第6話『龍よ、眠れ』

世の中は起きてくそして寝て食って後は死ぬを待つばかりなり


——一休宗純

 

 14世紀、南北朝時代の日本。現在の神奈川県にあたる相模国さがみのくにの淵辺原に淵野辺城という城があり、そこは足利直義あしかがただよしの家臣の地頭、淵辺伊賀守義博ふちべいがのかみよしひろによって治められていた。彼の血統は武蔵国を中心に勢力を伸ばしていた武士団、武蔵七党の一つである横山党一門に属する野辺氏——もしくは矢部氏——の支流にあたる。


 横山党は武蔵国むさしのくに多摩郡横山に本拠地を構える同族武士団で、彼らはその反骨精神から野狂と称された小野篁おののたかむらを祖とするされている。


 この武士団は弓の名手である愛甲季隆あいこうすえたかや、行政・司法・立法のすべてを司る鎌倉幕府の最高政務機関である評定衆ひょうじょうしゅうの一員であった中条家長ちゅうじょういえながを輩出した名門であり、彼もその後に続くべく、忠臣として軍を率いていた。


 しかし、淵辺義博は汚名を歴史に残すこととなる。彼は北条高時ほうじょうたかときの遺児、北条時行ほうじょうときゆきが起こした中先代なかせんだいの乱にて、天皇である後醍醐ごだいご天皇の第三皇子である護良親王もりよししんのうを旗印に奉じられることを恐れた足利直義の命を受けて彼を殺害したのである。


 元々、武士を重宝する父と不仲で、皇位簒奪の疑いによって幽閉されていたとは言っても、護良親王は天皇の子である皇子である。それを殺めたとなると、それは不名誉なこととして一族、ひいては彼の治めていた領土全体にまで泥を塗ったとまで言われた。

 

 事実、それによって第二次世界大戦に至るまで相模国のあった淵野辺周辺の出身者は軍の中で悲しい扱いを受けることとなり、皇居を訪れた際に、よくおめおめと顔を出せたなと言われたといった話まで残っている。


 残虐な反逆者として後世にまで語り継がれる彼だが、そのような彼にも民草を救った英雄ヒーローとしての伝承が残されている。


 彼が淵野辺城の城主だった時代、その領土に流れる境川さかいがわに龍池という池があった。そこは農民たちに農業用水として用いられ、淵辺原の人々にとって重要な生活基盤の一つであった。だが、その基盤そのものが農民の生活を脅やかしたのである。


 その仄暗い水の底に鱗を持った影が揺らめいた。それはぬらぬらと長い体をくねらせ、卑劣な蛇のように這いずり出ては、無防備な農民をその毒牙にかけたのである。


 それは大蛇おろちみずち、龍と呼ばれる怪物であった。それによって多くの罪なき者たちの肉が引き裂かれ、骨はかみ砕かれ、その亡骸は奴の胃袋の中で弔われることなく朽ちていった。


 その話を聞いて動かないほど、淵辺義博は腐った人物ではない。彼は護良親王を殺さずに逃したと言われほど慈悲深く、最期は君主のために戦乱の中、その身を犠牲にしてまで血路を開いたとされるほどの忠臣である。


 彼は仕えるべき人々のためなら命も、そして名誉も厭わない武士であった。彼はのためなら、あらゆる執着心を捨て、正義のために戦う人物であり、民草が苦しんでいると聞けば兵を率いて、龍池に果敢に向かって行った。


 そこで龍と淵辺義博の軍勢は死闘の末、彼の部下の1人がその矢によって龍のまなこを撃ち抜いたことで形勢は彼の側に傾き、最後は彼の腰に差した刀によって龍の長い体を三つに斬り分けて仕留めることで終わった。


 これによって農民たちに平穏が訪れるかと思われたが、龍の怒れる魂は鎮まることはない。それもそのはず、いくら正当防衛とはいえ、食事を妨げられた上に殺されて、恨まない生き物などいないだろう。その怨霊は、生前と同じく民草のわざわいとして村々を荒らし回ったのである。


 流石に生きている怪物相手に戦うことには躊躇とまどいのない淵辺義博であったが、死霊となれば話は別だった。影なきものは刀では斬れぬし、姿なきものを矢で射ることはできない。彼は困り果て、とうとう神仏にすがることとなった。


 彼から相談を受けた曹洞宗の僧侶、天台沙門存光師は龍の亡骸の頭の上に龍頭寺、その体の上には龍像寺、そして尾の上には龍尾寺を築き、その怨霊を鎮めようとした。その寺には、龍の血から芽を出したのかのように、美しい紫陽花あじさいの花が咲いた。


 その伝承は民草にとって、自らの君主が極悪非道の人物ではないという心の支えとなり、そこから広がるように彼にまつわる話は増えていた。


 しかし、民衆というものは移り気で、なおかつ残酷なものである。彼らは淵辺義博の偉業を忘れ、それによって三つの寺は時の流れにさらされるままとなり荒廃してしまった。


 それらによって、そこに眠る龍の怨霊は弔われることはなくなっていった。怒りに狂う龍の目覚めが近いと思われていたが、それを一人の僧侶が止めた。この重大な問題に気がついたのは巨海こかい才和尚という僧侶で、彼はそれらの寺院を一つにまとめ、その死霊をもう一度地の底に鎮めることに至った。そうして再建された龍像寺には今も、農作業中に発見された龍の骨とその眼を撃ち抜いたやじりが残されているという。


 それから更に時は流れ、末法の世を過ぎ、人々は信仰心を捨てるようになった。そうして人々から忘れ去られた龍の怨霊は、地鳴りを起こしながら、蘇ろうとしていたのである。それに気づくものはほとんどいなかった。


 龍像寺の門の前をふらりと歩くものの姿があった。全身を包む緑の外套マント頭巾フードによって、その実像を掴むことが難しく、それは浮浪者、よく言えば隠者ハーミットといった風貌で、仏の教えや救いを求めるものには思えなかった。その目元は黒い硝子の風防眼鏡ゴーグルで隠され、表情すら読み取ることは難しい。


 ただ、わかることと言えば、その者が男であることと、白人系であることだけだった。彼は僧侶がその奇妙な姿を見て、疑いを持つ前にその場を去った。


 一方、龍像寺を訪ねる男がもう一人いた。彼は黄色人種であり、一目で日本人だとわかる容姿であった。彼は体に合わない大きな服を着て、その実像を掴みづらいようにしている。それは、先ほどの男のように何か使命めいたものを抱いているからでは無く、その体型を隠すためのであった。


 一度でも太っていたことのあるものであれば、彼の服装を理解していただけることだろう。太っている人間にとって最も嫌なことの一つに体型が出るぴっちりとした服を着ることがある。


 自分の美的感覚に自信がある者なら別かもしれないが、多くの肥満体型を経験した人間はそのような姿を嫌う。近年では、自由主義リベラル的な思想の持ち主の中で体型に自信を持つべきだという体型批判ボディ・シェイマーに対する批判が強まっているが、まだまだ当事者や一般層の間には浸透はしていない。


 そのため、いくら痩せても、そのような服装を止めることが難しいのが実情だ。彼らにとってそのような服装は鎧であり、自分の身を守るための堅い殻なのだ。


 この少年もその一人である。彼も体型を気にして、何とか痩せてみせたがそれでも、そのときの不安を伴う思い出から抜く出せずにいるのだった。


 今でも、夢に見ることがある。太っていることを馬鹿にされ、乳首がなどと笑われた恐怖を。だから走ることも、運動も大嫌いだったし、それを好む人間も好きじゃなかった。


 彼は大東守良だいとうもりよしといい、この近くに通う大学生である。大学から歩いて20分ほどの距離にある龍像寺は散歩に丁度よく、彼は講義の合間などに時間を見つけると、参拝に訪れるのであった。大東という青年に信心深い側面などない。ただ、心が疲れたときにここを訪れるのだ。この寺には護良親王を逃したとされる洞穴の伝説があり、この寺の境内の長椅子ベンチに座っていれば、自分もこの嫌な生活から抜け出せる気がしていた。


 大学に入る前は、夢と希望に燃えており、研究者として生きて行こうと考えていた。子供のころ、テレビで見ていた海外のアニメーションの主人公のような、外套をまとって呪われた寺院から秘宝を持ってくる学者のようになりたかった。歳を重ねるごとに空想と現実の違いを知り、それが陳腐な作り物だと知ったが、それでもその情熱は冷めず、そのためにあらゆる時間を学問に割き、図書館に通い詰め、教授たちが嫌がるほど質問攻めにした。


 しかし、その夢は細い蜘蛛の糸がぷっつりと切れるように終わりを告げた。彼の父、大東尊治たかはるが肩入れしていた事業に失敗し、その資産の一部を失うこととなったのである。幸いにも、大学に通い続ける程度の貯えは残ったが、大学院への進学は絶望的なものとなった。


 さらに大学の運営側による利益の少ない大学院の閉鎖、母方の祖父に介護が必要となるなど不幸が重なり、彼は大学卒業後に就職することを期待されるようになった。


 これからの身の振り方を考えると仄暗い不安を感じる。そして、その底から過去の恐怖がぬらりと蘇り、心に影を落とすのを感じた。何度か死んでしまおうかとも考えた。幸い、彼が足繁く通う龍像寺は山間やまあいにあり、段差が多い。もし身を投げたら、頭から落っこちて楽になれるかもしれない。寺の裏手の崖から身を投げたら、死体も発見されにくく、誰にも気付かれずに死ねるかもしれない。それでも、その中途半端な高さを前にすると、彼の中途半端な決意は揺らいでしまうのだった。


「どうしよう」


 小さく呟く。どうせ誰にも届かない言葉だ。もしかしたら、寺の本尊である釈迦牟尼仏しゃかむにぶつに届くかも知れない。それでも、体を銅で固められていては手を伸ばすことはできないだろう。寺の住職も最初は話しかけてくれたが、何故だかこのように悩んでいる姿を他人に見られたくないので、住職をこちらが避けるようになっていた。


 気がつけば大学の講義も休みがちになり、もともと少なかった学友はもっと少なくなった。それが続くと、本を読むことも億劫になり、活字を見ると目が滑るようになった。そうして、昔ならば大したことない距離を歩くのも大変な労力を要するようになる。今では大学に通えているのも奇跡だ。


 最近は視野が狭まり、咄嗟の判断力が著しく落ちているのを感じた。もう、どのようになったっていい。この身が龍のように裂かれようとも、気にも留めないだろう。そのような願望が紙に染料インクが染みを残すようにじわじわと広がっていった。そうして、首元を蛇が締め付けるように、頭に空気が行かなくなるような感覚に襲われるようになった。


 そのような脳が乾いた海綿体スポンジのようにすかすかになっても、気がつくことがある。この寺の門をふらつく外国人の姿だ。その珍妙な格好から同じ大学で芸術関係について学んでいる、留学生かと思ったが、ここ以外でその姿を見たことがないため違うだろう。彼は龍像寺について、何かを調べているようで、手帳をその身から離さなかった。この寺に龍退治の伝承があることは知っている。


 しかし、わざわざ外国から来て調べるほどのことでもない。このことについてまとめたインターネットの記事すらほとんどないのだ。それにも関わらず、龍像寺に来るといつもそいつがいる。そして、そいつも自分と同じように住職が来ると、虫が岩陰に身を隠すようにふらりと姿を消すのだった。


 最初は奇人と思って無視していたが、ある日を境に彼に興味を持つようになった。その異常なまでの執念めいたこだわりが気になり始めたのだ。だいたい、この寺にほとんど毎日——自分もそうだが——通い詰める姿は奇人を超えて狂人の域に達していた。


 大東もそのような狂人についていくほど、馬鹿ではない。されど通報したとて自分に得はないし、そのような模範的市民の行動をするほどの気力もなかった。なので、自分に害がなければいいかと思い、彼を避けるようにしていたのだ。


 この寺に取り憑かれた男を避けるのには、住職を避けるのとは異なる労力が必要とされる。住職ならば寺を見ていれば人が出てくるかどうかわかるが、境内を何の規則性も持たずにふらつく男を避けるのは容易ではない。そのため、自然とその動向を監視するようになり、気がつけば彼を避けるために彼を追うという奇妙な状況が続いていた。


 それを繰り返し始めて3日が経とうとしていたときのことだった。とうとう、大東はその男を見失ったのである。山の斜面に段々畑に実る麦のようにびっしりと並んだ墓石、その迷路のような道の中で見失ってしまったのだ。


「何か御用かな」


 後ろから不意に話しかけられて、心臓を握られたような感覚に陥る。心臓が押しつぶされたことで、血液が一気に脳に回り、まるで雑巾を絞ったように汗がどっと溢れる。


 それもそのはずである。その声は今まで何度か話しかけてきた住職とは異なるもので、振り向いたときに彼の目に映ったのは目元を真っ黒な風防眼鏡で覆った緑衣の男であった。


 彼は顔色一つ変えず、風防眼鏡越しに本当の眼を見ることはできないが、じっと見て睨んでいるのは感じ取れる。その心は明らかに——3日間もつけまわされていれば誰でもそうだが——不機嫌そのものだった。


「何故、ついてまわる」


「ああ、ええっと、その」


 何か言い訳をしようとしても、喉元に何かが引っかかっているようで、言葉が出てこない。それどころか、まるで喉に蝦蟇ガマガエルが突っ込まれているように小さく唸るばかりだった。


「も、もしかして、同じ分野に興味があるのかなと、お、思いまして」


「同じ分野だと。何のことだ」


「あ、あなたも、こ、この寺の伝承について研究しているのでしょう」


 絞り出された大東の答えに、緑衣の男は顎をさすりながら何か考えている。彼はその後、また大東を、そして話し始めた。


「そうか、君もか。私もこの伝承について興味があってね。故郷を思い起こさせる」


「こ、故郷ですか」


「ああ、君は聖レナード、またの名を隠者レナードについて知っているかね」


 その口ぶりから察するに、何かを探っている。いや、試しているのかもしれない。大東は直感的にそう感じた。そして、大学で学んだ知識を活かして答えた。


「イ、イングランドの伝承ですよね。た、確か、ウェストサセックスの聖レナードの森が舞台の話で、隠者レナードが竜を斃して、その血から鈴蘭すずらんの花が咲いたとか。そ、そのは今も鈴蘭の寝台リリー・ベッドと呼ばれているのですよね」


 彼はそれを聞くと、機嫌を直したように顔を少し緩めた。


「竜の血から鈴蘭の花が咲くのが美しくて好きなのだ。まるで竜の持つ生命力を表しているような、そのような野趣溢れる美がある。この鈴蘭という花も好きでな、君影草や谷間の姫百合といった呼び名も詩的で美しい」


 急に饒舌になるのがなんだか気持ち悪かった。だが、そのことが大東に何となく彼への親近感を持たせた。自分が大学で直向きに学問に打ち込んでいたときの熱意、それもおたくっぽい情熱を思い起こさせた。


「ここも竜が死んだとは思えないほど、美しい花が咲き乱れている。自分が根ざした土に合わせて色を変える花に、虫を除ける葉の力強さ。そのどれもが人間的な可能性と自立心を思わせる」


「紫陽花はこの町の花ですから。自分も昔は好きでした」


「昔は、か。今は嫌いなのかね」


 痛いところを突かれた。ついつい、状況を良くしようと誤魔化しているうちに、ぽろりと本音が出てしまったのだ。人間とは奇妙なもので、話せば話すほど、真実を晒してしまう。


「何だか、じめっとした雨の中で咲くのがね。昔は暗い雨空の中でも燦々と明るい花を咲かせるのが美しいと思ってたのですが、今では皆が苦しんでいるのに自分だけは幸福だと自慢しているようで好きではなくなってしまいました」


 彼はそれを聞くと小さく笑った。それは嘲笑うようなものではなく、興味深いといった様子のものだったが、今の大東にそれを受け入れるほどの余裕はなかった。


「そういう解釈もあるか。だが、私は永遠に続くような薄暗い雨の中でも太陽の代わりに花開いている方が美しくて好きだ」


 そう言って彼は自己紹介が遅れたと言い、紳士っぽく——まるで古い陳腐な作り物のように——話し始めた。


「私の名前は、君もご存知かも知れないが、サー・ヘズ・ロンギヌス。サー・ヘズ、もしくはミスター・ヘズと呼んでくれ」


「いえ、初めて知りました。よろしくお願いします、ええっとサー・ヘズ。初めまして、大東守良と申します」


「大東くんか、私は君のことを知っているよ。ずっとつけまわされてたからね」


 何だか、古い映画の登場人物と話しているようなちぐはぐさがある。動きも演技っぽく、大振りだった。それに話していることもストーカーっぽくて気味が悪い。


「ずっと君のことが気になっていてね。やっとつかまった。同じ研究テーマのようだし、少し話そうか」


 そう言ってサー・ヘズは強引に手を引いて、大東を連れて行った。彼は一瞬、狂人に捕まったという事実によって、背中に冷たいものを当てられたような気持ちになったが、何故だか懐かしい気もした。


 彼らは本堂近くの長椅子に腰掛けると、この地の伝承について話し始めた。正確に言えば、サー・ヘズの方が一方的に話していたが、それによって大東の言葉は引き出されていった。


「竜を殺すことに必要な要素とは何かわかるかね」


「そうですね、勇気とかですかね」


「それも必要なことだ。英雄や勇者は勇猛果敢で、なおかつ慈悲深いものでなければならない。そのようなものにこそ、力というものは相応しい。しかし、それらも英雄的行為の副産物でしかない」


 彼は足元の小石を拾い、手の上で幾度か転がすと、それを摘んで見せつけた。


「このようにどこにでもあるもの、そしてそれがない方がいいものだ」


「どこにでもあって、なければいいものですか。それは一体何ですか」


だよ。何かに執着するから、人は苦しむ。それは死後もずっと続く。そして、執着心を捨てたとき、人は初めて心の平穏を得られる。君も覚えがあるだろう」


 その言葉に胸が急に激しく鼓動するのを感じた。それは鋭い刃物を眼前に突きつけられたようで、心臓は身体中にこれでもかと勢いよく血を送るのにも関わらず、全身の血管が緊張して縮こまるので、体が破裂しそうな感覚に襲われるのだった。


「だけど、皆が皆、執着心を捨てたら世の中持ちませんよ」


 執着心を捨てる。思えば大東は人生において執着に執着するという状況が長らく続いていた。大学院の夢を諦めたこともその一つだ。未だにそれに執着して苦しみ、さらに過去にもこだわりを捨てきれないでいる。それが身を焦がすような苦しみを与えているのだった。


「執着心だとか、過度なこだわりに囚われ続けているのは辛い。まるで身を焦がすようだろう。その火傷の後は些細なこと、爽やかなそよ風すら苦痛に感じる——」


 サー・ヘズはそれを見越したように語り続ける。


「——だからこそ、真の英雄とはその執着心を捨てることが大事なのだよ。ナザレのイエスも、イェータランドのベーオウルフも、そしてこの寺を築いた淵辺義博も、皆執着心を捨てているのだ」


 大東はまだ、胸がどきどきと脈打ち、全身が悲嘆の声を上げている。サー・ヘズの目を見ることはできず、何故だか泣きそうになってしまう。今までは涙も枯れたと思い、泣く気力もなかったのに、急に押さえ込んでいた何かが溢れそうになってしまった。


「突飛な説ですね。淵辺義博だって死ぬ直前に、自分が原因で妻に被害が及ぶのを恐れて離縁したではないですか。それも立派な執着心だと思いますけど。僕、見に行きましたよ。別れ橋とそのたもとの


「確かにそうだな。あれには殺された龍の体が引っかかってたから縁切り榎木とかいろいろな伝承があるがな。されど、そのように妻のことを思うが故に妻から手を引くというのも執着心を捨てる行為だと思うぞ。それに突飛な説というが、果たしてそうかな。あれを見ていればわかる」


 そう言って、本堂の後ろを指差す。あそこはもともと、護良親王を逃したとされる洞穴があったといわれる場所だ。彼が現実から逃げたいと思い続けていた場所でもある。


 そこからぬらぬらと何かが這い出ているのが見える。それには影はなく、まるで幽霊、怨霊、死霊といったものだった。幽霊に足がないのは、一般的だが、それには腕もない。代わりに全身を鱗が覆い、くねった長い体をしならせる。


「龍だ」


自然と言葉が漏れる。それに動揺する様子もなく、サー・ヘズは話し続けた。まるでそれが当たり前の光景だと言わんばかりの対応は、大東に一抹の不安と恐怖、そして疑いを持たせた。


 奇妙な怪物の幽霊を見ても動じず、淡々と話し続けるその姿は、奇人だとか狂人だとかいった域をもう超えている。大東はどうやってこの場から逃げ出そうかと必死に考えていた。


「龍という生き物はまさしく執着心の象徴だ。金銀財宝をため込み、それを殺そうとするものも、そのに取り憑かれる」


彼は一息つき、まるで哀れむような目でその龍を見つめている。それはまるで見慣れた光景を見ているかのようで、大東には理解に苦しむものだった。


「もう死んだのに、楽になれるのに、いつまでも復讐にこだわって辛かろう。もういいんだ。誰もお前を殺しに来ないのに、いつまでもハリネズミのように刺々しく気を張って何になる」


 サー・ヘイズはぶつぶつと何か呟くと、ふたたび語り始めた。それは龍に向けられたものなのか、それとも自分に向けられているのか、大東にはわからなかった。


「私はね、自殺を認めるわけでは決してない。しかし、せっかく苦しいことを耐え抜いて、立派に生きてきたんだ。そうしてその生涯に幕を下ろしたのに、まだ苦しもうとする。もういいではないか。誰もあなたを責めないし、誰もあなたを怒らない。もう十分頑張ったんだから、後は休めばいい」


 それを聞くと大東は急に不安になった。何故だろう。自分にひどく当てはまる気がする。そう思うと呼吸が浅くなる。こいつは何が言いたいのだ。こいつは何を知っている。こいつは、こいつは、こいつは。


 サー・ヘズは横で俯き、呼吸を荒くする大東をじっと見つめると、一言だけ彼に言った。それは今までの、どこか尊大さのある学者めいた口ぶりではなく、諭すような優しい口調だった。そして、それが明らかに自分に向けられていることは、大東にもわかった。


「もう楽になってしまえばいい」


 大東は急に立ち上がって、その場から去ろうとした。もう限界だ。こいつが何を言いたいのかわからないが、不気味で、気色が悪い。後ろから彼を呼び止めるサー・ヘズの声が聞こえてきたが、それらは無視した。


 龍の幽霊もきっと幻覚だろう。もう自分はそこまで追い込まれているのだ。そう考え、大東は家に帰ろうとした。


「駄目だ。そっちに行ってはいかん」


 何故止める、彼には関係のないことだ。大東はそう思っていた。いや、そう思っていたはずだった。何故か、これから先に進みたくない。そう思い始めていた。


 龍像寺を出るには山門から出るか、それとも墓を突っ切って、山の斜面を切り開いた道を登るかの二つがある。大東は登って行った方が最寄りの駅に近いので、そちらの道を選んだが、坂を歩くと酷く足がすくむのであった。その感覚は何か恐ろしいものが先に潜んでいるような、そのような感覚だった。


「まだ、駄目だ。君には早すぎる。戻ってきなさい」


 サー・ヘズは一体何の話をしている。大東の頭の中には疑問がぐるぐると回っている。早いとは何だ。一体自分は何を恐れているのだ。後ろから追ってくる彼から逃げるように、大東は速足でその場を後にしようとした。


 そして、以前、身を投げようとした崖の前に来た。ここから早く逃げ出すためには、このようなものも無視して走らねばならないのに、何故かここに惹かれる。彼の足は自然と崖に吸い込まれていった。


「駄目だ」


大東はその忠告を無視して崖の下を覗き込んだ。


「あああ」


彼は思わず叫ぶ。その下には、頭から血を流して男が倒れている。この崖は大した高さはない。しかし、頭から落ちれば命の保証はないだろう。その男はぴくりともせず、そこから動くことはなかった。

 そして、その男は大東守良——すなわち彼本人——であった。


「とうとう、とうとうやってしまったか。何度も、何度も、何度も踏みとどまって来たのに。」


 彼はそう呟き、その場にへたり込んでしまった。もう立ち上がることはできない。永遠にここから立ち上がることはできないだろう。まるで足に根が張っているようだった。それが現実だと思えるほどに、彼は一歩たりとも動くことができなかった。


「辛かっただろう。周りからはやればできる子だと期待され、うまくいかない現実に苦しみながらそれを誰にも明かすことなく耐えてきた。誰にも弱みをさらせず、常に明るく振る舞おうとしてきた。周りには太陽のような人間だと言われながら、その心情はずっと土砂降りだったろう」


 気がつけば、大東の後ろにサー・ヘズが立っていた。彼は優しく、慰めるように、諭すように語りかけている。


「僕は飛び降りてしまったのですか」


「いや、君は自殺したわけではない。ただ、この崖っぷちをふらふらと彷徨い、それで足を滑らせただけだ。君は最後の最後まで生きようとした。立派なことだよ」


 大東はぽろぽろと涙を流し続けていた。もう、抑え込んでいたものを止めることができなかったのだ。


「これまで頑張ってきたのに、必死に生きてきたのにこんな幕切れなんて。あんまりだ」


 サー・ヘズは寄り添うように、彼の肩に手を置き、優しく笑った。それは彼を褒め称えるような、そのような肯定をしてくれるものだった。


「もう、いいんだ。もう、十分頑張った。もう、十分苦しんだ。もう楽になっていいんだ」


「あなたは死に神ですか。それとも仏さまか何かですか」


 大東の問いに優しく答える。


「さあな、それを決めるのは君自身だ。君もこの姿に見覚えあるだろう」


 そうだ。これは子供のころ憧れていたアニメーションの中の登場人物の一人であった英雄ヒーローの姿だ。あの古典的な演劇のような大振りな身振り手振りも、尊大な口調も、すべてその登場人物のままだ。


 あんなにも好きだったのに、気づかないなんて。そう思うと、自分が初心を忘れて、日々の暮らしで精一杯になっていたことに気付かされた。彼が死に神だろうと、仏さまだろうとどうでもいい。彼の言葉を借りるならば、そのような執着心を捨てることこそが、心の平穏をもたらすのだ。


「もうそろそろ、住職が君のことを見つけるだろう。そうすれば、君の家族にも連絡が行く。家族は悲しむだろうが、それも時間が癒してくれるはずだ。君はもう悩まなくていい。君はここに止まらなくてもいい。何故なら君はどこにでも行けるのだから」


「どこにでも行けるとは何ですか。僕はどうなるのですか、天国にでも行くことができるのですか」


「それを答えることはできない。しかし、幽世かくりよ常世とこよを精一杯生き抜いたものに対する褒美だ。そこで永遠に休むがいい」


「そうですか、それはよかった。よかった。よかった」


 蚊がなくような消えゆく声を最後に、大東は二度とあらわれることはなかった。崖の下では住職が何やら騒いでいる。多分、彼の体が見つかったのだろう。サー・ヘズはそれを見て、少し安心すると崖から離れ、山門へと向かって坂道を下っていった。


 そして、本堂の前に着くとそちらをじっと見つめる。そこでは鱗をまとった龍が鼻息荒く、とぐろを巻いている。それに影はなく、光を透す体は住職にも気付かれていない。誰にも見えていないにも関わらず、周りに威嚇を続ける姿には、どこか哀れみを感じざる得なかった。


 「もう、彼は去ったぞ。お前も、長いことそこにいるだろう。誰もお前の命を狙うものはいない。境川も混凝土コンクリートで固められて、帰る場所もない。もう、怯えるのはやめて、楽になっていいんだ。お前がそこを去る日まで、何度でも会いにくるからな」


 サー・ヘズはそう言って山門をくぐり、寺から去っていった。


 そして、今年も龍像寺には土砂降りの雨の中、美しい紫陽花の花が咲いた。

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