第1話

 『月曜日は重たい日』というロシアの諺があることを知った。

 どこの国でも月曜日は憂鬱になるということだろうなと、小野寺ひじりは朝の光の中、うつろな目をして考えていた。

 五月二十七日、月曜日――。

 春の風がぬくもりを届けて、スカートの裾を揺らした。


 紺色の中学校の制服は、ひじりにとって囚人服のようなものだ。地味なセーラー服は可愛くないし、堅苦しい。

 これを着込むと、自分の人格がカチカチに固められて、枠の中から飛び出ることを許してくれなくなる。

 通学路を歩いていても、通り過ぎた見知らぬ人が一目見て、滝音中学の生徒だと分かるだろう。それが、ひじりは嫌でしょうがなかった。


 右手に下げた鞄はとても軽い。

 それもそのはずで、鞄の中身は紙切れが一枚だけしか入っていない。

 遺書だ。

 ひじりはこれから自殺をする。中学一年生、まだ十三歳の誕生日も来ていないけれど、ひじりは今日で人生をおしまいにしようと決めていた。


 自分を殺すと書いて、自殺。

 そうだとしたら、ひじりはとっくに自殺していた。

 中学校に上がってから一か月ちょっと。そのほんの一か月で、ひじりは自分を殺して生活していくことになった。


 原因は声だった。

 国語の授業中、先生に指名され、教科書の一文を音読することになった。

 ひじりは、教科書に書いてあるままを、特に何の思い入れもなくそのまま読み上げた。


 ――クスっ。


 教室の誰かが笑った。

 多分、女の子だったと思うのだが、誰の笑い声か分からなかった。

 先生がひじりの音読に「よし」と言って国語の授業の解説が続いて、その授業はそのまま滞りなく終わった。

 それからまた、暫くしてから英語の授業中に、それはもう一度起こった。


 英文を読む時、また誰かがクスクスと笑ったのが聞こえた。

 一人ではなく、数名だった。


 なんだろう、とひじりは少し奇妙に感じていたのだが、何か読み間違いをしたとか変なイントネーションや訛りがあったとか、そういうものでもない。


 数日して、その原因は発覚した。

 クラスの特定のグループが、休み時間の間笑っていたのが聞こえたのだ。


「小野寺さん、笑える」

「ほんと、変な声しているよね」

「私、あの子がしゃべるだけで顔面ヤバい!」


 ひじりはその日から、ゆっくりと自分を殺すことになった。

 声が出せなくなり、しゃべりかけられても、小さな声で、短くしか相槌を打てなくなったのだ。

 声が変だと言われて、自分で独り、声を録音して聞いてみたりしたが、慣れ親しんだ自分の声がおかしいとは思わなかった。

 しかし、クラスの中で『小野寺ひじりの声が、笑える』という話題に溢れかえるようになり、クラスメートがひじりにニヤニヤしながら話しかけたり、授業中、教師にひじりの音読が訊きたいですと申告してみたりと日に日に状況は酷くなっていった。


 そして、行為はエスカレートしていった。

 ひじりになら、何をしてもいいような空気が出来上がって、『虐め』と呼ばれる状態になるまで時間はそこまで掛からなかった。


「小野寺さん、歌ってよ」


 昼休み、女子に囲まれ、ひじりはそう言われた。

 嫌だと言いたかったが、逃げ場を遮るようにひじりは複数のクラスメートに囲まれた。

 教壇の前に立ち、一人でカラオケしろと言われたのだ。


 ひじりは、怖くなった。

 このクラスは、悪魔が乗っ取っているのではないかとすら考え、クラスメート全員が不気味な生き物に見えて来た。

 教壇の前に立たされ、マイクの代わりにと筆箱を握らされた。

 周囲はみんな、ニヤニヤと笑ってこちらを見ていた。


「早く歌えよ」

 ぞっとするような声で、誰かが脅した。

 ひじりは、その時、呼吸の仕方が不意に分からなくなって、ヒクヒクと痙攣し始めた。汗が信じられないくらい噴き出てきて、苦しくて立っていられなくなった。

 過呼吸に陥り、青ざめて「ひゅうひゅう」と喉から空気を吐き出すその声さえ、周囲から笑われた。


 本当に死ぬと思って、助けを求めても、周りはゲタゲタと嗤うばかりで手を差し伸べてくれないのだ。

 教室中が大騒ぎになっていて、教師がやってきた。苦しんでいるひじりを見付けて、担任が保健室に連れて行って、ベッドで休まされたが、ひじりはもう意識が保てず、その日は親が迎えに来て帰宅することになった。


 大騒ぎになったことで、ひじりは親に病院に連れていかれ、治療されたものの、その原因は追究されないままだった。

 それがひじりには信じられなかった。


 あれだけ大騒ぎになって、教師も現場を見ていたのに、クラスの状況はその後も変わらなかった。

 親からは何かあったのかと訊ねられたが、ひじりは何も言えなかった。


 虐められていると伝えるのが、なんだかとても怖かったのだ。

 その原因が、自分の声にあるなんて、親に言いたくなかった。なぜだか明確な理由は出てこなかった。

 声は生まれながらのものだし、声が変だなんて、どうしようもないことだ。

 それに、ひじりは自分の声を『変』だとは思っていない。小さなころに、お母さんから『可愛いね』と言われた声だ。決しておかしな声はしてない。


 ひじりは自分の声が『変』だなんて認めたくなかったから、虐めのことも、親には言い出せなくなった。

 家では虐められているなんて言わなくても、あの酷い状況を担任が知ったのだから、学校のほうできちんとしてくれるはずだと思っていた。


 ひじりは倒れてから一週間、学校を休んだ。

 そして、『月曜日』、ひじりは学校へ行った。殺されに行くような恐怖を抱えながら、それでもひじりは、クラスがきちんと変わっていることを願っていた。


 しかし、何一つ状況は変わっていなかったのだ。

 一週間ぶりに来たひじりに、また『悪魔』たちが迫ってきて、嘲笑う。

 教師も何事もなかったように授業が続けられ、そして、国語の授業中、教師がこう言った。


「では、ここの文を誰かに読んでもらおう」


 断頭台に上らされるような恐怖が、その瞬間にひじりに襲い掛かった。

 指名されたらどうしよう。誰かが私を推薦したらどうしよう――。

 そう考えると、あの「クス」という小さな笑い声が、ニヤニヤ笑うクラスメートの口の端が脳裏に浮かんでくるのだ。


 気が付くと、ひじりはカタカタと震えあがっていた。

 春だというのに、吹雪の中にほおり出され、呼吸さえできないような強風の中にいるみたいだった。

 もう、ダメだと感じて、ひじりは自分から手を上げた。


「先生、体調が優れないので帰ります」


 それだけを言うのが精いっぱいだった。

 それが自分が発する最後の声であればいいとすら思いながら、ひじりは吐きそうになるのを堪え、教室から逃げ出した。


 そして、翌日からひじりは学校を休み始めた。

 親も最初は休みたいというひじりに対して、素直に頷いてくれていたが、それが一週間丸々続いては、ひじりの状況に疑問を持ち始めた。

 だから、ひじりは、嫌でも月曜日は学校に行く必要が出て来た。

 親に、学校で虐められていると気取られたくなくて、ひじりは月曜に学校へといくしかなくなったのだ。

 しかし、その足は重かった。学校へと向かう途中、何度も引き返したくなったし、通学路の途中で同じ学校の生徒を見るだけで恐ろしくなってきた。

 どうにか学校についても、教室にはいけなかった。トイレに逃げ込み、じっとしていて、動けなくなった。


 体が学校に行くことを拒否しているみたいだった。ここに居ると殺されてしまう。

 制服を着ると、声を出せなくなる。

 息が出来ずに、死んでしまう――。


 結局、ひじりはその日、授業に一度も参加せず、学校から離れ、中学校の授業が終わる時刻まで街の中を点々と隠れるように移動してやり過ごした。

 夕方になって帰宅すると、母親に捕まった。


 ひじりが学校に来てない連絡があって、母親は慌てて探し回っていたという。あと一歩で警察に連絡するところだったとも言った。

 そして、なぜ学校に行かなかったのかを問い詰められた。


「行きたくないから」


 としか言えなかった。

 虐められていること、声のこと、それはやっぱり言えなかった。

 それを口にしてしまえば、なんだか負けたように思うのだ。自分の声が『変な声』だと認めることのような気分だった。

 母親は心配そうな顔をして、父親もその日は直ぐに帰って来た。

 すぐに家族会議が行われ、ひじりは居間で両親を前に黙りこくるしかなかった。


「どうして学校に行きたくないんだ」

「……」

「虐められてるのか?」

「ちがう」


 違う、と言ってしまった。

 なぜ、嘘を吐いてまで頑なになるのか、自分でももう分からない。

 でも、そう言った途端、どっと涙が溢れかえって来た。そして、そんな自分を見て、両親はもう何も言わなくなった。


 どうして自分がこんな理不尽な目に遭わなくてはならないのだろう。


 ――悔しい、悲しい。嘘まで吐いてしまって、何もかもが嫌になっていく。


 結局、それからひじりは登校拒否をすることになった。

 両親はその原因を探るために、学校側に何度も連絡をしているようだった。担任の教師にも一度顔を出せと、電話をする大きな声が、二階の自室に引きこもっているひじりにも届いた。


 それから、担任が家に来ることになったらしい。

 夜も遅い時刻だった。

 担任の教師は三十代の男性で、少し太っている。あまりいい先生という印象を持っていなかったひじりは、その日、担任には会いたくなくて、ずっと二階の自室で膝を抱えていた。

 会話の内容さえ耳にしたくなくて、布団をかぶって耳を塞いでいた。


 これで両親に虐められていることがバレるだろう。声が原因なことも分かるだろう。

 そうしたら、両親は悲しむだろうか。変な声に産んでしまったことを悲しむのだろうか。それはなんだか嫌だったし、やっぱり自分の声が変だなんて考えたくもなかった。

 耳を塞いでも、父親の怒号が時折耳に響く。担任は平謝りをしているみたいだった。

 ひたすら、父親が怒鳴り続けていて、母親はどんな顔をしているのだろうと、申し訳ない気持ちばかりが生まれていく。


 何も悪いことはしてないのに。

 親に嫌な思いをさせてしまっている。

 なんで、どうして。

 そんな単語がずっと頭の中に回り続けて、答えなんて出ないのに、『なんで』を繰り返すのだ。


 随分して、母親が自室のドアをノックして入って来た。


「ひじり、先生が話したいって言ってるけど」

「…………」


 どうしていいのか分からない。先生と今、何を話せばいいのだろう。両親とはどこまで話をしたのだろう。

 会いたいという気持ちはまるでなかったが、会わなくてはならないのだろうなという感じがして、ひじりは担任が玄関で待っているところへ顔を出した。


「元気かな、小野寺さん」

「……」


 つぎはぎのような表情を浮かべた担任が、はれ物にさわるような声で、尋ねてきた。

 教室では一度も聞いたことのない口調と声で、別人のようだった。


「学校、行きたくない理由を、教えてもらえないかな」


 担任は困った様な顔をしてそう言った。

 ひじりは信じられないと、眼を剥いた。知らないのか、と怒鳴りつけたくなった。

 あの現場を見ていただろう。アレを見て、何も思う所がなかったのか。『担任』のくせに。『教師』のくせに。偉そうに物事を生徒に教えている人間の癖に。


 ひじりはその時、明確に担任に対して嫌悪感と、怒りが吹き出て来た。

 そして、一切の無言を貫いた。『声』が原因である以上、言葉を発することさえ、この担任にしたくなくなったのだ。


「言いたくないか。明日、学校でクラスのみんなにも聞いてみるから、少し時間をくれないかな」

「……」

「……ごめんな。ダメな教師で」


 申し訳なさそうにそう締めくくり、両親に深くお辞儀すると、担任は家から出て行った。

 ひじりは、これほどまでに目上の人に対して怒りを覚えたのは生まれて初めてだった。この教師では絶対にダメだと、思わざるを得なかった。

 あの学校は、もう悪魔に占領された地獄でしかないのだ。あの担任も悪魔だ。悪魔の言葉は嘘ばかりだ。


「ひじり、何か言いたくなったら、いつでもいいなさい」


 父親は勤めて優しい口調でそう言ってくれた。

 その時は、ひじりは父親のことをとても頼もしく思った。そして同時に、とても苦しい罪の意識を感じても居た。

 母親がぎゅっと抱きしめてくれたこともまた、ズキズキする胸の痛みを増幅させるみたいだった。


 優しさが、苦しみを与えることを、ひじりは生まれて初めて感じていた。

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