高木莉愛

 久々に感じるこの感覚に、ギヤは悶絶した。

 お腹の奥から熱いものが込み上げてきて、酸っぱい臭いが鼻につく。

 汚ならしくとろみのついたそれを吐き出したギヤの口元は汚物にまみれ、これまで纏っていた美人という仮面とは程遠い姿になっていた。


「おふ、おげえ」


 恥も外聞もなく吐瀉物を撒き散らしながら、ギヤは何が起きたのかと心のなかで首を傾げる。

 わたくしの光は攻撃を全て遮っていたはずなのに。


「何も食べていない割には、随分出したじゃないか」


 自分に軽口を叩くキリコの姿を確認したギヤは、ようやく状況を飲み込んだ。


「あ、アナタ……その手……」

「じきに治るとは言え、ひどく痛かったんだぞ。まったく、困った女だ」


 キリコの右手は血まみれになっていた。

 柄だけになった刀を握りしめたキリコはあの瞬間、ギヤの腹を殴っていたのだ。

 切りつけた刃を塵にする防壁を殴るなど、下手すれば腕が削り取られてもおかしくない。そんな壁をキリコは殴り、そしてその拳はギヤに届いていた。


「うひー! 凄いことになったな」

「キミはもう少し隠れていたらどうなんだ? 良仁」


 キリコの行動を「なんて無茶を」と思い呆然とするギヤを尻目に、良仁が物陰から飛び出してきた。

 この男はわたくしとキリコの戦いに割って入るなんて馬鹿なのかとギヤは思うが、良仁はそれ以上に馬鹿であろう。


「だって、今が絶好のチャンスじゃん」


 チャンスとは?

 そう小首を傾げるギヤはいつの間にか戦意を失っていた。

 この戦意を失った姿こそが良仁のいうチャンスなのは、そろそろ彼の扱いに慣れてきたキリコは察していた。


「莉愛ちゃん……これから俺といいことしない? キリコちゃんに負けたことなんてパーっと忘れちゃおうよ」

「え?」

「さっき言っていたようにキリコちゃんも一緒じゃ気が晴れないだろ? だから今夜は俺と二人で」


 良仁の馬鹿なナンパにギヤは何故か涙が止まらなくなっていた。

 彼ほどに性欲剥き出しでナンパしてくる異性などいつ以来だったかと。

 そうか、これがキリコが言う「やり過ぎた」の真意なのだろう。

 他人を下朗と見下していた自分にこれまでは偶然周囲の価値観が噛み合っていただけで、彼のように慕ってくる人間がいなければいずれ偶像などごみになる。

 そんなこと、きっと以前はわかっていた。

 大学再デビューなんていきり立って、最初はチヤホヤされたことで自分はいつしか初心を忘れていたようだ。

 これでは先程のキリコのように、男に胸を触られて恥ずかしい声を出すなんて黄色いイベントは発生すること自体があり得ない。

 思えばあのとき負けた彼女は同姓からも異性からも好かれていた。大学生になった自分が目指すべき姿はああいうミクロな人気者であって、テレビタレントのようなマクロな人気なら手段が間違っていたようだ。

 それに気づいて、ギヤの眼は涙で濡れる。


「どうしたのよ莉愛ちゃん」

「急に泣き出してごめんなさいね」


 ポタポタと流れ落ちる涙は地面につかずに消えていく。

 彼女はふと自分の過ちに気づいたことで、償いを終えてしまったのだ。


「もう少し楽しくやっていたかったわ。でも限界のようね」

「戻ったら死ぬという話には同情するけれど、流石にあたしでも引き留めることは出来ないよ。だって、住民になんてなりたくないだろう?」

「聞くまでもないですわね」

「おい? 二人とも?!」


 会話が成立するギヤとキリコに取り残された良仁は戸惑う。

 いや、本当は彼も理解している。

 だがナンパしたらうまく行きすぎて昇天させただなんて事態を飲み込めていないのだ。


「ごめんなさいね。ええと……」

「良仁……茶道良仁だ!」

「では良仁さん。もし向こうでお会いできたら、あなたのお誘いに付き合ってあげますわね」

「莉愛!」


 事態を飲み込めないままに消えていったギヤを前に、良仁は泣くことしかできなかった。


 それから次第に罪の世界は元に戻り始めた。

 三日もすればだれも街中を水着では闊歩しなくなるし、チャラ男の良仁は女に声をかける日々に戻る。

 一時の平穏こそ失ったが、いつもの通りな罪の世界がここにあった。


「さあて、今日も見回りするか」


 日常を取り戻し、次の異変がいきるまでは世界を見回るだけの日々。

 いつしか良仁も償いを終えてキリコの暇潰し相手が居なくなった頃、現世ではちょっとした奇跡が起きていた。


「莉愛、俺だよ、良仁だ。約束したじゃないか」

「あ…アナタは……」


 とある病院のベッドに高木莉愛は横たわっていた。

 行方不明となっていた彼女はほとぼりが覚めた頃に発見されたが、ボロボロの内蔵は彼女の命を止めんとしている。

 あのとき、他の咎人二人から精気を吸っていたことが幸をそうしたのだろう。死んでいたはずのギヤは、死にかけの状態で現世に帰っていた。

 それから十年以上は寝たきりのまま過ごしたが流石にもう限界である。

 もう彼とは会えないのだろうかと考える彼女の前に、償いを終えた良仁がやって来たのだ。

 嬉しい再開に自然と莉愛の顔には笑みが浮かぶ。


「待たせちまったな」

「ええ。遅いじゃない」


 帰還から時をかけてようやく良仁は彼女を発見したのだが手遅れである。

 良仁は莉愛の手を握りしめる。後ろで流れるフラットラインを示す音に涙を浮かべながら。

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罪の世界の咎人殺し どるき @doruki

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