第1話『ドリーム・パレス』

主を恐れることは、知恵の初め。

これを行なう人はみな、良い明察を得る。

主の誉れは永遠に堅く立つ。


――詩篇 第111章 10節より


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、

わたしの義の右の手で、あなたを守る。


――イザヤ書 第41章 第11節より


 私の人生は罪と罰に彩られていた。貧しい家に生まれ、泣くとうるさいからと父に殴られ、黙っていれば生意気だからと殴られる。母はそれを見ても振り向きさえしない。


 暗黒時代ともいえる奴隷の子供時代を抜けて、自由な大人になっても、私は人様に迷惑ばかりかけてきた。そので年老いてからは孤独に暮らしている。


 しかし、そんな酒と暴力に満ちた灰色の私の人生において、一つだけ、ただ一つだけ奇妙な出来事がある。ああ、今でも眠りにつくたびに思い出す。あの極彩色の悪夢を。 


 すべての始まりは六十年以上前にさかのぼる。その頃の私は懐だけではなく、心も貧しかった。薄汚れた古着を着て、決まった職にも就かず、安酒に呑まれては社会が悪い、他人が悪いと管を巻く毎日。


 先程も言ったが、貧しくとも高潔な精神をもって貧しさを享受するような、修道僧が如き「清貧」を信条に持っているわけではない。私は道徳心だとか良心といったものよりも、明日の食い扶持を気にするような若者で、口を糊するのもやっとだった。


 今となっては年老いて見る影もないが、私は元々札付きの悪党で、お天道様が落ちると、仲間とともに留守の家に忍び込んで金品を盗るなんてこともざらにあった。あの頃はそうすることが、反骨精神を表現し、それこそが社会への復讐だと思っていた。いや、そのような言い訳をしていただけかもしれない。どちらにしても、よく言えば血気盛ん、悪く言えば頭が足りないような若者だった。


 ある日、私が仲のいい“仕事”仲間と店で酒を呑んでいると、その一人であるジョンが街はずれの屋敷の話を話しはじめた。ジョンは女のような甘ったるい顔立ちをした男で、自分が周りに愛されていると恥ずかしげもなく話すような傲慢な男であった。皆最初は、彼が酔って変なことを言っているのだと思って小馬鹿にしていた。私もその尻馬に乗っかって、蜘蛛が苦手なお前に古びた空き家なんて無理だともいった。


 だが、ジョンの熱弁は本物だった。それによると、そこには昔、考古学が趣味の変わった金持ちのクリスチャンという男が住んでいたらしい。彼は思想家、文筆家、弁論家として知られ、度々遠方に赴いては発掘調査という名目で、私たちの知る支配者よりも古の支配者の遺物を蒐集コレクションしていた。蒐集や発掘調査、貴重な遺産の保護と言えば耳障りは良いが、それを何も飾らず、濁さずに、偽らずに言えば墓荒らしだ。それを高貴かつ貴族の趣味であるかのように騙るその男は、ある日を境に屋敷には帰らずに失踪してしまったという。


 その時、屋敷にあった金品には一切手を付けずに行方をくらましたので、屋敷には当時のまま古代の宝石や緻密な金細工があふれている、いわば盗賊にとって『夢の屋敷ドリーム・パレス』が出来上がったということだ。


 その話を聞いて私と友人のマルクスは大喜びだった。最初は酔っ払いのたわごとだと思ったが、金が絡むのならば話は別だ。貧乏人にとって、道楽好きで世間知らずの金持ちの家にある金品なんて想像もつかないお宝だった。しかし、そんな夢のようなの話を聞いても私の弟のマシューだけはひどく怯えて嫌がった。


 いくら世間知らずの金持ちでも大切な金品をおいて失踪するなんておかしいだの、盗賊にとって夢の屋敷なのに今まで誰一人荒らしてないなんて不気味だとか言っていた。今となって思えばその通りなのだが、さっきも言った通り、あの頃の私たちは馬鹿な若者だった。その上、酒も入っている私たちがそこまで頭も回るわけはないし、何より欲望が優先された。


 ジョンは話をつづけた。その屋敷には地主が蒐集していたとてつもない宝物があるらしく、それを金に換えれば、この店にたまったツケを清算するどころか、田舎に土地を買って大地主になることすらできてしまうほどらしい。彼の瞳は将来の夢を語る子供のように輝いていて、その情熱に弟を除いて私たちも少年のように興奮した。


 結局、マシューもその熱意にほだされて屋敷荒らしに来ることになり、ジョン、マルクス、マシューと私の四人で屋敷に行くことになった。普通ならば盗みには用意と調査が欠かせないため、実行までには時間がかかる。それなのに、今回の盗みでは興奮のせいもあってその日のうちに決行をすることを決めた。夜が更けて街から人気がなくなると、私とマシューは麻袋と道具だけを持って家を出て、ついさっきまで飲んでいた店の前に再び集まった。


 屋敷は小高くなだらかな丘、またの名を「どくろの丘」の上に立っており、そこまでの道のりは老婆の手のように細く尖った枯れ木ばかりの気味の悪いものだった。路面は屋敷に近づくほど石煉瓦れんがを並べて造られたものに変わり、歩くたびに靴とぶつかり、甲高い音を立てる。道の端にはクリスチャンが暴いた墓の飾り、もしくはそれを模したものなのか、いずれにしても奇怪な石像が並んでいた。


 それらは100の目を持つ者や、鳥獣と人の4つの頭を持つ獣、目のついた車輪など怪物然としていた。一件すると凶悪なのようだが、一方でそれらによって私たちの生きる社会とこの先の屋敷の境が保たれているようにも思える。それほどまでに屋敷への道のりは歩けば歩くほど、現実感のない悪夢のような様相を呈していき、石像たちの睨みつける瞳が何かを訴えかけるような、いや、警告しているようだった。


 そのような異界への道を歩いていくと屋敷が見えてくる。それは本来ならば豪華絢爛で私たちの文化の結晶ともいうべき屋敷で「神の家」と呼んでいいほどの美しさだったが、主人が去ったことにより、廃れ、朽ち、見る影もない惨状となっていた。それは「盗人の家」と呼ぶ方がふさわしく思える。


 鉄の蔓が絡み合うような装飾がなされた門は、その淫靡とも思える美しさの反面、薔薇の刺のような危険な香りを漂わしている。その鍵には獅子と蛇が争う様子が生々しく描かれているが、近づいてよく見ると獅子に見えた獣は狼であることがわかる。


 門の前には先ほどのが2頭、両端で睨みをきかせて立っていた。それは獅子、鷲、雄牛、そして乙女の顔を持ち、その手には渦を巻いて燃え盛る炎を持った石像で、足があるべきところには車輪が明後日の方向に向かってついている。その体は翼に覆い隠されており、よく見えないが、恐ろしい野獣めいた肉体を持っていることは容易に想像できた。


 動くはずのない2頭の間を恐る恐る通り、か細い牢獄のような門に縄をかけて乗り越える。何かに呼び止められたかのように、いや、後悔の表れかもしれないが私は振り返った。そうすると石像の背に文字が刻み込まれているのに気がついた。


『この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ』


 奇妙だ。普通に考えたら、このような脅し文句は外からの侵入者に向けて残すものだ。これではまるで、ここから何者も出ていかないようにしているのではないかと思えた。あの頃の私は学がないので、これが『地獄篇』の一節であることは気がつかなかった。だが今思えば、あれは外の世界とあの屋敷を区切るためのものだったのだと思う。あの言葉は神のいない地獄へと続く門だった。外の世界に神はない。神がいたら、あの頃の私のような人間はいなかっただろう。それに対して、この屋敷には神がいたのだ。しかし、神がいるからといって、そこが楽園エデンとは限らない。あそこは地獄だった。


 最初はと玄関から入ろうとしているが、そこにいた全員が何故だか気味が悪くなってしまい、窓からこっそりと忍び込もうということになった。それは罪悪感に近いかもしれない。人が棄てた館のはずなのに、誰かに見られているような感覚がそれを覚えさせた。廃墟の中にその主がいると錯覚したのだ。


 屋敷の一階の廊下の窓を、静かに金槌で割って中に入ると、足を床につけた瞬間に埃が煙の様に立ちこめ、息をするのも苦しく、最初はみんな咳を込んだ。歩くたびに床に就いていた埃は目覚め、足先から目や鼻へと潜り込んでくる。


 屋敷の内装は古くはなっているものの、金の筋の入った赤色の壁紙や艶のある葡萄の木の円卓テーブルが高級品であることが無知な私でもわかった。怖がっていたマシューも本革張りの椅子が並んでいるのを見たらさすがに高揚している。だが、家具を持ち帰るのはこの人数では無理があるため、各自別れて金目の物を探すことにした。


 私が寝室に入ってみると、本当に机の上や棚に眠っている財宝は薄氷と見まごう下着ランジェリーをつけた娼婦のような、扇情的で魅惑的なものだった。清貧とはかけ離れているほどに華やかな紫水晶アメジストのついた聖職者の指環、溢れる生命力を思わせる緑玉エメラルドで作られた杯、熱く燃える生き血の様に鮮やかな紅玉ルビー、大海を切り取ってきたかの如く深い色の蒼玉サファイア、そして光を透すその姿の中に絶対的な信念を感じさせる金剛石ダイヤモンド、それらが飾られていないところには錆びることのない黄金が太陽の様に、清廉たる白銀が満月の様に、気高く煌めいている。それらは荊棘が絡み付くように繊細な装飾がなされており、ちょっとの衝撃で砕けてしまいそうだった。


 それを見ると財宝を前に自惚れていた私は、「一流の宝には、俺のような一流の所有者が必要だ」などと下品な冗談を言いながら麻袋に、入れることができるだけ宝石を詰め込むと、あっという間に袋は屠殺する直前の家畜のように肥えて太った。それでも麻袋をもっと持ってくるべきだったと後悔するほどの金品がまだ残っており、少し気味が悪くもあった。


「おい、みんな来いよ。すごいもの見つけた」


 ジョンが叫び、みんなを呼びつけた。私たちは件の宝物かと思って彼のもとへ走って行った。しかし、そこには宝石も金も銀すらなく、ジョンはただ満足そうに不思議な置物を抱えているだけだった。それは萌黄色の平べったい頭の蜥蜴とかげ木乃伊ミイラが、何本もの糸が絡まったような蔦の冠を被って、木を荒く削って作られた装飾のない王笏片手に玉座に座っているという、奇妙、いや珍奇極まりない姿をしていた。それを見て煌びやかな金銀財宝を期待していた私たちは落胆した。


 しかし、当のジョンは嬉々として語っている。


「これは大変貴重なものなのだ。売りさばいたらいくらの値が付くかは、想像もつかないほどのものだぞ」


 彼は小難しい古典演劇の俳優か何かのように、わざとらしく演じた口調でそう語ると、ポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出した。それは黄色く色褪せた新聞の切り抜きで、あの奇天烈な置物の写真があった。

 

『古代の宝発見!ドラゴンズ・ドリーム!長年にわたり、消息がつかめなかった流浪の民がつくった異教の神の像が発見された。この像は文化的に大変貴重であり、この他にも複数制作されているという。発見された際はザ・パブリック新聞社にご一報を! 』


 新聞によると、あれはある流浪の民の神官ドルイドが、北国に棲むとされる「火竜かりゅう」という動物の干からびた皮とオークと、その楢に寄生した宿り木で作ったものだそうだ。その奇天烈な姿は、彼らが信奉する夢を司る神を模った物らしい。


 流浪の民にとって夢とは神聖なもので、過去と現在、未来を繋ぐものにして、異界の入り口らしい。今でこそ、深層心理の研究として名だたる心理学者が夢の研究に乗り出しているが、彼らはそれよりも早くにその重要性に気がついていたようだ。流浪の民にとってこの神は夢の世界の案内人として、悪夢を避け、予知夢といった閃きを与えるとのことだった。だとしても私たちにとっては、気味の悪い枯れ木か、哀れな生贄動物の死骸でしかなかった。


 その蜥蜴の像を抱いたままにジョンは春の到来を喜ぶ野うさぎのように、細かく跳ねて喜んでいたが、私たちにはその希少価値がわからず、みんなすぐその場を後にして自分たちが求める金目の物探しに行った。マルクスの落胆は特に大きく、小学校すらまともに通っていないくせに知識人気取りやがってと文句をぶつぶつと言っている。それが悲劇のはじまりだった。


 最初の犠牲者はジョンだった。別れてから十分もたたずに彼の叫び声が聞こえた。先ほどの叫び声とは違い、付き合いが長かった私でさえ今までに聞いたことのない声だ。それでも声が彼の断末魔の絶叫であることはすぐに分かる。私は血相変えて彼のもとへと走った。尋常ならざることが起こっていることは分かっていたのに、心のどこかでは像に傷でもつけてしまった悲鳴であってほしいと思った。しょうもないような、安酒を酌み交わしながら笑い話になるようなことであることを願った。


 しかし、そこにあったのはあの像の隣で横たわるジョンの見るも無残な姿だった。床は赤黒い血であふれ、その飛沫は壁だけでなく、天井にまで着いている。あの端正な顔は苦悶の表情のせいで崩れ、身体の肉は食いちぎられている。赤黒く裂けたところからは、白い糸のようなものが見えていた。それが筋線維なのか神経の一本なのかは専門家ではないからわからなかったが、そのむごたらしい姿に私も他の仲間たちも声すら出せずにいた。


 ジョンの亡骸には首から腹にかけて大きな牙の跡があり、彼も必死に抵抗したのか、その傷をつくった牙が折れて突き刺さっていた。それは黒々として凹凸がある見たことのない牙で、野犬といった野生動物のものではないことは専門家でなくても明らかだ。そして胸に比喩ではなくぽっかりと穴が開いた。穴の周りの骨はあぶられた蝋の様になり、その中にはぶよぶよとした肉が落ちている。牙か何かで切り開いたというよりは、溶かして食べられたといったほうが正しいような、筆舌し難い血の気が引く光景だ。


 私はそれを見て気が付いた。これは蜘蛛だ。それも巨大な、想像できないほど巨大な蜘蛛だ。昔、ジョンが蜘蛛という生物は胃液で獲物を生きたまま溶かして食うから気味が悪いと言っていたのを思い出した。それほどまで蜘蛛を恐れていたジョンにとって最も苦痛な殺され方だったであろう。


 その死体をみて、私も、マルクスも、そしてマシューもパニックに陥ってしまって、ここから出ようと屋敷中駆けずり回った。しかし、私たちが割ったはずの廊下の窓のところに行ってもそこは壁になっていて、皺一つなく丁寧に壁紙が貼られていた。床にあるべき硝子のかけらも、そこを私たちが歩いた靴の跡もなくなっている。


 その不可思議な光景に私たちは怯えて戸惑いながら、玄関まで走ったが、扉は引いても押しても開かず、近くにあった椅子や置物を叩きつけたがびくともしなかった。


「くそったれ。なんで開かないんだ」


 全員で汗だくになるまで扉に体当たりを繰り返したが、それは自分の身体に青い痣と赤い血を垂らす傷を創るだけだった。疲れ切ったマルクスは恐怖もあってかもうすっかりまいってしまい、扉に手あたり次第に物を力なく投げつけている。


 すると、マシューが異変に気が付いた。その時マルクスの手にあったのは、先ほどまでジョンの横にあったあの像だったのだ。それに気づいた彼はその像に恐怖して、それを明後日の方向に投げ捨て、萎縮しきった喉で叫んだ。


「だ、だ、誰がこんなものを持ってきたんだ」


 だが、マシューも持ってきていないと言うし、私でもなく、もちろんマルクスなわけがない。そもそも、誰もこんな不気味な像を持ってくるわけなんてない。それにも関わらず、それはここにある。乾いた獣の皮にマルクスの汗が染みる。その汗が無謀な体当たりで流れたものなのか、恐怖による冷や汗なのかはわからなかった。たぶん当人もわかっていないだろう。


 それに気が付くとマルクスは蜥蜴の木乃伊にますます怯えて、他の出口を探すと言ってどこかへと飛び出して行ってしまった。マシューは一人で動くのは危険だと言って止めたが、マルクスはそんな制止を振り切って行ってしまった。私はジョンの血と肉が、頭からまるで白いシャツに着いた染みの様にべったりと離れずに固まってしまい、止めることすらできなかった。


 私は臆病者だった。仲間内ではリーダーぶっていたが、実際は自分がかわいいのだ。恐慌に陥った友人を追うより、哀れな自分を慰めることに淫していたのだ。最低な人間だ。


 それから数分、こんな状態の私を一人にしては置けないと残ったマシューがマルクスを探しに行こうと言い出した。


 勇敢なマシュー。彼はいつも友人を一番に考えて行動していた。情けのない兄の私を案じる優しさをも持つマシュー。それに比べて私は、自分のことを一番に考え、自分一人で精一杯であった。


 私は動けずに歯をがたがたと鳴らしながら、壁の隅に丸まって「助けを待とう」と言い訳をしていた。マシューの勇敢さと優しさを間近で見ながらも、自省はせずに頼り切っている下劣な私。そのことに気がついていながらも、立ち上がることはできない。その時に彼の悲鳴が屋敷に響いた。


「あいつが来る、助けてくれ」


悲痛な叫びに応えて、私はマシューに引っ張られる形で助けに走った。それは勇気を出したわけではなく、孤独になるのが怖かったからだった。それにもうこれ以上友人の死体を見るのは嫌だったのだ。結局は我が身かわいさ、友人のことなど本当はどうでも良かったのかも知れない。


 私たちは巨大な蜘蛛がまた現れたと思い、先ほど投げて壊れた椅子の足を持って行った。これが武器になり得るだろうか。この折れた木片に短剣ナイフのような鋭さはないし、鉄槌ハンマーのような重さもない。それを知っていても尚、何かを持っていないと不安だった。


 しかし、そこにいたのはジョンを食い殺した巨大な蜘蛛などではなく、萌黄色の皮膚に蔦の冠、原始的な木の王笏を持った人間大の蜥蜴の木乃伊だった。蜥蜴はその乾いた身体から枝が折れるような音を立たせながら、マルクスの頭を何度も王笏で殴りつけて鈍い音を響かせる。


 彼はもがいて血まみれになりながら言葉にならない声を上げている。歯は折れ、その合間から血が泡立たせながら、息が蛇が鳴く様に漏れている。王笏を受け止めようとした腕は紫色に腫れ、指はあらぬ方向にむいており、王笏の衝撃を物語っていた。


「た、たす、た——」


血が喉元へと流れるのか、水っぽい咳をしている。そのせいか、マルクスはうまく言葉を紡ぐことができていない。私たちもその理解のできない光景を前に、頭の中は真っ白になり、何故か立ち止まってその言葉を聴いていた。


「——けてくれ。たすけてくれ」


 かけられた言葉は氷水のように、私たちの心臓を大きく痙攣させ、頭を冷静にさせた。私たちは止めようとして蜥蜴の頭を殴ったが、干からびた木乃伊であるはずなのにその頭は固く、椅子の足は裂けて折れた。この怪物はマルクスの頭をつぶすのにご執心で、私たちを牛が蠅を尾で払うように腕で払った。その腕力はこの世のもとは思えないほど強く、止めようとしていた私たちは振り飛ばされてしまった。


 私たちは蜥蜴の凶行を止めることができなかった。私たちはマルクスを救うことができなかったのだ。マルクスは死んだ。私の眼前で頭を割られて血だまりをつくり、その中で抵抗し続けて命を落とした。彼がなぜ拷問のような最期をむかえないといけなかったのか。しかし、私の心に去来したのは、友人の死体を前にして彼への同情や復讐の炎を燃やすのでもなく、自分もこうなるのではないかという恐れだった。つい一時間ほど前まで一緒に笑いあっていた友が頭蓋骨を砕かれて死んだのに、自分のことだけを考えていたのだ。


 私は卑怯な男だ。私は卑怯で、臆病で、自己愛に満ちた男だ。自分を責めても責めきれない。いや、本当は自分を責めていることで、自分を罰しているふりをすることで、自分を慰めているのかもしれない。


 呆然とする私をしり目に蜥蜴は壁を這って近くの部屋に滑り込むように逃げ込んでいく。マシューは私に追いかけようと言うと、木乃伊を追って果敢に部屋の扉を蹴破った。私も一人になるのを恐れて遅れて部屋に乗り込んだが、そこに蜥蜴も巨大な蜘蛛の巣すらなかった。逃げ道なんてないはずだ。それなのに怪物どころか鼠一匹おらず、代わりにそこにあったのはあの蜥蜴の像だけだった。


 その瞬間、私は恐怖した。叫んで、叫んで、涙を流し続けた。こんなことになるのだったら、あの時マシューのいうことを聞いておけばよかったと後悔もした。そのマシューも冷や汗を流しながら固まっていた


 そんなうずくまりボロ布のようになった私にマシューがなだめるように肩をつかみ、私の眼を見てゆっくりと話した。


「これはきっと悪い夢だよ」


そんな弟に対し私は泣きじゃくる子供のようだった。


「ちがう、マルクスもジョンも目の前で死んだじゃないか。夢なんかじゃない、夢なんかじゃないんだ」


彼は泣く私に安心させるためか自分の眼を見るように言った。そしてマシューはそうすると一つの推論を語り始めた。


「そうじゃない、これはみんなの悪夢だ。きっとあの像は、呪いか何かがかかった像だ。あれは流浪の民が持つ数少ない財産である神を、そして彼ら自身を侮辱した者たちへかけた呪いなのだろう。だから地主はこれを発掘し、自分の所有物としたことが像の琴線に触れたのだと思う。それに気が付いた彼は、あの像を恐れて土地を捨て、どこか像に見つからない場所へ逃げた。いや、もしかしてこの屋敷自体が像の手に落ちたのかもしれない。今の僕たちは狼の縄張りに入り込んだ羊か、それとも神殿の台の上に置かれた生贄だ」


 そう言われると頭の中で一つ、また一つと一片ピースがつながった。ジョンは幼いころ蜘蛛にかまれて以降、蜘蛛が怖いと言っていた。マルクスもジョンが死んだあと、あの蜥蜴の木乃伊をひどく恐れていた。もし、マシューの仮説が正しいのならば、あれはみんなの持つ悪夢の化身なのかもしれない。だとすれば、その恐怖を乗り越えることができれば、あの木乃伊を克服することができるかも知れない。


「僕は、生き残れる術を思いついたかもしれない。それどころか、この屋敷から逃げ出せることができるかもしれない——」


マシューはそう言って、私の腕を掴んで立ち上がらせると、木乃伊の前に連れて行った。そして、その姿を見て怯える私に優しく説いた。


「——あれが恐怖を呼び起こすのならば、恐れなければいい。そうすればきっとチャンスはあるはずだ」


そう言ってぶつぶつと推論を呟くマシューの姿を私は羨望のまなざしで見た。彼にはなんて勇気があるのだろう。今思えば彼もそうやって自分を鼓舞していたのかもしれない。だが、昔の私はそのような弟の気持ちを考えることもせず、自分を卑下し、あまつさえ弟に嫉妬のような感情さえ抱いていた。


 マシューは呼吸を整え、像を手に取るとそれを床に思い切り強く叩きつけた。像は木が折れるような音を出すと、床の上で少し跳ね、転がった。しかし、それほどまで強く衝突したはずの像は、動物の皮でできているにも関わらず一切傷がついていなかった。


 私はその恐ろしさに小さな悲鳴を上げたが、マシューは私に叫んだ。その叫びは私にではなく、自分に叫んでいるようだった。


「死んだジョンとマルクスは死ぬ前にこれを持っていた。きっとこれに触ることが引き金になったんだ」


マシューの鼻息は荒くなり、歯を食いしばっていることが容易に見て取れた。その時は彼が力んでいると思ったが、実際はただ恐れていただけだろう。私に気づかせないようにしていたのかもしれない。それなのに臆病な自分の代わりに勇敢なマシューが解決すればいい、自分にあの木乃伊の呪いがかからなければいいと思っていた。自分だけは助かりたいという醜い思いを抱いていたのだ。


「どこからでもかかってこい。僕はお前なんか恐れないぞ」


その雄叫びが部屋を、廊下を、屋敷をつらぬいて響いた。


 その時、部屋の外の廊下から床のきしむ音がする。誰かがゆっくりと歩いているのだろう。一歩、また一歩と歩くときに出るその音は、幅広の指の生えた四本足で這う蜥蜴でも、薄く毛をつけた八本の足をばたつかせる蜘蛛でもない。間違えなく革靴か何かを履いた人間の足音だ。


 それは着実に近づいており、音はどんどん大きくなる。「それ」はもう扉の手前にまできている。私たちは息をするのも忘れて、音の主の動向に集中した。何が来るのかもわからない。ただわかるのは、あれはマシューの恐怖の化身であるということだった。


「それで僕を怖がらせたつもりか」


 再び雄叫びを上げる。しかし、返ってきたのは予想外の答えだった。それは悪魔の咆哮でも、怪物の唸り声でもない。酒で喉の焼けた人間の男の声だった。


「なんだと。それじゃあ、お前らはの言うことが聞けないとでも言うのか」


 その叫び声の主を私たちは知っていた。私たちを幼いころから苦しめ続けた存在、難癖をつけては何度も私たちを殴り、私たちの食費も酒代に充てていた男。私たちが泣き声を上げてもほったらかし、女に喘ぎ声を上げさせることにご執心だった男。私たちの父だ。それも今の年老いた父とは違う、若く、力のあったあの頃の父が帰ってきたのだ。


 扉を蹴破って現れた父は、あの頃のように片手に酒瓶を持ち、ぶつぶつと文句を言っている。恐怖を覚悟していたはずのマシューでさえ、その額には大粒の汗が噴き出している。私は恐怖から涙を流し続けていた。


「お前らはいつもそうだ、俺が幸せになれないのはお前らがいるからだ」


 その声に私の膝は笑い、目からは涙がこぼれた。間違えなく父だ。父がいつも言っていた言葉だ。私の心は完全にあの暴力の日々に囚われていた


 父は酒瓶を投げ捨て悠然と歩き、あらゆる想定を超えてきた己の真の恐怖による驚きによって、指ひとつ動けなかった弟の首を絞めた。苦しみ父の腕を掴むマシュー。私は弟を必死に救おうと父を殴りつけた。  


 駄々をこねる子供のように、父を弟から引きはがそうとした。彼も必死に抵抗したが、父は首を絞めたまま石像のように固まって動かなかった。そうだ、父の力は強かったのだ。あの子供の頃の私たちは束になってもかなわず、常に殴られ続けていた。私は潜在的に父を恐れ続けていた。私はあの頃から抜け出せなかったのだ。私は泣きながら何度も何度も父に弟を離すように懇願した。しかし、あの頃と同じで父は手を止めることはしなかった。


「僕は、恐怖を克服することができなかった」


 それが私の弟の最期の言葉だ。マシューが動かなくなると、父の濁った黄色い眼は私を睨んだ。私はその瞬間、心臓を冷たい死者の手で握られたような感覚に襲われた。父は間違えなく私を殺す気だ。


 私は走った。走って、走って逃げた。父から、あの頃の思い出から逃げた。弟の死から逃げた。父親が何者であったかはどうでもいい。問題は記憶に残る姿だ。其れから逃げたのだ。


 あの像に、触れたかどうかなんて関係がない。あれはただ殺すだけだ。私たちは神を「慈悲なる神」や「怒りの神」といって人格を持っているかのように扱いたがるが現実は異なる。あれは嵐と同じで、悪意も敵意もなく、ただ命を奪うだけなのだ。


 私は父に勝つことはできない。父は絶対的な強者だ。風呂場バスルームに逃げ込むと、扉の把手のぶに椅子をかませてしゃがみ込んだ。扉を叩く音はなり止まず、父はあの頃のように暴言を吐き続けた。


「出てこい、罰を与えてやる」


 父の言葉が私の心に刺さった。あの頃の私も父に殴られると、いつも風呂場に逃げ込んだ。しかし、最後は父に引きずり出されもっと殴られるのが常だった。私は何も変わっていない、臆病な子供のままだった。自分の弟が暴力を振るわれてもどうしようもできない、小さな、小さな子供のままだ。


 ジョン、マルクス、そして弟のマシュー。全員死んだ。それなのに私は逃げて自分だけ助かろうとしている。マシューは勇敢だった。頭も回った。私が彼のように勇気をもって立ち向かえたならばどんなに良かっただろう。なぜ死ぬのは私じゃなかったのだ。なぜ父は私を殺さなかったのか。先ほどまで自分が弟を父に捧げて命拾いしたという事実に向き合うこともできなかった。それどころか、弟を襲った悲劇よりも、自分を襲おうとしている悲劇を恐れている。なんて最低な男なんだ。


 いや、ずっとだ。私はずっと前から最低な男だった。この悪夢に忍び込む前から、周りに強い人間だと思われるために、虚勢を張っていた。しかし、本当に強い人間に立ち向かう勇気はなく、弱い人間ばかりを相手にしていた。


 夜の街を歩く時もそうだ。常に周りの人間の仕草に目を配り、弱そうな人間の前では胸を弓のように張り、強そうな人間の前からは蜚蠊ごきぶりのように影に隠れる。


 泥棒という卑怯な稼業をする時もそうだ。金持ちの家に入るのは社会への反逆であるかのように振る舞っているが、実際は弱そうな老人の家ばかり狙っている。反逆は自分への言い訳だ。本当は悪行に身を投じる勇気がなかったから、仕方のないこと、これは正しい行いだと言い訳をしていたのだ。私は善人として社会に向き合うに勇気も、悪人として悪行をする勇気もなかった。


 その時、目の前に情けなく泣きじゃくる父の姿が見えた。それは目を疑う光景だったが、すぐにそうではないことに気が付いた。


 あれは鏡だ。そしてそこに映っているのも違う、あれは父ではなく私だ。今の私だ。無精ひげを生やし、無様に涙をこぼす男になった私だ。その時、私の心に何かが走った。そうだ、私はもう子供ではなく、大人になったのだ。父と同じ大人になったのだ。そうすると急に父がちっぽけに見えた。


 父は、いやあの男は自分の子供に暴力を振るうことでしか権威を振るうことができなかったのだ。社会ではボロ布のように扱われ、その鬱憤を晴らすために私たちに手を上げていた。臆病で弱い男だったのだ。私は父に似ていた。だから父は私を殴っていたのだ。父は私に本当のひ弱な自分を見ていた。母の前で私を殴ったのも、女ではなく母になった妻が私に取られることを恐れたのだ。父が本当に恐れていたのは私だった。


 そうすると沈むような悲しみは燃え上がる怒りに変わり、私は扉を開けて一歩踏み出した。


「おい、臆病者。私はお前なんかには負けないぞ。私は強いぞ、お前よりももっと強いぞ」


 そう言うと私は勢いよく父に殴りかかった。先ほどとは違う。父に許しを求めていた力のない拳ではなく、弟の仇を討とうと決意に燃えた屈強な拳であった。私と父は取っ組み合いになって、互いの頬を殴り合った。父の拳は思った以上に弱かった。いや、私が成長し強くなっていたのだ。いつの間にか私は父に馬乗りになって殴っていた。私は父に吐かれた暴言を何度も吐き返し、拳が痛くなるほど殴った。

殴れば殴るほど、拳に重みが増すほど、心は軽くなった。なんて爽快な気分なんだろう。暴力の中、私の心は不思議と全能感で満たされていた。


 無我夢中で殴っていると、父はいなくなっていた。不思議なことだが、さっきまで殴っていたはずなのに煙のように消えてしまったのだ。私は勝った。あの頃の私に、父に、自分に勝った。勝利を確信すると同時に、死んだ仲間たちのことが思い浮かんだ。怒りはあの像へと矛先を変えた。私は玄関まで走り、弟に弔いと勝利への報告をしようと思った。ここに友人たちを置いていくことが偲びない。全員を運ばないといけないとも考えていた。


 玄関に行くと、閉まっていたはずの扉は開いており、マシューの遺体もなかった。そこにあったのはあの像だけだ。


 木乃伊を見た途端、私のぶつけようとしていた怒りは行き場を失った。あれはマシューの言う通り呪いの像なのだ。その呪いは深く、長いものだろう。人がかけたものではなく、私たちが知る由もない超自然的なものがかけたものかもしれない。その時、私の中に天啓がひらめくような感覚が訪れた。私がすべきことは、仲間たちのような犠牲者をださないために、この事を広く知らしめることだと思った。私は弟のおかげで生き残ることができたが、皆が常にそうとは限らない。私がすべきことは壊すことではなく、救うことだ。


 私は宝石も何も盗らず、仲間を救うことができなかった失意と使命感を抱えて屋敷を出た。あの像が何だったのかは何もわからない。だが私はあの屋敷には二度と近づく事はなかった。


 そのあとの私はこのとおりだ。あの時、私は確かに恐怖を克服した。しかし、壁を越えた先にあるのは新しい壁だった。あの暴力の渦の中、ふるわれる側でなく、ふるう側になることで感じた全能感がそれだった。私の中に父がいた。弱き者を虐げて、強者であることを実感する醜い自分を感じた。そもそも、私にはその片鱗があったのかも知れない。あの悪夢はそれを思い知らせた。


 それからというものの、自分が“父”になることを恐れて妻も子も持たず、今では一人で寂しく暮らす偏屈爺さんになってしまった。今の私のすることといえば、痴呆がまわって妄言を吐いているとか嘲笑れながらも、あの屋敷の忠告するぐらいだ。


 これを読んでいる君。そうだ、これ読んでいる君に話しているんだ。どうせ、私の話を聞いているこの男は、私の人生を面白おかしく書き、他の者と同じように他人の人生を嘲笑するつもりだろう。


 だが、それでも忠告しておく。君もこの話を聞いたか、それとも読んだのならば、あの屋敷に行こうとするな。あの像は人間の手に負える物じゃない。調べようとしたら、君も弟の二の舞だ。


 外から体に入るもので人を恐怖させることができるものはなく、人の中から出てくるものが、人を恐怖させるのだ。真の恐怖は、常にそばにいる。あの館に行かずとも、君の後ろで獲物を狙う盗人のように音を立てず、静かに心を毒していくのだ。


 代わりにといったら何だが、君の知識欲の飢えを満たせるようなことを教えてあげよう。あの日、心の奥深くに潜んでいた以来、君のようにの正体を知りたいという知識欲に私は取り憑かれていた。その中で数多くの物語を知った。それが本当かどうかはわからないし、それを知っても私には何もできない。それでも飢えを満たすことはできるはずだ。


 これから話すのは闇に潜むたちの物語。しかし、勘違いをしてはいけない。私たちはではない。ただ自分は世界を正しく見れていると錯覚した異常者——けだものどもと変わりないのだから。

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