第3話『トロール問答』

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。


――出エジプト記 第20章 第3節より


 澄んだ冷たい空気に、青く若々しい芝。そこに吹く風は思い切り深呼吸すると胸いっぱいに自然の持つ素晴らしい味わいを満たし、心の毒する穢れを洗い流して軽くしてくれる。


 そこの名は通称村。野暮ったく、田舎臭い名前だ。本当は別に立派な名前があるのだが、その名前は発音しにくいため、この名で呼ばれていた。この村は以前、大岩の紋章を掲げた領主が治めていたことから、その名がつけられ、村のあちこちにその時代の面影を見ることができた。


 しかし、それだけが理由ではない。この村は二つの天高く切り立った断崖絶壁の山脈に挟まれ、後ろには深い闇の森が茂っており、それら自然が生み出した砦によって守られてきた。その砦は外から中へと悪しき侵入者を拒むだけではなく、中に満ちる草花の恵みを外へ逃がすことはない。それによって生み出された野趣あふれる文化の数々は、街にはない美しさと豊かさを持っていた。これを完璧と言わずに何を完璧というのだろうか。この自然が築きし要塞たる山脈と、崩れ去ることのない完璧な美をなぞらえて、皆、「大岩」村と呼ぶのだ。


 しかし、ただ一人、この村を、その恵みを完璧だとは思っていない男がいた。彼は村の話を聞くと、その村をにすべく足を運んできた。この男、名をパウロといい、の教えを広めることを天職としている宣教師だ。


 村は大自然の雄大さをそこかしこに感じさせ、それに関してはパウロも主の偉大なる御業を感じたが、この村にはそれを民衆に伝える場がなかった。彼はそれを残念に思い、主の教えを伝えるべくやって来たのだ。


 彼は単身で、列車を乗り継ぎ、でこぼこの道を歩き、それら彼なりのを乗り越えて村に来た。そうして、村の真ん中を通る小川に沿って村人が集まっているという酒場を目指して歩く。


 小川は底の石に生す苔の一つ一つを見分けられるほど澄んでおり、魚の銀の鱗が陽の光によって煌めき、まるで美しいドレスを纏った踊り子のようであった。それは水が透明であるという当たり前の事実を再認識させるには十分なもので、空気との境が曖昧なそこでは、魚は空を舞っているようにも思えた。


 パウロはその輝きを見るたびに主がこのようなをこのの地に創り出し、な人々に与えてくれたことに感謝した。この美しさに報いるためにも、急がなければなるまい。パウロの信仰心は智天使ケルビムの抱く炎の如く、ますます燃え盛った。


 酒場へと向かう道のりには家はほとんどなく、そもそもこの村には人が建てたものよりも自然が建てた岩や木々の方が多かった。そのため娯楽も小川で魚を釣るぐらいか、酒場で酒を飲むしかないことが誰にでもわかる。パウロにとってそれは悲しい事だった。彼にとって酒というものは頭の中を濁らせ、主のお導きから人々を遠ざけると考えていたからだ。


 だからこそ、神の教えを与える場を作ることは急務だ。きっと教会をつくった暁には酒場は空になり、主の御前は村人でいっぱいになるだろう。パウロの頭は理想でいっぱいになった。


 村で唯一の酒場、『赤竜館レッド・ドラゴン』は昼間だと言うのに人でいっぱいになっていた。中にはきこりたちが大騒ぎし、その顎に蓄えた豊かな森を麦酒で濡らしている。彼らは酔いに任せて韻律も節も滅茶苦茶な詩を歌い、その素っ頓狂な歌が酒場を満たしていた。


 パウロが扉を勢いよく開けると酒の匂いと酔っ払いの騒ぎがどっとこぼれ出したが、彼の姿を見ると急に静かになった。それは無理もないだろう。この村は大自然の城壁に守れているせいか、人の出入りがほとんどなく、それによって教会もない村だ。そのようなところに真っ黒な司祭平服を着た見知らぬ男が来たら警戒するなという方が無理な話だ。しかし、パウロはそのような事は気にせず、笑顔で酒場の入り口からすぐの席に着いた。


「ご主人、水を一杯いただけるかな」


彼が店の老いた女主人に訊ねると彼女はただでさえ皺の多い顔をさらにしかめた。


「お客さん、よそ者だね。もしかして文字が読めないなんてことはないだろうね?外の飾り看板にちゃんと酒場と書いてあっただろ。酒場は水で喉を潤す店じゃないんだよ、酒で頭を惚けをさせる店なんだよ。それを踏まえてもう一回注文を言ってくんな」


「水を一杯いただこう」


 折れることのないパウロにますます嫌そうな顔をすると、主人は水を一杯汲んで荒々しく置いた。それでも彼は笑顔を崩さず、水を一気に飲み干した。そうして喉を潤すと意気揚々と説教を始めた。


「やあやあ、迷える子羊たちよ。まだ日が天高く輝き、主の御業を感じさせてくれているというのに、岩の下の虫のようにこそこそと隠れて悪魔の水で罪を重ねているとは何事か。しかし、まだ遅くはない。ヨハネの手紙第一の第1章第9節にはこう書いてある。『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。』つまり、今からでも悔い改めさえすれば慈愛に満ちた我らが父は必ず受け入れてくれるということだ」


 店にあふれる酔っ払いたちは素っ頓狂な説教をする男を口汚く非難したが、それがパウロの心に響くことはない。彼はそれを乗り越えて彼らを主の僕であることを自覚させた時に、何とも言い難い快楽を得るのだった。


 その罵詈雑言の嵐の中、酒場の一番奥の座席に一人だけ何も叫ばず、動じていない男がいた。彼は座っていてもわかるほど大柄で腕回りは若い娘の腰回りほどありそうだった。黒い髭にぼろぼろの服、足元に置いてある斧から彼が樵であることは明らかだった。


 パウロは彼のもとにゆっくりと歩いていくと、その肩を叩き、語りかけた。


「君はどう思うかね?見たところ樵のようだが、それなら仕事中に主の御業を感じることがあるだろう。天に向かって枝をのびのびと広げた大樹、そこにとまって美しく歌う小鳥たちの合唱、そのどれもが偉大な芸術家にして詩人である主のすばらしさをまざまざと見せつけているだろう」


 樵は小さく鼻で笑うと、パウロの手を振り払った。


「大樹が枝を伸ばしているのは、大樹が枝を伸ばそうとしているからだ。小鳥が美しく歌うのは、小鳥が美しく歌いたいと思っているからだ。誰かに命じられたわけでも、誰かによってそうされたわけでもない。彼らの努力の賜物だ」


 パウロも樵の様に鼻で少し笑うと、言い返した。その樵が話せば、周りの樵たちはみな黙る。きっとこの樵がこの町の顔役なのだ。つまり、この男さえ懐柔すれば、すべてが解決するということだ。パウロは熱弁を振るう。


「樵よ、それはそう思うように主が作ったとは思わないかね」


「ならば宣教師さんよ、俺があんたの教えを断るのもそのように主が作ったってことになるんじゃないのかい」


 その時にはじめてパウロは眉間に皺をよせた。それもそのはず、樵の口は達者で水掛け論になってしまったからだ。


「宣教師さん、あんたがどんな神さんを信じていてもいいが俺らに押し付けんでくれ。あんたにはあんたの神さんがいるように、俺らには俺らの神さんがいるのよ」


 樵に言いくるめられたパウロは顔を真っ赤にして唇を噛んで赤竜館を後にし、次の日から村の真ん中に立って説教を始めた。それから目の前を何人の村民が通り、頭上を何回太陽と月が通り過ぎただろうか。誰も彼の持ってきた主の教えに従おうとするものはいなかった。パウロは最初こそ、いつかは理解されると期待を持っていたが、滞在日数に零が一つ増える頃には疲れの方がそれに勝った。


 疲れはてたパウロは最後の手段に打って出ようと考えた。それは主の教えを伝えるための主の家、神の家、人々の我が家、つまりは教会をつくることだ。幸いにもこの村には奥に深い森があり、そこを切り開けば土地も建材も十分にある。教会さえできれば今度こそ日曜日に酒場は空っぽになり、樵たちは家族を連れて主のありがたい御言葉を聞きに来ることだろう。そう思うと枯れかけていた希望は再び湧き上がり、心の中を満たした。


 善は急げと樵たちに教会をつくるように頼みにいったが、どんなに金を積もうとも首を縦に振る者はいなかった。聞くところによると樵たちは村の奥の森から木どころか枝一本取らないらしい。あそこの森は村のだれのものでもなく、のものということだ。それを聞くとパウロは笑った。


「私はね、神の家をつくろうとしているのだよ。だったら主もお喜びになることだろう」


「宣教師さん、神さんって言ってもあんたの神さんじゃないでさ。あっこに住むのはもっと古い神さんなんです。あっこから枝の一本でも持ち出そうもんなら、あっしらは神の使いの狼に食い殺されちまいますよ。勘弁してくだせえ」


 パウロはますます笑った。


「それはおかしい。今も昔も神は主ただ一人だ。申命記第6章第4節でモーセは『聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。』と言っている。そのような神の名を騙るまがい物は私が片づけてやろう」


 賢明な読者の方々には、パウロのこの姿を見て、宣教師が皆、このような無謀な人間だと思わないでほしい。そもそも、第64代ローマ教皇であり、ラテン4大教父の一人にして教会博士、そして聖人でもあった1430年前の教皇グレゴリウス1世は「布教地における慣習順応」というものを601年に採用している。


 これは古代の宗教――つまりはキリスト教以前の多神教の――祭儀が行なわれていた場所に教会を建てることで、改宗を容易にしようとするものである。これだけ読めば、やはり、宣教師パウロのように傲慢で、無謀、そして他者の文化を奪い去るものたちが宣教師の真の姿だと思うかもしれない。しかし、ここでグレゴリウス1世はこのように布告している。


『異教徒の祝祭をキリスト教の祝祭へと変えることを急いではいけない。それどころか、多くの点で異教徒の祭事を模倣しなければならない』


 つまるところ、彼は宣教には時間と慎重さが求められると考えていたのだ。それもそのはず、現代ではプロテスタンティズム発祥の地として名高いドイツであっても、元来の――ゲルマンの――宗教観やそれに基づく英雄観はキリスト教のそれとは真逆のものを呈しており、そのような人々にキリスト教的価値観を受け容れてもらうのには、かなりの労力が求められた。

 

 彼らは大軍に孤軍奮闘する英雄像を好み、唯一絶対の神とその軍団に守られた預言者や士師よりも、彼らに追放され、地獄で一人戦う堕天使に感情移入してしまったのである。そのためか、彼らの書く聖書には「明けの明星」とまで言われた天使が堕天するまでの過程を詳細に描いており、宣教師たちはそのような彼らの文化に対して焦らずにゆっくりとキリスト教を浸透させていく手法を取った。いや、そうしなけらば、自らを戦闘奴隷的と評する彼らの激しい反発に合い、無事ではすまないとおもったのかもしれない。


 尚且つ、今は帝国主義と白人至上主義、そして文化進化論と奴隷制が跋扈していた植民地時代ではない。文化相対主義と多文化理解、人種差別反対が叫ばれる時代だ。そのような時代に、「片手に剣、片手に聖書」のような布教方法を取ってしまっては、大問題である。


 長々と書いてきたが、早い話がこのパウロという宣教師は、自身が唯一の神に仕える聖職者であるということに陶酔しており、そこには傲慢さと選民思想めいたものがあったのだ。それは本来のナザレのイエスの教えに反するものであり、暗黒時代の貴族と癒着していた聖職者の姿を思わせるいまわしいものであった。


 結局、そのような人間に誰一人協力する者は現れず、パウロは村外から職人を呼び寄せることにした。だが、職人が来る前に場所を誰かが確認しなければならない。村民は誰も森に近寄りたがらないので、パウロ一人で森の中に入ることになった。


 しかし、昼間に森に入ろうとすれば村民が神の怒りに触れると言って止めに入ってくる。パウロにとってそれは迷信である以上に主に対する侮辱を感じさせた。村民たちの目をかいくぐるために彼は夜に森に入ることは決めた。


 夜に森に入ることがどんなに危険な事なのかは森の近くに住むものだったら誰でも知っていることだったが、都会暮らしのせいか、それとももの知らずなのか、パウロは夜に松明も持たずに森へと忍び込んだ。


 人が手入れをしていない森というものは恐ろしい。節操なく伸ばされた枝で空は覆われ、星々も満月の明かりも届かない。それは洋灯ランタンを持たないパウロにとって、最後の希望が絶たれていることを意味していた。


 足元には苔が広がり、そのせいで油のこぼれた床のように滑りやすい。街でしか説教をしたことのなかったパウロにとってこのような世界は未知のもの、そして無明のものであった。


「理性的な主の導きがないだけでここまで世界は荒れるのか」


そうつぶやくと、彼の心の中で主の教えを急いで説かないといけないという思いがより一層昂った。


 深緑の暗黒の中、手で枝や腰ほどの草をかき分けて泳いでいるかのように進むパウロの前に仄かな明かりが見える。それは病人のように青白い月光ではなく、赤々と暖かな光であり、どこか太陽を思わせた。漆黒の闇に囲まれ、ひたすら歩き続けて身も心も疲れ果てていたパウロにとってそれは夜を照らす朝焼けに等しい。気が付くと蠅が灯にたかるように、その輝きに向かって歩いてしまっていた。


 近づいていくと微かながら話し声が聞こえてくる。ああ、自分以外にもこの森に入る人間がいたのか。それならば、きっと火に当たらせてくれるに違いない。パウロはそう思って滑って転びながらも走ったが、火を直前に立ち止まった。そうして苔の生えた大岩に隠れ、そこに入っていた皹にぴったりと背中をつけた。息を整えると、岩影から火を覗いた。


 これを読んでパウロの行動を不審に思う人もいるだろう。主の教えを語るような男が、主の輝きである火を恐れるはずはない。彼が恐れていたのはその火の前で話す人々、いや、ものたちであった。


 火の前には三人の何かが座っていた。それは人間を遙かに凌駕する体躯を持ち、皮膚は象か犀のそれかのようにざらつき、垂れている。潰れたような顔は目と鼻が横一列に並び、歪な頭は禿げ上がっており、不規則に小さな角が生えたものもいる。腕は蟹のように左右で大きさが異なっていたり、曲がった背など奇妙としか言いようのない体であった。


 その腰には薄汚れていた毛皮で出来た腰布に錆びたナイフと崩れかけの古びた本を携えている。それらがしゃがれた声で話すたびに耳まで裂けた口から黄色い乱杭歯が顔をのぞかせた。彼らが腰かける岩の周りにはどこかから盗んできたであろう小羊が怯えながら繋がれていた。


 この姿を見たのでパウロは恐怖したのだ。それはきっと子供の頃に刷り込まれた恐怖、親が寝台で眠る子供に優しい声で語る恐怖、主の教えを知る前の人々が恐れていた古代の悪魔、日の光を恐れる怪物、地下に棲まう巨人、塚人。トロールだ。


「ねえねえ、ほんとにあたらしいおーさまがうまれたとおもうかい」


一人のトロールが言った。それは三人の中で一番高い声に、一番低い背であった。他の二人の顔色をうかがいながら話す様子から位が低いか、もしくは若いと思われた。


「うるさいぞ、カス坊。メル爺さんを見習え。文句言わずに黙ってるぞ」


「めるじいさんはぼけてはなせないだけさ、みみもとーくなってきこえてもないだけだよ」


「おい、若造め。年寄りだからって儂を馬鹿にするのではない。耳もまだまだ聞こえておるぞ」


 先ほどカスと呼ばれていた若造を皺の多いトロールが叩く。人間が人間を叩いたとしても軽い音がするだけだが、巨躯を持つトロールがたくましい腕を用いて禿げ頭を叩くので、地鳴りのような音が轟く。きっとこの皺の多いトロールがメルだろう。


「ばるさ、こんなおいていくだけのあわれなおいぼれなんてあしでまといだからさ、このままおいていこうぜ。そうすればおいらもたたかれなくてすむもん」


「おい、カス坊。いまのはお前が悪いぞ。メル爺さんももめ事を起こさんでくれ。俺たちは三人揃ってこそ意味があるんだ」


 一番大柄のトロールのバルサがカスをいさめる。それはカスほど幼くはないが、メルほど老いてもいなかった。バルサが三人のリーダー格なのだろう。先ほどまで取っ組み合い寸前だった二人も彼の一声で静まった。


「カス坊、王はきっと我らの前に現れる。闇夜の空に導きの星が輝いただろう。これは預言の通りだ。北の山脈で王が生まれた知らせだ」


バルサは腰の本を見せつけるようにカスへ向ける。


「だけどさ、だけどさ、おーさまって、おいらたち、とろーるじゃなくてどらごんなんだろう?どらごんはおーごんがだいすきなごーよくで、ちょっとのことですねちまうようなきむずかしーせーかくってきいたよ。そんなのがおいらたちのおーさまになってくれるかな」


「若造よ。彼奴は必ず我らが王になるぞ。ドラゴン族が隆盛を極めたのは、今は昔。古では世界の隅から隅にまで力の支配を広げていたが、今となっては最後の一頭が細々と生きるのみ。だからこそ、彼奴きゃつは支配者の座に帰り咲きたいはずじゃ。玉座を制すためにはしもべがいなくては始まらん。我らが偉大なる主の預言を記した御本にもそう記されておる」


 そう言いながらメルは小羊を太い指で掴んだ。小羊は甲高い声をあげて、暴れていたが、容赦なくトロールは首をへし折り、そこから滴る鮮血を吸った。痙攣する脚を握って抑えて肉塊となったそれを引き裂いて血を絞りだす。そうしてその血袋が空っぽになると、火の中に放り込む。毛皮が燃えて、小羊の亡骸が炎に包まれるとバルサがそれを拾い直し、二度三度振って火を消すと生焼けの肉にかぶりついた。乱杭歯の隙間から肉汁や肉片がこぼれ、骨まで音を立てて食べきると汚れた手を汚れた腰布で拭いた。


 パウロは恐怖した。次は我が身だと思ったからだ。連中の胃袋がわずかばかりの小羊で満たされるとは考え難い。もし、飢えたトロールに見つかればあっという間に口の中だ。


「主よ、迷える子羊を御救いください」


恐怖のあまりそうつぶやいた。咄嗟に主にすがってしまったのだ。しかし、天にまします我らが父からは生い茂った木々のせいでここは見えない。


 だが、その声は聞こえた。


 トロールに。


「カス、メル爺さん、誰かいるぞ」


最初に感づいたのはバルサだった。


「ふんじばれ、ひっとらえろ、ひのなかにほーりこめ」


カスの若造が叫ぶ。


「不届き者じゃ、焼き殺す前に潰してしまえ」


岩陰から飛び出して逃げようとするパウロを、木々を薙ぎ払いながらトロールは走り、あっという間に捕まえてしまった。こうなってしまったら、あとは口へまで一直線だ。


「スープにしてしまおう」


バルサが言った。


「いいや、しおやきがいちばんいい。すーぷはじかんがかかってしかたがないや。もうおなかがぺこぺこだもん。はやくたべちゃいたいよ」


カスが口答えする。


「潰して小羊の腸に詰めてしまおう。そうすれば柔らかくて食べ易い」


年寄りメルが意見を出す。


「頼む、食べないでくれ」


パウロは命乞いをするが、三人は聞く耳を持たない。飢えた獣に理屈は通じないと言うがまさにその通りだ。


「ねえねえ、なんであんたをたべちゃだめなのさ。おいらたちはこひつじだけじゃたりなくてはらぺこなんだ」


おどけた様子でカスが言う。この目は本気だということはトロールについて門外漢のパウロにも容易に見て取れた。


 バルサの拳の中でもぞもぞと動き、逃げようとするも、その太く短い指の支配から逃れることはできない。このままでは鍋でどろどろのシチューにされるか、それとも血の滴るステーキにされるか。どちらにしても連中の胃袋に収まるのは誰の目にも明らかだった。


 命乞いをしても無駄だということは分かっている。ただ、無駄だとしても死にたくない思いが理性を超えて無駄なあがきをさせる。恐怖で散らかった思考の中で、なんとか生き残る術を探す。しかし、理性的で論理的な答えは浮かばない。ああ、ここで死んでしまうのか。


「わ、わ、わ、私は、か、か、か、神だぞ」


パウロは涙声で叫んだ。その顔は恐怖でしわくちゃのちり紙のようだ。


「そんなわけないよ。おいらたちのかみさまとはぜんぜんちがうもん。おれたちのかみさまは、おれたちのおーさまのおとーさんなんだぜ。おれたちのおーさまがどらごんだったら、かみさまもどらごんのはずじゃないか」


「じゃ、じゃ、じゃあ、お前は神の姿を見たことがあるのか」


神の名前を出されたことで興奮したカスにそう叫びかえす。他の二頭はその発言は、この喋る生肉が言い出した「神」という言葉が脳に届いていないのか、眼を丸くしていた。


「みたことないよ。かみさまのすがたをかいたりしちゃいけないんだもん」


「そうだろ。ならば私が神であることを否定できないはずだ」


 自分が偶然ついた嘘が、同じく偶然にも彼らの教義に当てはまっていたことはパウロにとって救いだった。先程まで震えていた声は、少しばかり落ち着きを取り戻し、彼はいつも街頭でやっていた様に、説教をして見せた。


 「お前たちはなんて罪深い子らなのでしょう。お前たちの主、父、この世のつくり主、偉大なる芸術家、詩人であるこの私を食べようとするとは。無知蒙昧にもほどがあるぞ」


威嚇するように吠え、彼らに自分を下ろすように命じた。カスは少し怯えて後ろに下がったが、やっと頭に「神」という言葉がたどり着いた二人は怒りの形相になっていた。


「神の名を騙るとは貴様こそ罪深きものじゃ」


そう叫んだのはメルであった。かれは唾が飛ぶことも構わずに叫び、なじり、パウロを睨みつけた。


「おぬしの名はなんじゃ。神であるはずなら名乗れるはずじゃ」


 パウロはしまったと思った。自分は彼らの神の名前を知らない。彼らは火にあたりながら、その教義を語り合う時もその名を一言も口には出さなかった。ここでもし、嘘がばれたら死んだほうがましな目に合うかもしれない。彼の頭は再び真っ白になり、口はパクパクと答えを求めて動いていた。


「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」


パウロは思いついた言葉を咄嗟に叫んだ。咄嗟に思いついた言葉だ、特に意味はない。それがばれたら、私の命はここでついえるだろう。


 しかし、彼らの反応は意外なものだった。


「きょーてんのとーりだ。きょーてんのなかじゃ、かみさまのおなまえはしんせーだからいっちゃいけないんだ。きょーてんのまんまだ」


カスがそうつぶやく。それにメルが反応する。二頭は混乱しているせいか、何かぼそぼそと話し合っている。


 それを命がけでほらを吹いているパウロが気つかないはずがない。嘘をつくときに重要なのは周りの反応だ。それに合わせて柔軟に動かなければならない。嘘をつくなど本当であれば許されざることだが、今は主もお許しになることだろう。


「そうだ、神に名を言わせようなど、やはりお前たちは罪深いものたちだ。許されたければこの手を放せ」


彼らに考える隙を与えないように、矢継ぎ早に言葉を撃ち出す。


「ならば神である証拠を出せ」


バルサが叫んだ。二頭もそれに同乗し、同じことを叫ぶ。


「神なら奇跡の一つでも起こしてみろ」


「空でも飛んでみろ。いいや、ここに腹いっぱいになる飯をだせ。さもなくば、代わりにお前を食っちまうぞ」


 まずいことになった。カスとメルはトロールの伝承通りに間の抜けた奴らだが、バルサは少し頭が使えるらしい。だが、それはこの少し間抜けのバルサさえ言いくるめてしまえば、他の二頭も従うということだ。


「神を試そうというのか。神を試してはならぬのだぞ。主なるあなたの神を試みてはならない。そう伝えているはずだ」


バルサの目を睨む。昔、子供の信徒が言っていたが、獣には目を見て睨むのが一番効くらしい。それを実践して見せた。そうするとさっきまで優勢だったバルサの手が少し緩んだ。この調子だ。


「だ、だ、だが我らはお前の言う通り、神をこの目で見たことはない。だからお前が神である確証は得られない」


「お前は私を見たから神を信じるのか。見ずに信じる者は幸いだ。真に神を信じる者ならば、姿を見ずとも私が神であると信じたはずだ。真の救いは信じる者に訪れる。空を飛べだとか、飯を寄越せだとか、見返りを求めるものに救いは訪れない。ただ、ただ私を信じなさい。それこそが救いへの第一歩なのです」


 バルサの手は完全に緩み、パウロは地面へ落ちた。その高さから足を少しくじいたが、命に別状はない。それどころか、痛みよりも解放されたことによる喜びが勝っていた。


 三頭はパウロのことなど完全に忘れているのか、輪になって喧々諤々としていた。このチャンスを逃すわけにはいかない。パウロは痛む足を引きずって一目散に逃げだした。しかし、ここに彼の誤算があった。


「ああ、あいつにげちまったぞ」


「もう考えるのは面倒くさいぞ。食っちまおう」


「そうじゃ、そうじゃ」


 三頭はそういうと彼を追いかけてきた。そうだ、彼らは間抜けなトロールだ。難しいことなど考えず、目の前の欲求にのみ従う生き物だ。大局的にものを観ず、自己の利益のみを尺度としている連中だ。考えることができるという最大の利点を捨て、そのすべてを教典に頼ることで安寧を得ているような輩に、こんな小難し嘘が長く通じるはずがない。


 必死になって走ったが、健康な足でも追いつかれたというのに、傷ついた足ではなおのことに逃げ切れるはずがない。どしん、どしんと足音が近づいてくる。


 もう終わりだと思いかけていた際に、森の向こうに二つの明かりが見えた。やった、他にも人間がいた。パウロは安堵した。


 しかし、その明かりが近づいてくるにつれてそれは恐怖へと変わっていく。灯に黒い切れ目なんてあるのか。なぜあの灯は二つともまったく同じ動きをするんだ、二人が並んで走っているとすればばらつきがあってもいいはずだし、こんな荒れ地を車が走れるはずがない。そんな疑問がわき出てくる。そしてそれは一つの答えとなった。


 大羆だ。闇に同化する黒い毛皮、トロールに匹敵するほどの巨躯をもった化け物。その尾はまるで夜空の北斗七星がそのまま地上に降りてきたようであった。その羆はパウロなど気にも留めず、彼を飛び越えてバルサの頭にかぶりつき、そうしてあっという間に丸のみにしてしまった。


「ひえ、ばるさがくわれちまった」


「次は儂らが食われちまう。逃げねば」


二頭のトロールは闇の中へと飛び込み、姿を消した。パウロはトロールから逃れられた喜びと新しい恐怖によってその場に座り込んでしまった。


 羆は彼の周りをゆっくり歩き、鼻をならして臭いを嗅いだ。ぶるぶると震えるパウロを笑うように小さくうなると、そいつはそのまま離れていった。


「主よ、私をお助けいただき、感謝いたします」


パウロが涙を流しながら小さな声で祈る。もう安心だ。主が私を悪魔たちから御救いなさったのだ。その証にトロールを食べた羆が私だけは見逃してくれた。パウロはそう思っていた。


その時までは。


「勘違いするんじゃないぞ」


 どこからか声がする。酒場であったあの樵の声だ。どこだ、どこからするんだ。周りを見渡すも誰もいない。自分が襲われている時に隠れていたのか。そう思うと無性に腹立たしい。


「お前を助けたのはお前の神さんではない。俺が助けてやったんだ。ここは俺たちの縄張りだ。そこに入ってきた間抜けトロールを追っ払っただけ、自分を特別な存在だと勘違いするんじゃない」


 声の主の居場所がわかった。しかし、それはあり得ないことだ。あの樵は、いや、あの樵であった生き物は森の奥にいた。


 あの羆だ。あの羆が喋っている。


「これに懲りたら、この村から出ていくことだ。この森にはもう俺がいる。一つの森に主は二人もいらねぇんだ」


 そういって羆は消えていった。去り際にぼそぼそと、このあたりまでトロールが下りてくるようになったなどと呟いていたが、心身ともに消耗しきった彼の耳にそれが届くことはなかった。パウロがその場が立ち去ることができたのは日が明けてからのことだった。それまで腰に力が入らず、放心状態で、立ち上がることさえできなかった。


 それから月日は流れ、パウロも別の町で教会を任されるようになっていた。あの晩は悪い夢を見たのだと自分に言い聞かせ、「大岩」村から遠く離れた都会の町で司教となった。もう二度とあの村に足を運ぶことはないだろう。


 子供達に説教をするのは、とても気分の良いことだった。彼らは純粋で、まるで海綿スポンジのように知識を吸収し、周りの色に染まりやすい。だから、そこで上質な語りで神の教えを説けば、すぐに立派な信徒となるだろう。なんてすばらしい仕事だろうか。これこそ天職だ。


「ねえ、神父様。神様は何て名前なの」


日曜日のミサの終わりに、子供の一人が質問してきた。純粋さ故のことだ。


「神様の名前はね、口に出しちゃいけないんだ。それぐらい偉い人なんだよ」


また、一人、別の子供が尋ねる。


「じゃあさ、じゃあさ、僕がお祈りしたら神様は答えてくれるの」


「そんな神様を試すようなことをしてはいけないよ。神様っていうのはいてくれるだけでありがたいんだ」


パウロは優しく返した。しかし、その瞬間に急に何か思い出された。まるで幼い頃の恥を大人になってから思い出す瞬間にように、何かが急に頭の中を駆け巡る。頭がかーっと熱くなり、ぼやっとした不安が心を占める。なんだ、なんなのだ。


「神様ってどんな人なの。背は高いのかな」


 子どもの問いに答えようとしても、頭の中を駆け巡った何かに詰まって声が出ない。口だけがパクパク動く。


「それはね、それは、神様の姿はね、姿は」


何かが頭の中で炸裂した。それは不安か、真実か。パウロの顔から血の気が引き、表情をつくることさえ難しい。ある程度はその場に立って居られていたが、とうとう耐えられなくなり、教会を飛び出した。そんなことを露知らず、教会の外を歩く人々が神父を見て挨拶する。


「神父様」


「神父様」


「神父様」


 パウロは叫んだ。


「ああ、ここはトロールでいっぱいだ」


彼はそのまま走り出した。その後、彼を二度と見ることはなかった。





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