人であった私たちの前にその男は現れた。その名はエリック、他の小鬼どもは彼のことをと呼んだ。奴は獣のうなるような低い声で話し、全身にはいくつもの刀傷があり、それがその恐ろしさを物語っていた。


 鼻は高く、落ち窪んだ眼のその顔は育ち過ぎた禿鷹を思わせた。他の奴らが少年ほどの体躯だったのに対し、フィルと同等、いや彼を超す巨躯の大鬼ホブゴブリンであった。その肉体は熊と組みあいができそうなほど頑強で、指ですら少女の手首ほどの太さがありそうだった。彼はきめ細やかな絹のような鎖帷子と、厚手の緑色の陣羽織サーコートを纏っていた。そこには赤い尾を咬む大蛇ウロボロスと三日月が描かれる。左腕は丸楯に隠れて見えないが、右手には鉛色の傷ついた籠手が付けられており、その姿から彼が今までの奴らとはことを示していた。


 日も届かない薄暗い山中の中で両雄は対峙した。私たちが南の山を野営キャンプ地とし、そこで剣を研いでいる時に奴は現れた。


「断りをせずに現れるとは、やはり小鬼だな。礼儀を知らん」


フィルは驚きもせずに、落ち着き払った様子で兜をかぶり、それまで焚いていた火に足で砂をかけた。そして、私に自分の後ろに行くように伝え、剣を構えた。


 エリックはそれに動じることもなく、尾を咬む大蛇ウロボロスの描かれた丸楯を掲げ、片手には柳の葉に似た末広の片刃の刀を携えていた。そしてそれを首横に構え、その切っ先と殺気を彼へと向けた。


 楯は遠くに構え、半身の体をその後ろに隠す。隙のないその構えに歴戦の猛者たるアルクツクス・オブ・マンハンターであっても攻めあぐねている。それにも関わらず、奴は落ち着き払い、鉢型兜の面ぽおの隙間から語りかけてきた。


「アルクツクス・オブ・マンハンター、いや、フィル・ストーンマン。貴様の蛮行を私は知っているぞ」


 今までの小鬼とは異なり、奴はフィルの目を睨みつけたままではあるものの、何か遠くを見るような、いや私たちの何かを見透かすような瞳をしていた。


「フィル、貴様、マーガレットがどうなったのか、その従士に言ったのか」


一瞬、フィルの動きが止まったような気がした。だが、きっとそれは気のせいだ。何故なら彼は正義の執行人、伝説の小鬼狩り、偉大なる騎士、人々の守護者、なのだから。


 それに対し、エリック・オブ・ウロボロスはじりじりとすり足で我々に迫ってきた。その炯々とした眼光は鋭く、牙をむき出して、その合間から荒々しい息を洩らしている。私はその剣気に圧倒されていたが、私の前に立つフィルは剣をいつもより高い位置に構え、切っ先を8の字に揺らしていた。


 その後ろ姿にいつものように安心感を抱いたが、兜のわずかな隙間から見えた肌を見て、私はすべてを悟った。いつもは殺気に満ちていた彼が汗をかいている。指の怪我のせいもあってか、どの果し合いも一撃か多くても二撃で決着をつけている。そのため、平常心を保ち、焦った相手の隙を窺う独自の型を取り、当人は決して汗をかくことはなかった。


 汗をかいているということは、その常に冷静沈着なはずの彼が焦っていることを意味している。ありえない。彼はフィル・ストーンマン、またの名を伝説の小鬼狩りゴブリン・ハンター、アルクツクス・オブ・マンハンターだ。その彼が気迫で負けるなどありえないことだ。


 先にしびれを切らしたのはフィルの方だった。刃を横に倒し、強烈な踏み込みと共に前へ突き出す。刃を横に倒すのは突きの後に、水平に切り裂くためだろう。だが、明らかにいつものフィルではない。冷静さのかけらもない、まさしく直情的かつ直線的な一撃だった。


 エリックはそれを刀で受け、そこから手首を回し、彼の左の肩から腕にかけて一太刀を浴びせた。その流れるような滑らかな返し技は、鎖帷子があるとはいえ、フィルの左腕の肌を裂き、そこから血が一気に溢れた。


 幸い、深い傷ではなかったが、ただでさえ焦っていた彼にとってその衝撃はすさまじく、咄嗟に身を後ろに引いてしまった。


 そこへ楯での追撃が打ち込まれる。身を後ろに引き、完全に力の抜けた状態であったフィルへと下から打ち上げるように叩きこまれたそれは兜越しとはいえ、その顎をはね上げた。頭だけではなく、身体が大きく揺れ、そのまま尻もちをつくように倒れ込む。そして、さらなる追撃を避けるために這いずりながら逃げた。


 私たちにとって初めての敗走であった。背負子もなげうって逃げた。騎士としての心得も捨てて逃げた。その時、私ははじめてというものへ執着した。


 逃げ込んだ山小屋の中、座り込む私たちの周りの空気は鉛のように重く、冷たかった。初めての敗走、きっと奴らに追いつかれる。でも勝てなかった相手に私が勝てるはずもない。棄てられた山小屋の中に、彼らに立ち向かうような道具はない。祈ったところで救ってくれる主はいない。あるのはフィルの手に握られた剣のみ。夜のとばりのように、絶望が二人を包み込んだ。


「かくなる上は、決死の突撃あるのみ、か」


彼がぼそりと呟いた。決死の突撃、その一言は重い。フィルは復讐に燃えるだ。死も恐れない精神の持ち主だろう。しかし、私はどうだ。私にその覚悟があるのか。


 私は、死にたくない。何故死なねばならないのだ。正義の執行人であるのに。人々の守護者であるのに。ただ、ただ、刺激が欲しかっただけなのに。気が付けば涙が止まらず、膝が笑っていた。


 フィルが、アルクツクス・オブ・マンハンターが剣を支えに立ち上がる。決死の覚悟で、決着をつけるつもりだ。彼はぶつぶつと何かをつぶやいている。自分に何かを言い聞かせているのか、それとも念仏か、主への祈りか。それが何かであるのか定かではない。だが、そこに覚悟があるのは確かだった。


 一方、私はどうだ。膝に力が入らず、立ち上がることができない。何と無力なのであろう。私には力がない。それをまざまざと思い知らされた。怖い。怖くて仕方がない。命乞いをすれば助けてもらえるかもしれない。そんな考えばかりが頭をよぎった。

 その時だった。フィルが飛び出そうと身構えた時、外から声が聴こえた。それは獣が唸るような低い声。聞き覚えのある声。間違いない、これはエリック・オブ・ウロボロスの声だ。


「フィル・ストーンマン、そしてその従士よ。貴様たちは完全に包囲されている。もう終わりにしよう」


 そっと、窓から外をのぞくとそこには小鬼どもが刀を持って、フィルが出てくるのを今か今かと待ち構えていた。


「うるさい。誰がお主らなどに従うか。この醜い小鬼どもめ」


その急な絶叫に驚きを隠せなかった。フィルは完全に冷静さを失っている。彼は兜を脱ぎ捨て、鼻息荒くし、唇の端に泡をつくっていた。


「フィル・ストーンマン、貴様には罪なき小鬼を殺した容疑、そして妻を殺した容疑がかかっている」


 どういうことだ。おかしい。フィルの妻は、マーガレットは小鬼にはずだ。話が違う。私は不安で彼を見るが、彼はその言葉に完全に我を忘れている。理解が追い付かない。エリックは落ち着いた口調で語りだした。それはフィルに向けられたものではない。明らかに私に向けられていた。


「アルクツクス・オブ・マンハンターこと、フィル・ストーンマンは小鬼狩りの英雄などではない。彼は妻と目があった罪なき小鬼の青年に暴行を加え、吊るし首にしただけのただ小鬼差別主義者レイシストだ。彼の指の傷はその時に抵抗されてついたものだ」


 混乱する私にフィルが奴らの言うことを信じるなと叫ぶ。


「彼はその後、それが明るみになり騎士団から追放処分が下された。そして、妄想に憑りつかれるようになり、を盗み出した。それらに耐えられなくなった妻が家を出て行こうとして口論になり、彼の妻、マーガレットは彼に殺害された」


 頭が真っ白になる。彼は私に目を合わせなくなった。もう何を信じればいいのかわからない。


「フィル・ストーンマン。貴様はまた弟子をつくり、そして手にかけるのか。お前の指が動かないのは傷のせいではない。その心を犯す毒、心の病によるものだ。いくら親しい人間を斬ったからといって、指は治らない」


 全身から冷たい汗が流れだす。頭の中は整理がつかなくなり、満足な言葉も発することができない。真実が、虚構が、区別がつかない。


「嘘ですよね、フィル」


喉の奥から絞りだした一言だった。たった一言で良い、一言だけ返してくれればいい。頼む、俺の望むものを返してくれれば良い。


「マーガレットの時は動いたのだ」


現実は非情だ。


「すまない。だけど仕方がない」


フィルが剣を振り上げる。私は指一本動かすことができなかった。


「きえええええええっ――」


彼が扉に背を向けた瞬間、扉を蹴破って一人の小鬼が飛び込んで来る。そしてフィルの脇腹に刀を突き刺した。エリックが語りかけたのも、フィルの不都合な真実を明かしたのも、すべては戦術であった。この一瞬、一撃を入れるのに最低限必要な時間と隙を作るための罠だったのだ。


「――っえええい」


 フィルは咄嗟に後ろに振り向こうとするが、そこに第二陣、第三陣の小鬼が突入し、その腕を抑え、歴戦の猛者、伝説の小鬼狩り、はここに斃されたのであった。


 腰を抜かす私を前に妄言を吐き散らすフィル。部屋は彼を取り押さえるために突入した小鬼の兵士で溢れかえった。そこに悠然とエリック・オブ・ウロボロスが入ってくる。彼は取り押さえた犯人を連れ出すように指示をすると、捨て台詞のように一言を吐き捨てた。


「貴様の指を縛っていたのは、傷でも、主の思し召しでもない。貴様自身の妄執だ」


 そして私の前に来ると、へたり込む私と同じ目線になるように座り、語り始めた。


「貴様たちが斬ったのは、殺人犯を追う善良な専従捜査員と、人間の世で暮らす罪なき者たちだ。お前へたちは正義の執行人などではない。ただ自信が持てず、弱者を狙って力を確かめようとする血に飢えた殺人鬼シリアル・キラーだ」


突きつけられた真実は、私が今まで過ごしていた虚構を打ち砕いた。


「知らなかったんです」


涙を止めることすらできないまま、自信のない小さい声で呟いた。エリックは冷酷な顔のまま聞き返した。


だと。本当にそう思っているのか」


 私の胸倉をつかみ、力の入らない体をその膂力で持ち上げる。


「一度でも、ただの一度でも逃げ惑う同胞に同情しなかったのか。命乞いをする姿に慈悲を抱かなかったのか。貴様は自分の力の実感のためだけに、それらすべての感情に蓋をし、正義という快楽に覚えれていたにすぎぬ――」


そして、私はくずごみを捨てるかのように壁に投げ捨てられた。


「――貴様を殺さないのは許したからではない。私たちは人狩りマンハンターとは違う。無益な殺生はしない。殺す価値もないものに剣を振るわない、それだけだ」


 彼は立ち上がると部屋に残っていたわずかな部下たちに撤収の用意をするように伝えた。そして小屋から出ていこうとしたとき、扉の間際でこちらに振り向くことなく語った。


「私たちは長年、愚かで、醜く、怠惰な生き物とされてきた。不当に虐げられ、生まれながらの隷属種族であるかのように扱われてきた。人間の女を狙う獣と呼ばれ、生まれながらの咎人だと言われてきた――」


その大きな背中には怒りや悲しみ、そして悔しさがにじみ出ていた。扉にかけていた手に力が入いり、一気に筋張り、怒張したかと思うとそこに皹が入るほど握りしめた。


「――我々の文化や宝物は、奴らにされ、奪われてきた。結局、我々も奴のような者たちの妄執に縛られているのかもしれぬ」


 最後に、こちらに一瞥を投げる。その眼差しの何と冷たいことか。そこには彼らの積年の想いが詰まっているように思えた。


「一つだけ忠告しておく。刺激だとか、力の実感を求めても、北の盗賊村には近寄るな。あそこは竜の荒らし場、人が踏み入れていい世界ではない。そして、そのような刺激に溢れる人生を過ごそうが、力の実感を出来る日々だろうが、それによってお前が何者かになれるわけではない。日々退屈で仕方のないような、それでもその中でもがいて、生きていこうとするその営みが、その人間を何者かにたらしめるのだ」


彼は剣を回収すると、あるべき場所――北の盗賊村に――に戻さなくてはならないと言って立ち去っていった。


 その去り際、窓から差し込む陽の光に当てられ輝く剣の刃には、毒枝のごとき焼き入れ模様が広がっており、その血溝には唯一の神の名などではなく、北方の神々の一柱である古の名が刻まれていた。


 それから月日は流れ、私は二度と喫茶店に行くことはなかった。刺激を求めることも、生きる意味を探すことも、希望を願うこともなかった。


 私は資本主義社会の歯車へと戻り、そのまま何の変革も起こすことなく人生を終えることだろう。瞼を瞑ると、私が殺していった無実の人々の最期の形相が思い出される。そして、正義という麻薬におぼれ、暴力で力の再確認をしていた自分を嫌悪し、恐怖する。終わることのない苦しみ、これこそが私に下された罪なのだ。


 私は知った。真の鬼とは彼らのことではない。正義におぼれ、剣に憑りつかれた私たちこそが真の剣鬼おになのだ。


 私たちは自らの手で剣鬼を創り出したのだ。



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