第12話古き地主

 

「気持ち良い」


 蒼子は穏やかに流れる水に手を突っ込む。


 山から流れてくる小川の水は澄んでいて清く、陽の光を反射させて水面が眩しく輝いている。


 蒼子は椋と共に港町を離れて隣村を訪れていた。

 村の端には小さな山があり、山の雪解け水や地面に蓄えられた水が小川となって流れている。


「ここの水は綺麗で美味しいから飲んでみると良い」


 落ちないようにね、と老人に促されて蒼子は手に水を梳くって口を付ける。

 乾いた身体に水が染み渡る。


 口に含んだ水が身体の末端まで行き渡り、身体を清めてくれるのを感じる。


「清い」


 この水には力がある。


 水に触れた皮膚からじんと力が染み渡り、心地良い。


 力が補われるのを感じる。

 水が清いのは環境が良いからだ。


 蒼子は真っ直ぐに空に向かって伸びる木々と覆い茂る緑を仰いだ。

 木の一本一本の幹が太く、枝ぶりも立派なものだ。


 これだけ成長するには長い年月と生育する為の土と水が必要である。


 土から十分な養分と清い水を吸い上げて育った木々は清い。清い木々は土の下に貯めた水を清めてくれる。そして清い水は木々の生育を促す。


何十年、何百年と長い年月をかけて清水の循環を作り出す。


水と縁深い神女達は清水のような美しい水を好み、力の源としている。

海水浸食が進んだ港町では綺麗な水は少なく、この川のようにたっぷりと水に浸るような事は出来ない。


 好機だ。


 この水にしばらく浸かっていれば力は満ちるはずだ。


 力が元に戻らなければ一向に人探しが出来ない。鳳達と過ごす時間は悪くないし、あちらこちらと連れて行って見た事のないものを見せてくれる。


 今もそうだ。


 王都にはこんな視界を覆いつくすような、加えてこんなにも清い緑の茂った場所はない。


 蒼子の狭い世界は世話焼きな三人のお陰で驚く程に広がった。


 しかし、いつまでもこの状態に甘んじている訳にはいかない事も蒼子は分っている。


「とにかく、力だ」


 せめて通常稼働できる状態にまで戻さなくてはお話にならない。


「もういっそのこと……」


 手だけを水に浸すよりも全身で浸かった方が効率が良い。

 蒼子は水を被ろうと小川に身を乗り出した。


「お、お嬢さん!」


 小さな身体が頭から水面に向かって落ちそうになるのを見て老人が悲鳴にも似た声が響く。


「危ない!」

「ぐえっ」


 蒼子は帯を引かれて腹に帯が食い込んだ苦しさで下品な声を出す。


 あぁ……せっかくの好機だったのに……。


 蒼子は失墜の念に駆られた。


 川から引き離されて地面に立たされると椋は屈み込んで蒼子に怪我がない事を確認して息をつく。


 側にいた老人も安堵してその場に座り込んだ。

 蒼子は力の補給が出来なかった事にがっくりと肩を落とす。


 椋は意外にも心配症で馬の乗り降りや、少しでも視界から消えると蒼子の元へ飛んできて離れるなと言う。


 この分では川に入るのは無理そうだ。


「落ちたらどうするんだ! 危ないだろっ!」


 そして真っ直ぐに蒼子を見て叱り付けた。


「す、すみません……」


 大きな声と険しい表情に圧倒されて反射的に謝罪の言葉が出る。

 しばらくそのまま見つめられて動けずにいると険しい表情が緩んだ。


「よし、良い子だ」


 蒼子を抱き締めてよしよしと頭を撫でる。

 身体を離して椋は言う。


「女なんだ。怪我なんてしてくれるな」


 その慈愛に満ちた表情は弟妹を持つ兄のようだ。


「椋さんって弟や妹がいるんですか?」

「柊を含めて弟が五人だ」

「えっ」


 蒼子は驚いて声を上げる。


 柊を含めて五人という事は、椋は六人兄弟の長男だ。


 兄弟の多さにも驚いたが椋が双子の兄だったという事にも驚いた。


「柊さんがお兄さんかと思ってた」

「よく言われる」


 何故かと言われれば勘でしかない。


 根拠はない。


「でも納得」

「何がだ?」

「良いお兄ちゃんなのがよく分かる」


 蒼子を叱る様は兄の優しさだ。


 蒼子を叱る椋の様子や世話を焼いてくれる柊の様子から二人の弟達の接し方が垣間見える。


 二人とも優しく兄弟想いの兄達だ。


「落ちなくて良かったね。浅い川だけれどもお嬢さんぐらいなら溺れるとも限らないから気を付けなければいけないよ」


 老人は仲睦まじい兄妹を見るように目を細めながら言う。


「天功殿」


 老人の方を見て椋は言う。


「お茶を淹れよう。中へお入り」


 山の麓にある小さな家にその老人は住んでいた。


 家の裏には小さい畑があり、側には小川が流れている。

 緑が多く閑静な場所に住んでいるこの老人は李天功と言う。


 目元や首元のしわから見てもかなり年配の人物だとは思うのだがしゃんとした佇まいと意外に筋肉質な身体からは年齢を感じない。


 何だろう……不思議な感じがする。

 蒼子は天功の後ろ姿を凝視する。


 変わった所はない。


 しかし、何か惹きつけられるような力を感じる。近くにいると温かく包み込まれるような不思議な感覚は清い水に触れた時の感覚に良く似ていた。


 天功から視線を外し、家の中をぐるっと見渡す。


 物が少ない。生活に必要な最低限の物しか置いていないようだ。


 質素な生活が覗える。


 その中で蒼子の目を惹く物があった。

 窓際に置かれた卓の上に丸い石が綺麗な布の上に鎮座していた。


 近寄って見てみるとやはり川に転がっていそうなただの石だ。しかしその石は玉の形をしている。


 これほど美しい形の石は逆に珍しいだろう。

 見た目はただの石だが、何だか妙に惹きつけられる。


「お茶が入ったよ」


 天功の声に蒼子は椋の隣に座った。


「気を付けろ。熱いぞ」


 椋がふーっとお茶を冷まして蒼子に渡す。


「ありがとう。頂きます」


 お茶も汁物も熱めが好きなので出来れば冷まさないで欲しい。

 そう主張しても火傷すると悪いからと、聞いてもらえないので諦めた。


「美味しい」


「それは良かった。少し奥に入ると湧水のでる場所があってね、飲み水はそこから汲んでくるんだよ」


 天功は山の方を指して説明してくれる。


「港町の水より美味しい」

「あの町も以前は水がとても綺麗だったんだよ」

「そうなの?」


 蒼子は小首を傾げる。


「あの町には竜神様がいるんだよ」

「竜神?」


 天功の言葉に蒼子は身を乗り出す。


「昔、あの地は水の都と呼ばれる美しい港町だったのだよ」


 竜神の守護を受け、あちこちで清い水が豊富に湧く美しい地だったと言う。


 民の前に度々その姿を現し、恵みの雨を降らせて民は豊穣を祈ったそうだ。

 その竜神は美しく、そして恐ろしい力を持っていると言い伝えられている。


「竜神はどこにいるの?」

「竜神様はね……どこかにお隠れになってしまったのだよ」


 天功は悲しそうな顔をして言う。

 その様子に蒼子は眉を顰める。


「いなくなったの?」

「少しお疲れになって休んでいるだけなのだよ」


 天功は蒼子に表現を柔らかくして説明する。


 柔らかく過ぎてよく分からない。


「力の枯渇により消滅したと言われている。あくまで伝承で竜神が実在したかは定かではない」


 椋が分かりやすく教えてくれる。


「竜神様はいるよ」


 椋の言葉に反発するように天功は言った。


「それより町の様子はどうだい?」

「あまり変わりありません。水の値段が上がっている事以外は」

「そうかい……」


 何だか深刻そうな空気が漂っている。


 蒼子は何の話だかイマイチ理解出来ない。

 椋の服の袖を引っ張り、説明を求めた。


「あぁ、お前が気にする事じゃない」

「むう」


 大人の事情だとでも言いたそうな態度をされてしまい、蒼子はわざとらしく不満気な顔をする。


 じっとりとした視線を無言で送り続けてしばらく経つと根負けした椋が口を開く。


「面白い話ではないぞ」

「構わないよ」


 蒼子は姿勢を正して耳を傾ける。


「俺達が住む港町はどこも海水浸食が進んでいて水不足なんだ。井戸の所有権を持つ地主に税金を支払い、水を使っているんだが井戸水には使用制限がある」


 その為、井戸水とは別に地主から水を購入しているのだが水の値段が高騰していると言う。


 水の税金も年々上がっていてこのままでは税金を支払えなくなる者が増えると予想された。


 水は生活するには欠かせない。

 値段が高くとも買わざるを得ないのが水だ。


 それを良い事に地主は水に非常識な値段を付けて売っている。


「知らなかった」

「子供に気を使わせる事じゃないだろう」


 住民にとっては深刻な問題だ。


「いつからそんな状態なんですか?」

「五年前に地主が交代して……酷くなったのはそれからだな」


 以前の地主は善良的な値段で水を売り、金を払えなければ無料で水を渡すような人物で住民からも大層好かれていたと椋は語る。


 悔しそうに告げる椋も以前の地主を惜しむ者の一人なのだろう。


 海水浸食が深刻になったのも地主が代わってからで、それまで普通に使用していた井戸が次々と枯れ、海水に呑まれた。


 住民だけでなく水にも嫌われていると椋は言う。


「何で地主が交代したの? 親子で代替わりしただけでそこまで大きな変化があるもの?」


 そもそも何故地主が交代したのか。


 予想出来るのは地主が高齢、または死亡したかだ。


 それほど住民から慕われていた人物が罪を犯し失脚したとは考えにくい。

 地主とはその土地を代々治めて管理する家の事だ。


前当主の意志や方針を息子や孫が受け継ぎ、存続していくものである。


「親子で代替わりした訳じゃないんだ」


 言いにくそうに椋が蒼子の言葉を否定する。


「家ごと取られてしまったのだよ……全て私が悪いんだ」

「え……?」


 まるで自分の犯した罪を白状するかのように天功は告げる。


「今の地主である候家は前の地主を騙して地主になったんだ。この天功どのを騙してな」


 その言葉に蒼子は口をあんぐりとさせたまま動けずにいると天功の言葉を椋が代弁する。


「騙された私が悪いのだよ」

「「騙す方が悪い!」」


 二人の声が力強く重なる。


 今から八年ほど前、李天功と候旋夏は知り合った。商人をしていた旋夏は商売の為に商才を武器にして天功に近付き徐々に信用されていった。


 ある日、年に数回行われる地主の招集を州牧から受けた天功は数日間この町を空けた。


 その招集とはその土地の管理者を確認するもので、その土地の管理者が自分であると承認してもらう重要なものだ。


 地主は州牧から地主の証である地主印を受け取っている。


 地主の招集には必ず持って行かなければならず、その時も印を携えて町を出たはずだった。


 しかし、招集先で印が偽物だと分かり急いで町に戻ると地主印と新しく地主となった事を証明する書状を手にした旋夏がいた。


 天功が地主として所有していた物は勿論、家財なども全て取り上げられ、わずかな金と最低限必要な物だけを持ちこの山際まで追いやられたのだと言う。


「くそだな」

「女の子がくそとか言うんじゃない」


 窘める椋の言葉も耳に入らないほど憤りで胸が一杯だ。


 何て事だ。

 悔しさで胸が裂けそうだ。


 蒼子は口をきつく引き結び、何かに必死に耐えようとしている天功を見た。

 悔しい思いをしたに違いない。


 住民に慕われ、町の為に働いて来た彼が飲まされた苦渋は蒼子が予想しているよりもずっとずっと苦いはずだ。


「私の家は代々地主として竜神様をお祀りしていたんだよ」


 地主の管理する土地には竜神を祀っている小さな社があり、社の中には竜神の力が宿る霊玉があると天功は語る。


 地主はその社の管理を徹底して行い、行事や祭りの際は供物を供え、民の参拝を許し、祈りを捧げるのだと言う。


「ここ数年、祭りや行事の際に霊玉を拝見した事はなかったと思うが」

「管理を怠っているのだろう。おそらく、竜神様の存在を彼らは信じていない。あの社もさほど重要だと考えていないのだ」


 天功は項垂れながら告げる。


「民の信仰が厚かった頃、美しい水が豊富に湧き出ていたものだが、今では枯れ井戸ばかりになってしまった。このままではどうなる事か……きっとお怒りになっているに違いない」


 唇をきつく引き結び言う。


「住民の多くは貴方の復帰を望んでいる。叶う事なら貴方が治める町が良いと」

「それは……嬉しい事だ」


 天功は苦しそうに口元に笑みを作った。


「す、すみません……困らせるつもりはなくて」


 それを見て椋はバツの悪そうな顔をする。

 椋の言葉に天功は首を横に振った。


 彼はこんな場所で人知れず後悔の念に苛まれているのだと思うと目頭がじんわりと熱くなる。


 蒼子は天功の元に寄り、膝の上で固く握られた拳に触れる。


 微かに震えるその手は冷たい。


「っすん」


 鼻の先がツンとしたかと思うとぼろぼろと温かい雫が零れる。


 重なった手から悲しさも悔しさも苦しさも長年溜め込んでいた感情が伝わってくるよな気がした胸が押し潰されるようだった。


 涙を流す蒼子の頭を天功は優しく撫でてくれる。


「泣く事はないのだよ」


 その温かい声に蒼子は更に苦しくなる。


 このままで良いはずがない。


 椋を始め、多くの住民が彼の地主復帰を望んでいるに違いないのだから。


 蒼子は袖で涙を拭う。


 私は水の神女だ。


 私にも出来る事があるはずだ。

 その為にも早急に仲間と合流しなくてはならない。

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