第2話 彼女の名前を憶えました。

「あ、いらっしゃいませー」


「ども」


「今日はちょっと遅いね。道端に落ちてたラノベでも読んでたの?」


「何ですか、その夢のようなシチュエーションは」


 彼女は元気溌剌はつらつとした声音で冗談交じりに言った。


 女子大生風の女子高生で、カフェ店員。近くの難関定時制高校に通っているらしい。同い年だと知ったときは驚いた。漏れそうなほどではなかったけれど。僕とは比べ物にならないほど頭脳明晰のようだ。名前はまだ知らない。


 初めて来店した日から二か月が経過し、僕はすっかり『アブ・ノーマル』の常連になっていた。


「いつものでいいですか?」


「はい。おねがいします」


「かしこまりー」


 ……顔見知りとはいっても、そのラフさは目に余るものがあるなあ。ラフはあかん、絶対あかんねや、と親父が熱く語っていたのをふと思い出した。


「春を先取り! カメムシいろのスム―ー・羽化しそうな卵を添えて、でお間違いないですね?」


「ちょちょちょ、待ったタンマ。何それ、めちゃくちゃ怖いんですけど」


 慌ててまくし立てると、彼女はへへっと笑った。目じりは下がり、口元は柔らかく綻んでいる。お道化どけた表情がいやに可愛らしい。だからこそ、たちが悪い。


「冗談です! いつものカフェオレ、お持ちしますよー」


「は、はあ」


 彼女はそう言って背を向け、カウンターのほうへ向かった。揺れる艶めいた黒髪と揺れない細身な体が、ある種完成された女優のようでたいそう綺麗だ。


 鞄からライトノベルを取り出した。『捨てた女子高生を妹が拾ってきたんだけど 12巻』だ。この一冊によってこれまで緻密ちみつつづられてきた物語に終止符が打たれる。楽しんで読んでいただけに、少しだけ瀬無せない。


「はい、お待たせしましたー」


「どうもー」


 彼女は真っ白なカップを色白な手でテーブルへ置いた。半透明な湯気に乗って香ばしい匂いが漂ってくる。


「お、最終巻だ。私、読んだよー」


「はやいっすね!? 昨日発売っすよ!?」


 驚きのあまり思わずなんちゃってヤンキー中学生のような口調になってしまった。


「ネタばれしよっかな。えっとね、たしか」


「やめてください。呪いますよ」


「えー。呪いはやだから、やめとこっかな」


 彼女は少しだけ唇を尖らしている。桃色に艶めいていて、自然的というよりかは人工的な美しさだ。


 なんだろう……めちゃくちゃ見られている。


 横目でしか確認できないけれど、赤ちゃんもすぐに泣きだしてしまいそうなほどの凝視だ。ひょっとすると僕ではなく開かれた文庫本の中を見ているのかもしれない。それでも、異様な圧をひしひしと感じた。


「というかさ」


「へ?」


「敬語じゃなくて、ため口でいいよ。同い年じゃん」


「へ? ああ」


 確かに、と納得した。何となく敬語を使い続けてきたけれど、本人がため口でいいというのならそうすべきなのだろう。


「そうですね」


「盛大に矛盾してるよ!」


「冗談冗談」


 なぜか不意に笑みがこぼれてしまった。このラフさは妙に心地いい。親父はラフのことを嫌っていたけれど、僕は少し違うみたいだ。


 いけるかもしれない、とふと思った。


「そういえば、名前。まだ知らないな」


「ああ、ほんとだね」


 彼女はそう言って、顔の横に垂れていた髪を耳へかけた。両手でトレイを持ち、お腹の下あたりで抱くようにして立っている。


「私、雨籐あまとう紗月さつきです!」


「あまう?」


「あとう!」


「んー、甘党?」


「甘党ではあるよー。だけどあ、! と、う!」


 にもかくにも簡単だった。名乗らせておいて名乗らないのは失礼極まりないだろう。


「あ、山田太郎って言います。今、まじかよって顔したね、一生忘れないから、その顔」


「わーセクハラだー」


 雨籐さんの細められた目は全く甘そうに見えなかった。

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