第7話 やはりそれは寝顔でした。

 『不愛想な僕にだけ甘える不愛想な彼女 3巻』を全体の半分ほど読み終えた。一度文庫本を閉じ、テーブルの上のカップに手を伸ばす。


 ちらっと、遠くの客席のほうへ視線を移した。


 雨籐あまとうさんがテーブルに突っ伏してぐったりとしている。顔面は垣間見えない。テーブルの上面と向かい合う形で伏せられているのだ。最前列なのに国語の授業でほぼ毎回微睡まどろんでいるパソコン部長の姿を思い出す。


 ……自由か。勤務中にアルバイト店員が眠っていて、おとがめなしなんて日本ではあり得ない。だからといってアメリカであれば許されるのかというと、それは知らないしむしろ成果主義の国であれば即刻クビにされそうだけれど。


 ただ、絶対に寝ているとは言い切れない。ひょっとして体調がすぐれないのではないか、そう思ったとき僕はすっと席を立った。


「ニガさん。彼女、大丈夫ですかね?」


 読書の休憩がてら、カウンターまで近づいてマスターに話しかける。


 國賀くにがみなとさんだからニガさんだ。渋めの顔と高身長のせいで最初に話しかけたときは緊張したけれど、今ではニックネームで呼ぶことも造作ぞうさない。


「ああ、眠ってるんじゃないかな。昨日寝てないらしいから」


「へー。給料泥棒に成り果ててますけど」


「いーの、いーの。紗月さつきちゃんの可愛さに惹かれてリピーターになってくれる人は多いから。彼女の愛嬌は天性の才能だよねー」


「ははっ」


 乾いた笑いが漏れてしまった。彼女に惹かれたリピーターです、はい。


「けど、ここからじゃほんとに寝てるかどうかはわかんないね。具合が悪いのかもしれないし」


「そうですよね」


 マスターは口を閉ざして、僕の顔をじっと見つめている。沈黙が訪れた。妙な間が気持ち悪くて、思わず苦笑する。


「な、なんですか?」


「ちょっと近くにいって様子を見てきてくれる? 俺、ちょっと今、手離せなくて」


「両手ガラ空きじゃないですか!」


 勢いよく切り返してみたものの、カウンターの奥にいるマスターよりも客席側にいる僕のほうが都合がいいだろう。特に躊躇ためらうこともなくすぐさま、きびすを返した。雨籐さんのことが心配過ぎるということは断じてない……いや、本当にない、ない。


「あまとーさん」


 彼女の耳元へ顔を近づけて問いかけた。けれど、反応がない。音量を上げてもう一度言った。ピクリともしない。


 それにしても、心地の良い芳香だ。鼻のすぐ先に雨籐さんの肌がある。僕の吐く息がその表面を撫でていると思うと途端に後ろめたさが押し寄せてきた。咄嗟に顔を後ろへ引く。


「おーい」


 言いながら彼女の肩をゆすった。小さくて温かい肩だ。


「んんんー。すー」


 ようやく顔が横へ向いた。


 けれど、意識はここにあらずという雰囲気だ。目はつぶられていて鼻から微かに空気の抜ける音がする。


 どうやら寝ているらしい。具合が悪いわけではなさそうで、少しホッとした。


 寝顔というのは真に自然な表情といえるだろう。見慣れている雨籐さんの表情は口角の上がった好感度高めな笑顔だけれど、今は違っている。


 大人しそうで大人びていた。


「ダタロー……次はあそこのお店いこー」


 寝言だ。何だろう、得も言われぬ可愛さがある。


 それも、一時間ほど前にちょうど話していた例の罰ゲームが関係しているように思えてならない。


 『お買い物したいから、荷物持ちをお願いしまっす!』


 僕はそのとき、面倒なような嬉しいような、複雑な気持ちになったのだ。

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