第2話

 少年は外の悲惨な世界をいつもぼんやりと眺めていました。


 彼の目からは世界が何か薄い透明な膜のようなもので覆われているように見えました。手を触れると触れていることは分かる。しかし直接触れている感じがしないのです。


 彼は思いました。

 今、目に見えるもの、それは本当に存在しているのだろうか。 


 少年は世界を覆うこの膜を介さずに直接何かに触れることはできないのだと思いました。きっと触れると消えてしまうのではないかと。

 

 幼い頃は触れたものが全て黄金になればいいと思っていました。しかしいつまでたってもそんなおとぎ話のようなことは起こりませんでした。


 それだけではありません。目の前で音楽の演奏を聞いても、遠くで鳴っているだけのように感じました。そのくせ音楽が終っても、まだ鳴っているような気がするのです。


 彼は自分が何かを見ていることすらあやしいと思いました。彼は自分はただの鏡で、自分の瞳に世界が映っているだけのように思いました。


 彼は外の世界をノイズをつくりだすものと考えていました。カサカサ、ザワザワと、耳障りなノイズを生む世界です。

 

 彼は無口な少年になりました。

 会話もノイズとしか感じられなかったからです。


 彼は話し掛けられれば論理的に正しいと思う答えを返すことはできます。しかし会話をすることに意味があるようには思われませんでした。


 彼は子供の頃に友達と鸚鵡返しにする言葉遊びをしたことがありました。何言っているだと言われたら、何言っているんだと返す。怒るぞと言われたら、怒るぞと返す。


 彼は会話とはそういう言葉遊びのようなものだとしか思えませんでした。


 次第に彼には友達と呼べる人がいなくなりました。しかし彼は勉強ができました。ノイズに悩まされながらも、勉強に打ち込んでいたからです。


 彼には分からないことがありました。


 なぜ人々は死ぬ間際、神様の石を抱きしめて残された人の幸せをお願いして死ぬのだろう。とても辛い人生だったはずなのにも関わらず、なぜ皆笑顔で死んでいくのだろうと。


 そうして長い年月が過ぎ、とうとう彼の父親が死の扉の前にが立つ番になりました。


 彼をたった1人で育てた父親は死の間際、枕元に彼を呼びました。父親は弱々しい手で息子を抱きしめると、こう言いました。


「お前には隣村の学校から誘いがある。食事を用意してくれる環境を提供してくれるそうだ。私が死んだらそこに行きなさい。


 お前の為に少しばかりのお金を残しておいた。お前が大人になるまではそれで暮らせるだろう。


 お前の成長した姿を見ることができないのは残念だが、できるかぎりの準備はしたつもりだ。


 学校を出たら、お前はお前の自由な人生を生きるといい。


 お前なら大丈夫だ。

 私は何も心配していない。


 お前が生まれる時、お母さんはお前の心の奥底に種を蒔いてくれた。それがあればいつかお前は痛みを知ることができる。

 

 もし痛みを感じることがあったら、その痛みを手がかりに進みなさい。


 ただ、もしも辛いことがあったら思い出してほしい。お前は母親に望まれてこの世に生まれて、父親に愛されて育ったのだと。


 お前は幸せになる為に生まれてきたのだよ」


 そう言い残すとまもなく父親は息を引き取りました。


 父親の死んだ時にもやはり心には何も感じませんでしたが、なぜか体が震え出しました。父親の葬儀が終ってしばらくしてもその震えは収まりません。むしろ震えは大きくなる一方です。


 ついには震えが心の中に入り込みそうになった時、彼は体を硬直させ強く心を閉じました。気持ちを緩めてしまうと心の中にまで震えが入ってきてしまいそうになるのです。


 それから何日か経過するとようやく震えが止まりました。震えが止まった瞬間、彼は小石のようなものを飲み込んだような気がしました。

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