第50話 悪女の誘惑
「そんなに焦らないで。夜は始まったばかりなのよ?」
凜抄が盃に酒を注ぐ。
広い机には運ばれてきた料理が並べられていた。
「さぁ、どうぞ」
にっこりと微笑み、凜抄は鳳に盃を手渡す。
寝室に設置された長椅子も長机も今まで使用していた物とは違っていた。飴色で艶のある木材は繊細な細工が施され、高価な品だと一目で分かる。
長椅子に隣り合って座り、距離を詰められればむせ返るような香水の匂いが鼻孔を刺激する。
既に充満している焚かれた香の匂いだけで気分が悪いというのに、身体に纏った香水のせいで殊更、気分が悪くなった。
鼻孔を刺激するだけでなく、脳にまで不快な匂いが突き抜け、頭痛がした。
鳳は酒を受け取り、手元で水面に映る自分を覗き見る。
酷い顔をしているな。
自分は相当、余裕がないらしい。
こんなことでは駄目だ。
蒼子の命が掛かっているのだから。
鳳は心を落ち着けるため、深く呼吸をする。
「さぁ、頂きましょう」
二人は盃を掲げて、各々口を付ける。
「どうかしら? とっておきの地酒なのよ」
そう言って凜抄は酒を口に運ぶ。
「あら、お口に合わなかったかしら?」
酒が進まない鳳を伺い、凜抄は言う。
酒など進むわけがない。
本来ならこの盃も叩きつけてやりたいぐらいだ。
しかし、自分の振る舞いが蒼子の命に直結しているかもしれないと思うと言いたいことも言えない。
蒼子は鳳を動かすための人質だ。
鳳が上手く交渉しなければ蒼子は返さないはずだ。
この酒を呑まないうちは蒼子も鳳も解放されないだろう。
幸い、酒の強さには自信がある。
だが、この女もかなりの酒豪。
しかも酒に強いだけでなく、酒が入ると肉欲に火が着くこの女の相手は骨が折れる。
そうなる前にケリをつけなければ。
鳳は意を決して盃に口を付ける。
今まで味わったことのない味に思わず顔を顰めた。
「ふふ、少し強いお酒なの。でも……すぐに癖になるわ」
そう言って凜抄は鳳の腕に絡み、身体を密着させる。
大胆に露出した豊満な胸をわざとらしく鳳の腕に押し付け、裾から露わになった白い太腿を鳳の脚に擦り付けるように寄せてくる。
何も知らない男であればすぐ側にある肉感に身体の芯が熱くなるところだが、今の鳳には何も感じない。
鳳は凜抄から視線を払うように酒を煽った。
その様子を見て凜抄はほくそ笑む。
「ねぇ、鳳様。私達が出会ってもうどれくらい経つかしら?」
「どうだったでしょうか」
香や香水、料理の匂いが混ざり合い、頭痛がする鳳は感心のなさそうな態度で言った。
「三年よ。父がこの町の地主になったのはもう何年も前だけど、私がこの邸に移り住んだのは三年前だもの」
凜抄は言う。
「今でも覚えているわ。貴方と初めて会った日のこと。こんなにも素敵な男性がいるのだと……心が震えたわ」
凜抄は恍惚とした表情で語り出す。
耳元で甘ったるい声が不快感となって絡み付く。
頭痛がする。
「お店では他の女が邪魔でゆっくりで話せないから、この邸に呼ぶようになったのよね。お買い物をしながら、貴方とゆっくりおしゃべりをするのも楽しかったわ」
頬を赤らめて凜抄は鳳との思い出をなぞっていく。
何だ、これは……?
視界が霞む。
心臓は大きく跳ね、胸の中に圧迫感が生まれ、呼吸が乱れるを感じる。
「二人っきりで会うようになったら、もっとも貴方を好きになったわ。女慣れしているかと思えば二人でいても私に触れられないくらい奥手だった……そんな所も、私しか知らないと思えば愛おしいもの」
頭痛や眩暈だけでなく手足にも力が入らなくなっていた鳳は盃を落とす。
鳳の手を離れた盃がカランっと音を立てて床に落下して転がる。
「何を……入れたっ……?」
「薬よ。貴方が、素直に私を求められるように」
苦し気に顔を顰める鳳を見つめて凜抄は言う。
女としての自尊心が高い凜抄は己の美貌で鳳を虜にしようとしていたことは理解していた。
今まで薬を盛られたことは一度もなかったため、油断した。
すっと鳳にしなだれかかるように凜抄はより身体を密着させてくる。
「初めて愛された夜は最高だったわ……でも、貴方は父に遠慮して、なかなか私を求めてくれないんだもの。お父様に釘を刺されていることは知っているのよ」
凜抄は鳳を長椅子にゆっくりと押し倒して、馬乗りになる。
「何を……」
苦し気に言葉を絞り出す鳳を下敷きにして凜抄はうっとりとその姿を眺めている。
媚薬か?
いや、媚薬とはもっと性欲を掻き立てるようなもののはず。
頭痛、眩暈、吐き気、動悸、あらゆる症状が一気に押し寄せてくる。
「少し効き過ぎたかしら?」
凜抄の顔が近付き、細い指が頬に触れる。
触れた場所が腐り落ちそうな不快感に鳥肌が立った。
小さな湿り気を含む音と共に唇が押し当てられていき、腰の帯に手が掛かった。細い帯飾りの紐が解かれ、帯飾りが床に転がる。
襟ぐりを広げ、唇や頬を押し付けて、手の平で服の上から鳳の胸板や肩、腕を撫でまわす。
一番大きい帯は解かれていないが、凜抄がしようとしていることを察して鳳は身体を強張らせる。
凜抄を振りほどきたくても身体が思うように動かない。
思考を働かせようとしても頭痛や不快感が思考の邪魔をする。
上から鳳を見下ろす凜抄を睨み付けるのだけで精一杯だった。
「蒼子は……蒼子はど……こだっ……?」
このままではここに来た意味がない。
鳳は力の入らない身体で凜抄に抵抗し、声を発した。
「……やっぱり、私と一緒にいられないのはあの子供のせいだったのね」
凜抄は弄る手を止めて、冷ややかな声音で言う。
「でも、もう平気よ。あの子供はもういないもの」
その言葉に鳳は目を大きく見開いた。
「なん……だとっ……」
力を振り絞って状態を起こそうとするが、薬の影響で上手くいかない。
「蒼子を、どう……したっ……!」
「私は何もしてないわ。でも、そうね……今頃、水の中か、水面に浮いてるんじゃないかしら?」
その言葉に鳳は愕然とした。
何だと……?
身体の力が抜け、頭の中が真っ白になる。
あの小さく、愛らしい蒼子が死んだ?
生意気で毒舌で、それでいてとびっきり愛らしい、あの蒼子がもういないだと……?
「それにしても貴方が子供好きだとは思わなかったわ。ふふっ、でもそれでこそ夫に相応しい男といえるわ」
凜抄は心弾むと言わんばかりに嬉しそうな顔で言う。
「子供が好きなら私との子供を作ればいいわ」
きっとどんな子供よりも愛らしく、美しい子ができるに違いないわ。
そう言って凜抄は悪魔ような微笑みを見せる。
背筋が凍り着くような言葉と共に、凜抄は鳳の帯に手を掛けた時だ。
「そこまでにしておけ」
凛とした美しい声が空気を裂いた。
扉が開かれ、バタバタと音を立てて人が雪崩込んで来る。
「鳳様!」
「ご無事ですか⁉」
双子の椋と柊が前に飛び出す。
「何なの⁉ 勝手に入って来るなんて!」
鳳に馬乗りになったまま、凜抄が金切り声を上げる。
「随分と空気が悪いな」
鈴のような声が室内に響く。
シャランと金属の擦れる音する。
思わず耳を傾けたくなる涼やかで上品な楽器の音色のような音だ。
シャラン、シャランと鳴る錫杖のような物を手にした女性が一人、双子の背後からゆっくりと前に進み出る。
「誰よ! 誰なの⁉」
凜抄は目を吊り上げてその人物に向かって叫ぶ。
鳳は言うことを聞かない身体の代わりに視線だけを向けた。
黒くて艶やかな長い髪、白い額には紺藍色の水晶が輝き、涼し気な目元、意志の強さを感じる瞳、通った鼻に口元は不機嫌そうに引き結んである。
小さく白い顔に藍色の衣が良く映えており、濃い桃色や黄色などの帯や帯飾りが女性らしく思える。
清廉された雰囲気と神秘的とも言える美しさ、怜悧な印象を与える美女がそこに立っていた。
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