第2話『天国はそこにある』

友人がいなければ、誰も生きることを選ばないだろう。たとえ、他のあらゆるものが手に入っても。


——アリストテレス


地上の王国は人の不平等なしには存在し得ない。自由な者と縛られる者、支配者と従者がいるのだ。


――マルティン・ルター


遠い西の果て。灰色の空に黒い海、白く泡立つ波が寄せる茶色の砂浜。そこには痩せ細った木々を柱にして建てられた漁村があった。


 毎日、まだ空が仄かに青黒い頃、たくましい漁師たちは船を出し、網を投げる。彼らはそうして鱒を絡めとると、昼過ぎには帰ってくるのだ。彼らは社会への不満を抱き、自らの地位向上を夢に見る労働者であったが、この物語の主人公は彼らではない。


 漁師たちが髪に塩粒をつけ、海の悪魔でも討ち取ったかのように、誇らしげに帰ってきてからが彼の仕事の本番だ。凍える海から引き揚げられ、息の根を止められた冷たい鱒のを、氷の詰まった木箱に押し込む。指先が悴み、感覚も薄れ、あかぎれなんかが起きるがそれでも淡々と、意志もない川の流れのように船から滑り降りてくるますを箱に詰める。


 漁師たちの「後始末」をする、この男こそが本作の主人公である。彼は誰に認められるわけでもなく、ただ働く労働者であった。彼も漁師たちと同じく社会への不満を抱き、自らの地位向上を夢に見ていた。しかし、先ほども記した通り、同じ労働者であっても漁師たち、いや、労働者たちに認められてはいなかった。


 体力に自信がないために漁師にはなれず、なまじ無意味な誇りを持っていたがために、自分が何の変哲もない労働者であることを認めることができなかった。本当に自分を認められないのは自分自身であった。


「おい、これを詰めておけよ」


 そう漁師に言われ、男は山岳部の村に送るための木樽に鱒を流し込む。男はそれなりに学校で学問に励んだつもりだった。そうであっても、学校にも行ってないような輩に、手足かのように扱われる。彼らは自分が学校でペンを握っている間、網を投げていたのだから、この分野に関しては彼らの方が偉いのわかっている。わかっているのだ。それでも悔しさが残る。


 完全に手足になれたならば、どんなに楽だろうか。男には当然のことながら感情があった。手足のように頭からやってくる命令に、無感情で従うことはできない。


 もし、不平不満を口にする勇気があれば、世界は変わっていたかもしれない。もし、もし、もし。考え始めればきりがない。結局は現実でそのをする勇気はないため、空想のに逃げるのだった。


 それでも、もし仕事に少しでも遣り甲斐というものを感じ取れたならば、気持ちは楽になったかもしれない。だが、それもの域をでない。漁師という、この漁村の花形でさえ遣り甲斐を感じられないのに、箱詰め係がそれを得れるわけが無い。


 ああ。もし路頭で騒ぐ狂人のように、壊れてしまったらどんなに楽だろうか。思い切り壊れてしまえば、自分だけの世界に逃げ込めるかも知れない。もしかしたら、哀れに思って誰かが助けてくれるかも知れない。だが、それも架空の話。男はどうしても壊れるという選択肢を選ぶ勇気がない。ぎりぎりで踏ん張ってしまう。そして、中途半端に他者に共感することができたため、周りに迷惑をかけるとか、こんな考えを知られたら不真面目な奴と思われるかもしれないとか考え込んでしまう。


 多くの人が美徳と捉えるであろう慎重さ、思慮深さ、冷静さが彼をがんじがらめにしていた。しかし、無情にも世界は彼を置いて動き続ける。この男が漁村という迷宮から脱出しようとするのを拒み続けている。彼の疲れた心では、その早さにはついてはいけない。それも複数同時にしようとすれば、その困難さは限界を超えてしまうのであった。


 男の周りは、まるでこれぐらいできて当然といった具合に、彼を見下す。そこで社会への不満を爆発させることができればいいのだが、そのような勇気は何度も書いた通り、彼には一欠片もない。


 世界が親がどこかへ行ってしまった赤子のように泣き叫ぶ時、男はただ部屋の片隅でじっとしているだけだ。それは大樹のようにどっしりと構えているのではなく、恐怖と不安で動けなくなってるだけであった。周りの人間はひたすらに不安を煽り、無意識的にそれを楽しむ不届き者か、これを見越していたかのように振舞う知ったかぶりしかいない。それらに煽られて、男は自分を卑下し、不安に襲われながらも泣き叫ぶ勇気もなく、心を死の淵に追いやるのであった。


 このように、彼は「どこにでもいる」目立った特徴のない男であったが、そんな彼にも珍妙な趣味があった。


 それは人々が棄てた鉱山に潜ることだ。男はそれを好み、人間たちの欲望の果てに生み出した迷宮に、そこに残された鉱夫たちの夢の跡を垣間見ることに、自分にはない栄光に満ちた浪漫を感じた。


 彼の趣味を聞いて、彼のような人間はどこにもいないし、いたとしても世捨て人か何かだと思ったものもいることだろう。しかし、そう簡単に片づけないでほしい。


 それは彼と君たちとの間に「現実」に対する大きな溝があることが原因だ。男にとって現実、つまり地上とはしがない労働者として汗を流し、誰に感謝されることもなく、ただ残り数十年という余命を切り売りしてあぶく銭を得るだけのものだ。泣き叫ぶこともできず、君たちのように知ったかぶりをすることも、無意識に不安を煽る不届き者になることもできない。そのような、君たちに只々おもちゃとして消費される一般市民だ。


 本当は君たちの周りにたくさんいるはずだ。もしかしたならば、君たち自身がそうなのかもしれない。そのような苦しい現実では、自分のことを無意味と思いながら生きる人間なのだ。


 だが地下、地底、つまりは趣味の世界では違う。地の底に血管のごとく張り巡らされた坑道は男を冒険者にも忍びの者にもしてくれる。そこにいるときは苦悩に満ち、労働者として資本家たちに、おもちゃとして「善良な」市民たちに消費される現実世界を忘れさせてくれる。それどころか、その夢が溢れる趣味の世界では、彼はそれらを打ち倒す英雄にもなれるのだ。その悦楽から、男にとって坑道探検は心の癒しとなり、休暇のたびの行事となっていた。


 明日に休暇を控えたある日。世間は明日の休息日に備えているが、しがない労働者である男は仕事で疲れた体を引っ張って家に帰り、その寝床の上で明日に備えて黄ばんで皺だらけの古地図を開いていた。


 部屋はその家主の頭の中を表わしていると言われているが、この部屋は荒れており、至る所に薄く雪が積もったように埃が被っている。足下には書類かに何かが散らかっている。小さく薄汚れた机の上には、親族の遺品わけで譲り受けた本が積み上がっているため、大きな地図を開くことができない。それ故に寝台の上で開いていた。


 この地図は町の古道具店で購入したもので、まだ漁村やその周辺の村や町に活気があった頃のものらしい。本来ならば、こういった道具は同じ趣味を持つ友人知人のものを譲り受けたりすることが多い。古道具なら尚更だ。しかし、彼は人と話すことはあまり得意ではなく、打ち解けるなど不可能に近かったため、古道具屋で捨てられる一歩寸前のものを、安く買ったのだ。


 男の目的は紙の上に記される弧を描いた記号、いわゆる「坑口」を見つけることだった。この古地図に記された坑口ならば、その中は確実に廃坑になっているだろう。そのうえ、これ自体もかなりの骨董品だから廃坑も相当なものが期待できる。男は古い羊皮紙の道を指で、女のそれかのようにそっとなぞった。女など抱いたこともないし、話したことなど一年近くないというのに。


 だが、そうすると、その道を歩んでいたのであろう古き人々の暮らしが思い浮かぶ。これも坑道探検の醍醐味の一つであり、探している間も冒険の一部なのだ。


 男はもう疲れ切っていた。日々の労働、急変する世界、終わりのない社会不安、逃げ場のない生活の中で救いを求めていた。多くの人間は、こういった際に神に祈るのだろうが、彼は悲しいことに無神論者であり、当人も知らず知らずのうちにニヒリズムへと傾倒している節があった。


 気がつけば、暗い知らせばかり信じ、明るい知らせに目を瞑ってしまう。さらには「自分はもう駄目なのではないか」という根拠の無い考えに妄執していた。


 もう限界だ。仕事の最中に頭の中で空砲が響き、その瞬間に思考が真っ白になることが続いていた。早く、少しでも早くここから逃げ出さないと、自分は潰れてしまう。もうお察しの方も多いと思うが、彼には逃げる勇気もない。仕事を辞めて、何とかなるなんて考える明るさも持ち合わせていない。あるのは、社会がめちゃくちゃになるのではないかという不安だけだ。そのような男に必要なのは、英雄になるという妄想めいた空想しかなかった。


 しかし、よりにもよって今晩はその夢の入り口は見つからず、諦めようかと思い始めていた。その時、ある文字が男の目に入った。そこには拱門アーチに似た坑口の記号と『 Niðavellir暗き野』という蚯蚓みみずが踊ったような文字が記されていた。それを見つけた瞬間、男は湯が湧きたつがごとく高揚し、その場でなんども飛び跳ねた。そのたびに埃が立ち、男は自分が舞わせたその埃で少し咳き込んだ。


 男は寝床から勢いそのまま飛び降りると、棚の奥から鉄梃バール洋灯ランタンなどを手あたり次第引っ張り出して鞄に詰め込んだ。それだけではなく、靴棚から革の長靴を持ってくると、慣れない手つきで汚れと埃を払って磨いた。それほどまで、男にとってそれは幸運なことだったのだ。


 しつこいほど書いてきたが、今の男は労働で疲れ果て、ただでさえ貧弱な心身はいつ潰れてもおかしくない廃墟同然だ。そのような時にこそ、この発見は大きかった。男は明朝に出発することを決め、胸の高鳴りを抑えながら寝床で眠りについた。


 朝、霞のかかった山のすそ野。空はまだ青黒く、太陽の輝きが地に満ちるよりも、頭を不安に淫する月光が優勢であった。視界の隅を白く曇らせる中、男は鞄から出した鉄梃を片手に立っていた。その前には無造作に木の板が打ち付けられた坑口があり、隙間なく封じられた坑口の板に男は鉄梃を当てる。それだけで男の心臓は爆発寸前になるまで鼓動し、全身の毛が逆立つのを感じた。


 あとはこの鉄梃を倒すだけだ。そうすれば、封印は解かれ、地底に広がる大迷宮への扉が開くのだ。


 男は震える手を抑えて、木の板を剥がす。板の折れる渇いた音と共にわずかに漏れる闇へと霞と光が吸い込まれていく。その時、扉は開かれた。


 男のつけた洋灯の暖かな光が冷たい闇を照らす。そこにあったのは黴の繁殖した坑木と湿った岩肌が反射する橙の光だった。本来は腐食に強いはずの坑木に、黴が群れを成していることに男は少し心配したが、それよりも黴たちが語る坑道の古さに男の心は奪われてしまっていた。


 この先には何が潜んでいるのだろう、それとも何もいないのだろうか。男は体中の血液が沸騰するような感覚に見舞われ、興奮から紅潮した。


 足元に気を付けながら一歩、また一歩と進んでいくと日の光は届かなくなっていき、暗闇の中の光は男の洋灯だけとなった。日光によって照らされて大きくなっていた孤独の影は奥へ進むほど小さくなった。その暗黒で、洋灯の光が男の影を大きくし、それと一緒に自尊心も大きくなった。男の心の中では男は迷宮を探検する勇者であり、この瞬間だけ虐げられる労働者の自分は噓になる。言い知れぬ快楽が全身を包んだ。


 柔らかな決して強くない光の中、遠くにきらりと何かが光るのが見えた。鋭い光からそれが金属的な光沢であることは容易に想像できる。男の頭の中に不意に邪な墓荒らしのような考えがよぎった。もしかして光の根源には鉱夫の遺物か、取り忘れた鉱石があるのではないかと考えたのだ。自然と男の足は速くなり、光のもとへ向かった。近づけば近づくほど光量が大きくなっていき、男の熱量も増えていった。


 そこにあったのは地下に広がる黄金郷であった。壁にも天井にも金貨がびっしりと張り付き、坑木がどこにあるのかもわからないほどだった。


 男はそれに興奮し、近づいてその一枚を手に取ろうとした。しかし、そのとき重大な間違いに気が付く。これは金貨ではない。一枚一枚が小さな甲虫だ。虫たちには見たことのない金貨の刻印、獅子や髭面の男の横顔などに似た模様はあるものの、よく見てみると大顎と節のある脚があり、丸くて扁平な黄金鬼鍬形虫おうごんおにくわがたむしといった印象だった。それらはみな眠りについたように動かず、そこで金貨に化け続けていた。


 金貨ではないと一時は落胆したものの、先ほどの邪な気持ちとはことなる好奇心が男の中に生まれた。そして、初めて見る奇妙な生物を持ち帰ろうと手を伸ばした。


 その時、背中の刻印に一筋の切れ目が入ったのが分かった。切れ目から黄金色の甲殻は一気に開き、熟れた果実のような腹が露出し、それからまるで硝子細工のような透明で薄い羽が大きく広がって振れ始める。それはこの金貨が羽ばたいて手から逃げ出そうとしていることを表していた。


 男は驚き、その甲虫を投げ捨てたが時すでに遅そく、一匹の羽音に目覚めた他の金貨たちが一斉に羽ばたき始めた。


 その羽音の大合唱は坑道中に響き渡り、地面の小石も踊り始める。男は先ほどまで宝の山だった虫たちが飢えた蝗の群れと化したことに恐怖し、転んでしまった。 


 金貨が起こす嵐と、そこを飛ぶ甲虫の顎は地を這う男を傷つけ、その轟音と苦痛のなかで男の意識を途切れさせた。


 周りで誰かが喋っている。誰かは分からないが、嗄れ声だ。きっと老人だろう。男は疑問に思う。一体なぜ自分はここにいるのだろうか、そしてここは何処なのだろうか。


 瞼をゆっくりと開き、瞳を暗闇から光の下に晒す。そうして周りを見てみると、そこは石煉瓦を積み上げて造られた壁に薄暗い蝋の明かり、そして獣の毛皮に寝かされている自分であった。きっとここは坑道の外の小屋か何かだろう。だが、ここにいる理由がさっぱり思い出せない。


 現実を理解できず、そこから立ち上がろうとしたが、男は制止され、また寝かされた。男を制止したのは先ほどの声の主であろう老爺で、禿げ上がった頭に、対照的なほど豊かな白い髭を蓄えていた。老爺の指は力仕事をしているのか太く、身体も筋肉のついたがっしりとしたものであった。


「あの、すみません。ここは一体どこでしょうか」


恐る恐る訊ねると、老爺はしかめ面を崩さず、吐き捨てるように答えた。


「あんた、坑道で『金貨虫』に触っただろ」


その言葉の意味が分からず、男は聞き返したが、老爺は気にせず話し続ける。


「あんたがあいつらに触ったからこうなったのだ。連中は気性が荒い。火竜かりゅうの雛ぐらいだったら、群れで襲って、あっという間に殺してしまうと言われているのだぞ」


その後も彼はぶつぶつ呟き続けるが、男の理解は追い付かないままだった。


「あんた、どこから来た」


 今まで不満と思えることを呟き続けていた老爺が一転して急に訊ねてきた。


「え、えっと、坑口のあったところから来ました」


さえぎるように老爺は言う。


「そういうことではない。どこの国から伝令しに来たのかと聞いているのだ」


男は驚いて目を丸くした。自分は伝令でも何でもない、しがない労働者だ。そもそも自分がどこにいるかもわからない伝令なんているものか。


「私は伝令ではありません。好奇心から坑道に忍び込んでしまっただけなのです」


老爺が怒り狂うと思い、男は申し訳なさそうに答えた。


 しかし、老爺も目を丸くさせ驚いていた。そうすると老爺は豊かな顎鬚を撫でながら何か独り言をつぶやき、男に向けて禿げ上がった頭を下げる。


「それはすまないことをした。久方ぶりに外から無知な伝令の者が参ったと思ってしまった。忍び込んだとはいえ、ここを知らなかった客人だったとはこうなっても仕方がない」


その謝罪に男は違和感を覚えた。


「外からとはどういうことですか。ここは坑道の外かどこかの小屋ではないのですか」


 その言葉を待っていましたと言わんばかりに老爺が少し笑い、部屋の扉を開けて見せた。男が少し体を起こし見てみると、そこは考えもしなかった光景だった。


 街一つがすっぽりと収まるほど巨大な土竜もぐらが掘ったような隧道トンネル、その壁には穴が所々に開き、高い館の窓がずらりと並んでいるかのように、暖かな橙色の光がぽつぽつと漏れている。また、まるで茸か何かのように木や石煉瓦で造られた家々が立ち並び、その奥には半分埋まったような城が見えた。


 驚く男に老爺が言った。


「客人よ、ようこそ我らが王国へ」


 男の頭の中はもう破裂寸前だった。新しい情報が多すぎるのだ。金貨虫とはなんだ、そもそもこの地下で栄える王国は何なのだ。戸惑う男を尻目に老爺は誇らしげに笑っていた。


「まあ、たった今寝かせていたところを悪いのだが、貴方を王のもとへ連れて行かなければならん。先ほども言ったが何分、久方ぶりの地上からの客人だから王も気になっているのだ」


 そういうと老爺は男を立ち上がらせた。男は体が痛み、立ち上がるのも老爺の手を借りなければ一苦労だ。


 立ってみてわかったことだが、老爺の背丈は男の腹ほどまでしかなく、非常に小柄だった。扉の向こうの町の人々も皆低身長だ。男はますます混乱し、目を回してしまった。どの家も男から見ると小さく、まるで金持ちの庭にあるような、陶器製の家の飾りだった。その家の前では子供と胴長短足の犬、痩せた猪とが遊び、女たちがそれを見ながら小麦を挽いている。


 街の人々は皆が皆、振り返って男を眺めた。それも仕方がない。街に急に二倍ほどの身長をもつ巨人がやってきたのだ。見るなというほうが難しい。


 禿げた老爺に連れられて歩く街は大変奇怪かつ、男の興味をそそるものであった。大通りに立ち並ぶ店は、鮮緑に光る茸の群れに照らされた薄暗い地下の街並みには似合わないほど鮮やかで、そこに並ぶ商品も不思議なものばかりだ。


 『巨人の骨』と書かれた看板を掲げた店では、金や銀の色をした鶴嘴が飾られている。それを眺める人々は、そこに飾られた『ヴェルンド2000』という鶴嘴ピッケルがいかに素晴らしいか褒めちぎっている。その光景は地上の男たちが時計なんかを自慢している光景によく似ていた。


 なるほど、地上の人間たちが時計や指輪で、自分が如何に優れているのかを自慢するように、地底の人々は鶴嘴でそれをするらしい。価値観が違うだけなのだが、そのような泥臭い仕事道具が自慢になるとは、彼らが働き者であるかを示しているようであった。


 地上では労働と苦役は同等であり、労働でどれだけ苦しんだかを自虐めいて話すことはあれど、それに誇りを持つことは少ない。男は自分はどうだろうかと考えた。そうすると胸の内側を、何か重いものが込み上げてくるような感覚に襲われた。頭が急にどんよりとしてくる。


 その隣の顎鬚専門の美容室『顎の樵』では多くの男たちが鏡に向かって座り、その顎の森に櫛を通していた。


 それをじっと見ると、硝子ガラスに自分の姿が写る。金貨虫に引っ掻かれたため、服は所々裂けてしまっていた。しかし、明らかにそれよりも古い傷も多い。


 この服を買ってから何年たっただろう。薄給のせいか、それとも社会からの孤絶か。男はもう何年も身なりに気を使ってこなかった。顔にはまだらに髭の剃り残しがあり、目の下は隈が二つぶら下がっている。やつれた顔、ぼさぼさの頭。


 最後に身なりに気を使ったのはいつだろう。そう考えると、またさっきと同じどんよりが頭を満たした。考えるのはよそう、今は街のことだけを考えよう。自分に言い聞かせるように、大きく深呼吸をした。


 窯に向かって火を吹く鞴に、茸のみを取り扱う八百屋、土竜の毛皮で作った衣服を着た老婆。それらは男の目を奪うものばかりで、男の前を猪が引く幌がその身を軋ませながら通ったときはさすがに腰が抜けそうになった。またそれらすべてが小柄な彼らに合わせて作られており、男には小さすぎる物ばかりであった。


 中でも男の目を引いたのは剣や楯を取り扱う武具の店『鉄槌の遺物』だった。店には地底の人々が老若男女問わずに集い、思い思いの武具選びに耽っている。剣を売る店は地上にもある。しかし、そこで飾られている武器たちは、明らかに骨董品た装飾品の域を超えた実用的なもので、その店が繁盛しているのがとても奇妙であった。男は思わず老爺に訊ねた。


「な、なぜ剣や楯を皆買うのですか」


老爺は男を見上げると、当たり前と言わんばかりに答える。


「百年ほど前まで、小鬼ゴブリン との間で剣の嵐が吹き荒れていたし、最近では北方の山から火竜が我らの財産を奪いに来るという噂が流れたからなあ。皆不安なのだ」


老爺の問いに男は空返事をした。なぜならば男は小鬼も火竜の意味も分からず、ほとんど老爺の妄言としか思えなかったからだ。


 そうこうしているうちに男たちは城の前に来ていた。城は始まりも終わりも土に埋もれているせいで全体像がつかめず、一体どれほどの大きさなのかは予想もつかない。城門には鎖帷子と兜を纏った屈強でな兵士が、自分の身の丈の2倍か、3倍はあろう槍を持って立っており、門に近づく者たちを睨んでいる。老爺は兵士におもむろに近づくと、男を指さして何か話していた。そのあと互いに豊かな顎の森を褒め合うと、兵士は兜を脱ぎ、老爺と頭突きを始めた。男はその光景を見て呆然としたが、老爺はそんな男を手招きしていった。


「さあ、貴方も挨拶をしなさい」


兵士は首を鳴らし、頭突きの準備をしていた。それが挨拶と称されている頭突きの準備であることは分かったが、男はそれをぎりぎりまで拒絶した。しかし、結局は鈍い音を響かせることになった。


 男は頭にできた瘤をさすりながら、屈んで城門を文字通り。そこには、玉座に座る王とその横に並ぶ戦士たちがおり、その玉座の前にできた国民たちの長蛇の列があった。列の中にいると男は頭が2個か3個分高いので、よく目立ってしまい、列にいる人々の好奇の目にさらされた。


 王の姿は遠くではっきりとわからなかったが、王の後ろの金銀財宝の山はしっかりと目に入る。それは金色の光を放つ宝の山に赤や緑の宝石たちが実っているようだった。あの宝は金貨虫とやらでは絶対ないだろう。ここまでの街並みから見ても、この王国があれほどの財宝を持てるほど豊かな国なのだと容易に想像できた。


 そこで列に並び、王への謁見を待っていると、玉座の方から兵士が一人走ってきた。男の身長が余ほど目立ったのだろう、王が直々に会ってみたいということだった。老爺はその言葉に目に涙を浮かべて、子供のように喜んだ。


 老爺は男の手をつかむと、引っ張って列の先頭へと向かう。列の人々はそれに怒りを露わにするわけでもなく、ただただ男の姿に驚くばかりだ。


 王はかなり年老いていた。皺の深さは刀傷のように深く、豊かな顎の森と髪は穴熊のように灰色だ。王は玉座のひじ掛けに持たれながら男をつま先から頭のてっぺんまで見つめていた。


「我らが黄金の友、指環の主、人々の長。名高き槍の王よ、この者が件の男でございます」


老爺が跪き、王に告げた。男はその姿を見て、流石に王に対しては頭突きをしないのかなどと考えていた。王はそんなことつゆ知らず、その男を興味深そうに見つめている。


「この男は地の上の国からの使者なのか」


王の質問に間髪入れず老爺が答える。


「いいえ、我が君よ。この者は王国の存在を知らずに入ってきたものでございます。我が国も地の上ともう数百年も交わりを持っておりません。ですので、我々のことをしらなかったようでございます」


 それを聞くと王は髭をなでながら、眉間にしわを寄せていた。


「うむ、ならば仕方がない。外へとつながる坑道へと返すか」


老爺はその言葉を聞くと王の目をはっきりと見つめた。


「王よ、この者は坑道で金貨虫に襲われ怪我を負っており、今返すのは酷かと。これではこの者の骨の住処は鴉の餌となることでしょう。人々の友たる我が王ならば、必ずご慈悲に満ちた決断をしていただけると期待しております」


そうすると、王は眉間の皺をますます深く刻み、男を見つめた。その眼は老齢とは思えぬ眼で、長年戦いに身を投じてきたことが見て取れる。その眼差しだけで男は胸を槍で刺されたような感覚に襲われた。ここで首を落とされるかもしれないとも思った。


 しかし、王は青くなった男の顔を見ると優しい笑顔を浮かべた。


「その者よ、貴公がよろしければ傷を癒す間、この国で過ごしてみるか」


 男は首を縦に振って即答した。それは首を斬られなかった安心感よりも、この国にいられることの喜びが大きかった。地上で道具のように扱われてきた男にとって、この地底の国の老爺が見せた優しさはそれほどまで素晴らしいものだったのだ。


 王はその回答に満足したのか、戦士に似合わないような笑みを浮かべた。


「そうか、ならばこの国で暮らすための案内が必要だな。私の家臣を案内人としてつけよう。蜂の狼よ、頼んだぞ」


 そうすると王の横にいた戦士の一人が前にでた。黄金の若々しい顎鬚と髪に、山の熊と組打ちができそうな筋肉、灰色の目を光らせている男だ。身長こそ他の者と同じように低くあったが、その精悍な顔つきから男はその者が歴戦の猛者であると見て取れる。その者に見つめられると冷や汗が流れるのが分かった。王も英雄であったことがわかる瞳をしていたが、この者は違う。彼は今も戦いに身を置く戦士なのだろう。


 男が緊張状態で全身を強張らせていると、蜂の狼は男の目を見ながら話した。その姿に反して優しく、それでいて力強い声は男の緊張をとかせて安心をさえた。


「私がご案内しよう。この国には素晴らしいものがたくさんある。ぜひ、見ていってくれ」


 蜂の狼と呼ばれていた戦士は男に地底について様々なことを教えてくれた。彼は男を商店に連れていき、この国の食の事情や貨幣を教えた。それによると、彼らは上から垂れる木の根や茸を主食とし、家畜として猪を飼っているらしく、茸の店の前を猪車が道を通っていた。男はその話をもっと聞こうと前のめりになる。 


 戦士はその態度に気をよくしたのか、地底の情勢を詳しく話しはじめた。それによると地底の王国はこの国だけではないらしく、他にも国があるらしく、多くは名高き槍の王の血縁者と同盟者によって治められている。それらの国との関係は安定しているが、小鬼の王国とは仲が良くないとのことだった。


「昔は小鬼たちもいたずら好きの気のいい者たちだったのだが、新しい女王が国を治めるようになった途端に戦争を始めてしまった。今では領地を奪い合うようになってしまったよ」


 彼はそういうと懐から長くくねった木製の煙管を取り出し、吸って見せる。これは小鬼の国の名産といってにっこりと笑って見せた。それは国に対する反逆だとか、そういった扱いはされないのかと尋ねたが、回答は思っていたものとは違った。


 彼が言うには、この煙管は小鬼の国との友情を忘れないために必要なものらしい。今でこそ、互いに憎しみ合い、殺し合う仲だが、昔は友人だった。それさえ、覚えていればいつの日か、再び友情を結ぶことができる。彼はそう信じていた。


 その言葉は、男の頭の「どんより」を軽くしてくれた。無理にいずれかの勢力や思想に与しなくてもいい。中道でもいい。その考え方は地上では長らく忘れさられていた。


 地上では普通や寛容を名乗る者たちが、自分の勢力に与しないものを徹底して攻撃する。そして攻撃されたくないがために、その勢力が白と言ったら黒でも白にする。それが続いていくと、本来の信念は失われていく。


 男は地上のそんなところが嫌でしかたなかった。しかし、自分では生きづらさは感じるものの、それには気付いておらず、只々息苦しさを抱くだけだった。だが、蜂の狼の言葉でそれに気がつくと、もうそのようなことに拘らなくて良いと思えた。


「面白いものを見たくはないか」


街が見渡せる小高い丘の上で煙管を飲みながら、蜂の狼は笑って聞いてきた。男は少し迷いながら、はいと答えると彼はすっくと立ち上がり、男を引っ張っていった。


 街から出て少し経つほどの距離、男が案内された先にあったのは息をのむ光景だった。


 地下の洞穴にも関わらず、洋灯の光に煌めく草原だ。普通に考えれば光の届くことのない地底に若草色の草原などあるはずがない。これは苔だ。ここにあるのは苔の草原なのだ。苔たちは棘のような草とは違い、生まれたての雛の羽毛か、上質な天鵞絨ビロードのように柔らかそうだった。


「寝転がってみると、素晴らしいものが見られるぞ」


蜂の狼はそういうとその場に寝転んだ。男もそれを真似すると、柔らかな苔が体を包むのが分かった。最初はこの自然が生んだ寝台こそが素晴らしいことだと思ったが、それは重要ではない。上を見ることが重要だったのだ。


 思わず男の口から感嘆が漏れる。そこには満天の星空があった。青や黄、紫に赤と様々な色に鮮やかに輝き、男たちの身体を照らす。もちろん草原と同じように地下世界に空などあるはずがない。ましてや、天で鮮やかに燃える星々などあるはずがない。これは洞窟の天井にある様々な鉱石たちが苔の草原と同じように煌めいているものだった。しかし、その美しさは形容しがたく、どんな夜空よりも荘厳だった。


「あれを見てくれ」


蜂の狼が指をさした先を見ると、一際大きな星がそこにあった。空で言えば天狼星シリウス北極星ポラリス、灯の光に当てられてその星は白銀のように煌めき、その輝きの中には虹が火ごとく揺らめき、そしてうねっている。それは磨かれた貝殻か真珠のようでもあったが、その光はどんな宝石よりも優しく、どんな星よりも力強い。


「あれは何なのですか」


男が問うと、彼は誇らしげに答えた。


「あれは山の精髄、私たちの一族の繁栄の象徴なのだ。いまではここは草原のように苔むしているが、遥か昔はここが最も盛んな坑道だったのだ。しかし、あの鉱石を見つけてから我々はここが山の命と考え、それからここは皆の誇りとなった——」


彼の顔からは笑顔がこぼれ、これがどれほどまでに自慢なのかが男にもわかった。


「——百年以上前から、小鬼の軍勢も邪悪な日暮れの脅威も『あれ』を狙っている。我が一族はその野獣どもから守るために槍の騒乱に身を投じ続けてきたのだよ。最初は槍や剣を振るっていたが、長引くにつれてまじないなんかも使い出した。泥沼だ。だがしかし、それでも『あれ』を守る価値はある。『あれ』がある限り、どんなに散り散りになろうとも故郷への想いを抱き続けることができる」


 男はその言葉がまるで自分のことのように思えた。あの石は彼らの誇りだ。自分は誇りを捨て、戦いから逃げて、縮こまって生きる道を選んだが、彼らは誇りを守るために、たとえ泥沼に嵌ろうとも、いかなる手を使ってでも戦う道を選んだのだ。地上では望郷の念などない。


 皆、自分の故郷を貶めることで自分は立派になったと勘違いしている。口では心底、己の故郷に失望したなど宣っているが、実際は問題に向き合うのが怖いのだ。だから、第三者の振りをして、自分の問題ではないかのように振る舞う。男もその一人であった。自分こそが、自分の最も嫌う人間であったのだ。


 問題に敢然と立ち向かい、自らの善だけではなく悪とも向き合うことに躊躇いのない彼らは、男にとって尊敬に値する一族であった。男は自分が情けなくなり、恥から顔を紅潮させた。それどころか涙さえこぼれた。蜂の狼はその顔を見ると、彼はとても嬉しそうな笑顔をこぼした。


「自分のことでもない一族のために涙を流せるなんて、君の心はなんて気高いのだろう」


 男は自分の一生が恥に満ちたものだと思って流した穢れた涙なのに、蜂の狼に清い涙だと思われて、ますます恥ずかしくなった。


「貴殿の故郷とはどのようなところなのだ」


蜂の狼の問いに男は不意に言葉が詰まった。彼らの故郷は誇れるものかもしれないが、自分の故郷には誇りなど感じたことがなかったのだ。


「私の故郷は、誇れるようなものではありません。人は使い捨てられ、街には世捨て人が溢れています」


 男は口ごもりながら答えた。自分が口にした言葉が、自分の嫌う人間と同じ言葉であったことは、男の頭の中を己への失望で満たした。しかし、蜂の狼の反応は予期せぬものだった。男は彼も自分と同様に失望する顔を覚悟していたが、彼はわずかに笑みをこぼした。


「帰れる場所があることは素晴らしいことだ——」


蜂の狼はそうつぶやくと、男に一族の過去を語りはじめる。


「——我が一族も、昔から地の底にいたわけではない。昔は貴殿たちのように日の光を浴びて、家畜を飼い、畑を耕し、暮らしていた。しかし、火竜に追われ、小鬼に追われ、気が付けば地の底に隠れ住むようになっていた。暖かな陽の光を最後に浴びたのがいつの日かも思い出せない。故郷の有難みというのは失って初めてわかるものだ。貴殿の故郷も気が付いていないだけできっと素晴らしいものなのだろう」


 その優しい言葉に男は涙を流した。彼の人生において、ここまで自分を肯定してくれる人が何人いただろう。この国の人々も、老爺も蜂の狼も優しすぎるのだ。男は自分とその故郷を恥じた。そして自分もこの国の民だったらよかったのにと思うようになっていた。


「そろそろ戻らなければ、皆が宴の準備をしている頃だろう」


男が宴という言葉にぽかんとしていると、その顔を見て蜂の狼は小さく笑った。


「君を歓迎する宴だ。主役がいなくては始まらない」


彼は街へ戻ろうと男に言うと、街へと歩いて行ってしまった。男は置いて行かれまいとその後を追う。


 街は心なしか出る前よりも活気にあふれ、薄暗さは増しているような気がした。


「この光る茸は時間によって光り方が変わる。つまりは、この国にも昼と夜があるということだ。陽の光ほど鮮やかではないがね」


 蜂の狼はそういって笑ったが、男はこちらの光の方が好きだった。太陽の光は鮮やかというよりも鋭すぎる。自他共に認める日陰者の男にとって、その閃光は身を焼くようなものであった。こちらの光はぼんやりと優しいもので、まるで霞の合間から差す朝焼けのようだ。


 確かに、周りを見てみると人々は酒に満たされた角杯を持っており、今が夜であろうということは男にもわかる。人々は男に笑いながら声かけた。それは嘲笑でも軽蔑でもなく、男を歓迎するものだった。


 城の前には古い木の長机が置かれ、上座に王が座り、そのまわりに戦士であろう者たちも座っている。机の上には猪と鰻のパイや蒸し焼きにされた茸や木の根、麦の菓子などの御馳走が並び、やはり周りを囲む戦士や王も酒を満たした角杯を掴んでいた。


 パイからは肉の芳しい香りと、肉果ナツメグの優しく甘い香りが鼻を撫でる。一口齧ると、汁気たっぷりの肉が葡萄酒で煮込まれているためか、濃厚な味わいとなって口に広がる。麦菓子は香ばしく、茸の舌触りも良い。木の根もほくほくとしていて、噛むほど甘味が出る。


 その日の宴は華やかで賑やかなものとなった。男は最初こそ酒にも料理にも口をつけなかったものの、気が付けば熱気にのまれ、酒を飲んでしまっていた。酒からは蜂蜜の甘い香り漂い、香りもあってすぐに酔ってしまう。酔いは酒よりもその雰囲気によるものも大きいかもしれない。それほどまで、街の人々は男を歓迎してくれたのだ。


 宴のさなか、そこにいた戦士の一人が立ち上がると大きな声で歌を歌い始めた。その歌は金脈を見つけられることを願う明るい歌で、その歌を聞くと皆も歌い始めた。水面に小石を落とすと波紋が広がるように、一人が歌い始めると、一人また一人と歌い始める。


 戦いの勝利を祈願する歌、剣の手入れの仕方を歌った歌、酒の出来をたたえる歌など全てが明るく華やかで、酔いを進めるのには丁度良いものだった。


 明るい歌が響く中、王が歌い始めた。その歌は静かに唸り、そして歌を聞いた民たちは静寂に包まれる。その歌は悲しみと静かな怒り、そして祈りが込められている。


 急激な変化に戸惑う男をよそに、民たちは王の歌に続いて歌い始めた。この歌が地上への望郷を歌ったものであることに男はすぐに気が付いた。それほどまで、彼らにとって故郷とは大切なものであり、一族の誇りなのだ。不思議なことだが男の心の中にもこの国への望郷の念が芽生え始めていた。


 次の日、男は一人で街を歩いた。それは散歩を楽しもうとしたわけではなく、街の悪所を探していたのだ。これは街が嫌いだからではない。男はいずれ傷が癒えれば、街を出ていかなければならない。その時のために街に対する愛着心のようなものを取り払おうとしたのだ。しかし、街の中を歩けば歩くほど、街への愛は積もり、ただ男を苦しめるだけだった。


 しかし、この世界に永遠など存在せず、傷たちが開き続けることはない。いつかは必ず身体に入った裂け目は閉じ、傷は完全に癒えてしまう。老爺や蜂の狼はそのことを自分のことのように喜んだが、男は心から喜ぶことができなかった。それどころか、喜ぶ二人の姿が嫌でさえあった。


 「良かったな、やっと自分の家に帰れるぞ。寂しくはなるが、君がよくなって本当に良かった」


 老爺は少し寂しそうにしていたが、笑顔で男に王のもとに行くように進言した。王ならば帰りの猪車を出してくれるとのことだが、それを聞くと男の顔はますます暗くなった。


 城へと向かうときも足取りは重く、住人たちの挨拶や祝いの言葉も追い出しにかかっているように思える。あれほどまで素晴らしく見えた城は急に物悲しいものになり、あれほどまで嫌だった頭突きの挨拶も寂しく感じた。


 「おお、傷が癒えたようだな。それは良かった」


王の優しい声に跪く男の心は締め付けられる。王は老爺たちと同じように男の傷の治癒を祝い、すぐさま土産と猪車の用意をさせようと言う。だが、男は帰郷できることを喜ぶことが理解し難かった。


 喜ぶことができるのは故郷に誇りを持っているからだ。誇りすら苦痛の記憶しか持たない男にとって、帰郷は死地への出陣に近い。しかし、その帰郷への恐怖心が一つの決心を生んだ。


「いえ、名高き槍の王よ、猪車の手配も土産の用意もいりません」


その一言に王も戦士たちも驚いた。王に、しかもその領地で逆らうなど首を落とされてもおかしくない。


「どういうことだ。貴殿は帰郷したくないのか」


男の心臓は破裂しそうなほど鼓動し、間髪入れず男は王の眼を見つめて答えた。


「私は恩義を返したいのです。傷を癒す間、この国の人々は見ず知らずの私によくしてくれました。だからこそ、恩義を返したいのです。お願いします、私をこの国で働かせてください」


 王は眉間に皺を寄せ、顎鬚をなでながら考え込んだ。それから少しの間、広間には不穏な空気が流れ、男の額に冷や汗が滴った。


「我が民たちは生易しい仕事などせん。貴殿には申し訳ないが、一朝一夕で出来るようなことはない」


 良き治世をする王だからこその冷徹な発言に男は絶望した。この一言は男にとって死刑宣告に等しい。王は帰郷を伸ばすための男の方便だと見抜いたのかもしれない。男と王の間に静寂が生まれ、男は鼓動がゆっくりになっていくのを感じた。


「王よ、私に発言をお許しください」


その静寂を破ったのは戦士である蜂の狼だった。彼は槍のように背筋を伸ばし、王に対して戦いの気迫で放った。それは殺気に近く、王にそのようなものを向けることは文字通り反逆である。しかし、蜂の狼は退くことなく王に語った。


「王よ、この者は他者の苦しみ、喜びを自分のことように涙を流すことができる男です。私は彼を信じます」


 男はそれを聞くと涙を流した。自分のために命を懸けてくれる者がいる喜びというものを初めて知ったのだ。それが男にとってどれほど嬉しかったかは計り知れない。その言葉に王も心打たれたのか、男が働くことを許した。


 その次の日から男は鉱夫として働き始めた。坑道の中は働く鉱夫たちの熱気で蒸し、鶴嘴を振るうのも想像よりも体力を奪った。手は豆だらけになり、細かった指は太くなってきてしまった。


 だが、男は蜂の狼や老爺への恩義を返すために身を粉にして働いた。最初は鉱夫たちも難色を示していたが、男の勤勉な姿に鶴嘴の持ち方や岩を割るときの岩の弱点、鉱石の名前など教えてくれるようになった。


 白くて生ちょろかった男の身体も、少しずつ筋肉が付いてきてがっしりとしてくる。そうなってくると、鉱夫の仕事で食べていけるようになり、大きな仕事も任されるようになってきた。太陽の光も浴びないせいか皮膚は老人のようになり、腰を曲げて暮らしていたためか何時しか背も縮んでいった。


 それから幾つかの冬と春を地底で迎え、男は妻を娶り、子をなし、家を持つようになっていた。鉱夫として働きながら家族を養い、友と酒を酌み交わす中で男は漸く気が付いた。天国というものは天上にあるのではない、天国は底にあったのだ。

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