第51話 命を繋ぐ口付け
室内に足を踏み入れると強烈な香の匂いが鼻を通り抜けて脳を刺激した。
焚かれた香の匂いが部屋に充満して、空気の流れのない部屋の中で滞っている。
これは媚薬の香か!
椋は思わず鼻を覆いたくなるような刺激の強い匂いは酒を呑んだ時のような酩酊感をもたらした。
身体の芯が熱くなり、身体の中心に熱が集まってくる。
視界に凜抄の白い肌が入り込む。
肉感のある肌が自分を誘うように映り込んだ。
「椋! しっかりなさい! 煙を吸ってはいけませんっ!」
柊の声に我に返り、口と鼻を袖で覆った。
「鳳様!」
椋と柊は再び主の名を呼ぶが返事はない。
鳳は凜抄の下でぐったりとしている。
四肢はだらんと脱力していて、長椅子から垂れていた。
乗り込む際に懸念されたのは情事の最中だったら非常に気まずいということだった。
良かった……着衣に乱れはあるが、全裸ではない。
そんな風に安堵している場合ではなかった。
この強い香に当てられれば凜抄を襲ってもおかしくないはずだが、様子が変だ。
香だけでなく、酒にも何か仕込まれたのか?
一刻も早く医者に診せなければ。
椋はそう考え、柊に視線を送る。
お互いに頷き合い、足を踏みだした時だ。
「臭い。二人共、窓を開けて」
凛とした女性の声が命じる。
二人とは自分達のことだろうか……。
椋と柊は互いに顔を見合わせる。
「お二人共、窓を開けて下さい!」
どうしたものかと、躊躇していると、詠貴からも催促の声が上がる。
「「ただいま!」」
双子は声を揃えて賭けだし、寝室と隣部屋、廊下、窓や扉を開け放つ。
「勝手なことしないでっ!」
凜抄が叫ぶがそんなことは無視して全てを開け放ち、空気の通り道を作る。
心地良い風が部屋から部屋を通り抜けて、新鮮な空気と共に邪香を消し去った。
ついでに詠貴は忌々しい香を焚き続ける香炉を叩き割った。
床に香炉の破片が散らばり、残り火は踏みつけて消火する。
「一体、何なのよっ!」
「いい加減、彼の上からどいたら? この状況で続きが出来ると思ってるの?」
怒鳴る凜抄に黒髪の美女が呆れたように言った。
額に青筋を浮かべながら凜抄は衣服を整えることもせずに、長椅子から降りて黒髪の美女に対峙する。
「あんた、いきなり現れてなんなの⁉ 誰よ、あんた」
憤っている凜抄は今にも彼女に掴み掛かりそうな勢いで叫ぶ。
鋭い眼光で睨む凜抄だが、黒髪の美女はどこ吹く風で、彼女の視線はぐったりと横たわる鳳に向けられている。
その態度が凜抄の苛立ちに余計拍車をかけた。
「誰だって聞いてるの! 一体、何しに来たのよ⁉」
金切り声が部屋の中にこだまする。
「蒼子」
「……何ですって?」
凜抄は聞き返すが、今度は盛大な溜め息が帰って来る。
「大声で喚いてばかりいるから耳の聞こえが悪くなるんだ」
「何ですって⁉」
「私の名は蒼子。先ほどお前の命で井戸に落とされた女童だよ」
蒼子の凛とした声が室内に響く。
透明感のある蒼子の声はよく通り、空気を切り裂いた。
「何を言っているの? あれはただの子供よ? あんたはどう見たって……」
馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、凜抄は言う。
しかし、蒼子の鋭い眼光を向けられれば動揺する様子が見て取れる。
「井戸に落とされたのか⁉」
「何てことをっ」
椋と柊は信じられないものを見る目で凜抄を睨み付ける。
「まぁ、そこはどうでもいい」
「良くありません」
大した問題ではないと言う蒼子を詠貴は諌める。
蒼子は鳳に視線を向ける。
頬は紅潮し、呼吸が浅い。薄らと目は開いている。
「鳳様」
蒼子の呼びかけに反応はない。
意識が飛んでる。
無理に揺すったり、叩いたりしても意味はない。
「盛らせようとして媚薬を入れたな」
射抜くような蒼子の眼光に凜抄は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「量が多すぎる。部屋に焚いた香も媚薬が入っているんだろう。相乗効果を狙ったんだろうが、量が多すぎれば逆効果だ。盛るどころか萎えて一生機能しなくなるぞ」
蒼子は淡々と告げる。
何て恐ろしいことを……。
恐ろしい発言に身体がブルっと震える。
この空間にいる男達は足の付け根に冷たいものが吹き抜けた。
思わず股間を押さえたくなる衝動に駆られるがぐっと堪える。
「もう少し、慎ましく言い表して下さい」
側につく詠貴が声を小さくして言う。
「詠貴、その盃を」
「中に酒のようなものが入っていますが……」
「構わない。そのまま私に」
蒼子言われてすぐさま机に置かれた盃を手渡す。
すると蒼子は盃に口を付けて大きく煽る。
一体何を⁉
その場にいる全員がそう口に仕掛けた。
蒼子は盃を机に投げ、鳳に顔を近づける。
「何するのよ! 鳳様から離れて」
蒼子に掴み掛かろうとする凜抄の前に詠貴が立ちはだかる。
「黙って見ていて下さい」
今までにない詠貴の強い口調に凜抄は圧倒される。
そうしている間に、蒼子は鳳の様子をまじまじと見つめた。
黒い髪を椅子に散らし、ぐったりと手足を投げ出している。
先ほどまで紅潮していた頬も色がなくなり、青白くなっていた。
苦し気に浅い呼吸を繰り返し、胸を上下させる姿に胸が痛んだ。
明らかな敵に出された物を口にするなんて、本当に愚かだと思う。
普通であれば絶対にしない。
しかし、鳳は攫われた自分のために酒を口にしたのだろう。
自分を取り返すため、危険だと理解しながらもこの場所に来て、酒を煽ったに違いない。
本当に、人が良い。
蒼子が仲間を待つ間もずっと親切にしてくれた。
蒼子に初めての景色を、初めての体験を、新しい世界を見せてくれたひとだ。
蒼子がはぐれないように、攫われないように、退屈しないように、風邪を引かないように、寂しくないように、攫われた自分を取り返すために。
いつも自分のために動いてくれた。
蒼子は鳳の頬に手を伸ばす。
血色のなくなった頬に温もりを分け与えるように包み込む。
本当にお人好しだ。
この町だって、私のことだって放ってどこにでも行けば良かったのに。
凜抄との関係を受け入れたのも町のためだ。
町の人の負担が少しでも軽くなるように、自分が候家の災厄を被った。
これ以上、水不足で人々の生活が苦しくならないように。
酒を呑んだのも蒼子を助けるために必要だったのだ。
こんなことでは心配だ。
私はこれからこの人を欲望や増悪が渦巻く場所に導かなくてはならないのに。
そうなれば蒼子は何もできない。
こんなにも優しく、蒼子の世界を豊かにしてくれた人に、何もしてあげられない。
でも、今ならば。
蒼子はそっと自分の唇を鳳の唇に宛がう。
私の、一生分の感謝を注ごう。
密着させた唇と唇の隙間から溢れた液体がゆっくりと流れ落ちた。
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