とぉの夜
小さな提灯に自分の指から出した青い光を入れる。灯火からはとても甘い香りがして、異界を流れる風の中へと溶けていく。
《こんなにたくさんお屋敷があると、何処から探したらいいのやら》
《目星はついているよ。異界とこの世を渡れるぐらい強い力の持ち主はそういないもの。あのお屋敷から、そんな力を感じる》
アオイが指さす先に見えるのは、この一帯で一番大きなお屋敷だ。すると、屋敷を見上げていたアオイとシラタマに声をかけてくるものがいた。
《君たち、クチナワ姫様に何か御用でもあるのかい?》
声の主は中空に泳ぐように漂う魚の形をした怪異。それはアオイの姿を見ると、やや!と驚いたように声をあげた。
《フヨウ!フヨウじゃないか!君、懲罰はとけたのかい?》
《え、フヨウ?懲罰?……なんのこと?》
人もしくは怪異違いでは?とアオイが首を傾げると、その魚はん~?とアオイの顔をジロジロと見つめながら呆れた顔をした。
《おいおい、茶化すのもいい加減にしろよな。この白雲ヶ淵に人間は一人しかいないんだし、同じ顔の奴がいるわけがないだろう?》
あれ?でもお前、そんな小さかったか?昔連れてこられたフヨウみたいだが、見かけたこともないし、よそ者か?魚は不思議そうな口調で唸りながら言う。一方、その話を聞いたアオイは一種予感めいたものを感じて、ハッと目を見開いた。
《ボクと全く同じ顔の子に会ったことあるの!?ボク、その子に会いたくてここに来たんだ。どこにいるの?会わせてもらえる?》
《いや、会わせろって言われても。フヨウは姫様の小姓だぜ?簡単に会えるわけないだろ?なによりお前ら怪しいしな》
魚がそう言うので、今度はシラタマが口を開いた。
《この子はフヨウの生き別れなのさ。そこまで言わなきゃわからないの、なんて野暮なんだよ》
やれやれと言わんばかりに肩をすくめるようにして言うと、魚はなんと!と驚いたように口にしながらも、うむぅ、と再び唸った。当然だ、我ながら怪しさは爆発している。これで無理なら強行突破だ。
《……でも、そうだな。よし、案内してやろう。フヨウも今生の別れの前に生き別れた片割れと会えることは本望だろう》
《え?今生の別れって……?》
そういえばさっきこの魚がフヨウの懲罰はとけたのか、と聞いてきたことを思い出す。ということは、もしそのフヨウという存在が自分たちの探している〟アオイ〝ならば、彼は一体何をしてしまったのだろうか。考えていたら、おしゃべりなこの魚が道案内をしながら話してくれた。
《フヨウも可哀想だよな……。あいつ小さい時分にこっちの世界に連れてこられたらしいんだ。姫が一目惚れしたってのもあるらしいけど、何よりも人間の世界に嫌気がさしたあいつが、こんな世界から消えてなくなりたい、って思いが、あっちの世とこっちの世をつないだんだと…》
その世界から連れ出してくれた姫は恩人なのに、だ。あいつはあろうことか姫に斬りかかったんだ。とんだ恩知らずだよな。
そんな魚の言葉にシラタマが驚き息をのむ気配が伝わってくる。ちょうど、魚が人の世と怪異の世をつないだのが〟アオイ〝の思いだ、と言われた時であった。
きっとシラタマは知らなかったのだろう。彼の心の奥底に眠る消失願望を。シラタマの語りではクチナワ姫とおぼしき掛軸の声をあたかも悪のように語っていたから。しかし、この魚からはまた異なる真実が語られる。百物語で語られた話、シラタマから語られた話、魚から語られた話、果たしてどれが真実であるのか、アオイにはもうわからなくなってきていた。
同時に、今の自分の行動がシラタマも〟アオイ〝も、二人を救うものとなるのかどうかすら怪しくなってきた。〟アオイ〝が人の世から心底消え去りたい、という願望でこちらへ来たのなら、彼を連れて帰ることは彼を救うことにはならないだろう。
だが、アオイは夢で聞いたあの声が忘れられなかった。助けて、寂しい……。あの声が〟アオイ〝の本心ならば、消失願望よりももっと強い意思があるはずだ。
――見極めなきゃ。
《フヨウは、人の世に帰りたがっていたのか?》
魚に訊ねてみる。核心を得るためにだ。すると、魚は、ああ、頷いた。
《こっちに来たばっかりの時は、向こうに置いてきたものがたくさんあるから帰りたい、とは言ってたな。姫が止めていたから最近は言わないみたいだけど》
《なんで止めたんだろう?》
《さあな。姫はフヨウを甘やかしていた。手離したくなかったんじゃないのか?》
そうか、帰りたい、という意思はあったのか。だが、それはこっちに来たばかりの頃だという。今はどうなのだろう。すると、その思考を遮るように、嘘だ、と魚のシラタマが言った。
《だって、あの子は消えたいなんて、そんなこと一言も……》
《俺だってフヨウから直接聞いたわけじゃないから、正確にはわからないって。でも、多かれ少なかれ、そういう気持ちがあったから、道がつながったってことは間違いないだろうな》
そんな、とシラタマはうなだれた。
《大丈夫だよ、シラタマ。彼はきっと帰ってくる》
アオイはそう言った。
どれが真実かは彼にもわからない。しかし、彼は最後に夢の中で何度も聞いてきた〟アオイ〝の声を信じることにした。
《ボクは夢の中であの子の声を聞いた。だから、彼はきっと……》
《そういえば、お前ら》
アオイが何か言いかけたところで魚が食いついてくる。アオイは首を傾げると、魚は再びううむ、と唸りながらこちらを見てきた。
《やっぱり、さっきから違和感あったんだが、お前ら怪異だよな?フヨウは浮世離れしてるとはいえ、ただの人間だ。怪異と人間の家族なんて聞いたことないぞ?》
お屋敷は目と鼻の先、このまますんなりと潜入してフヨウに接触できれば、彼が〟アオイ〝だという確証は得られるというのに……。
《え?えっと、あれだよ、義兄弟ってやつだよ》
シラタマがなんとかごまかそうとする。が、一度かかった疑いはなかなか簡単には晴れなかった。
《怪しいなぁ、おい、お前ら本当は何ものなんだ?本当にフヨウの縁者なのか?》
《そうだよ、言ってるじゃないか》
《どうにも怪しい!おい!正体現せ!何が狙いだ、姫様の命か?》
魚が詰め寄ってくる。もう完全に疑われたようだ。こんなに明確な敵意を向けられては、お屋敷に入れてもらえるはずもない。しかしだ、この魚の話によれば、フヨウは懲罰対象であるらしい、早く助けなければどうなるかもわからない。
致し方ない、ここは……。
《魚さん、ごめんなさい!》
言うや否や、アオイは提灯の青い火を魚に向かって投げつけた。ギャッと声が上がったのと同時に、彼らはものすごい速さで駆け出した。目指すは目の前に見えているお屋敷、クチナワ姫に捕らわれたフヨウこと〟アオイ〝の気配はそこからする。
《誰か!そいつらを止めてくれ!》
魚の思念が方々に飛ぶ。あまりに大きな思念であったため、恐らくクチナワ姫にも聞こえてしまったろう。だが、向こうがこちらの正体に気がついていないうちが勝負。彼らは怯むことなく、お屋敷の前にかかる橋へと一目散に駆けていった。
橋には屋敷を守るためか大きな門が建っていた。ここをくぐれば屋敷はもう目の前だ。しかし、先ほどの魚の思念のせいで警戒度が増したのだろう。門が重々しい音を立てて閉まり始めた。
《まずい、閉まるよアオイ!》
《大丈夫、急ぐよ》
アオイはそこで自分の体を光の玉の形にして、シラタマと共にほんのわずかな隙間をなんとかすり抜ける。同時にがたんと音がして門が完全に閉ざされる。あの魚はどうやら間に合わなかったらしく、もう追ってはこなかった。とはいえ油断はできない。なにしろここは、いわば敵地である。きっとたくさんの見張りやクチナワ姫の護衛たちがいるに違いない。
アオイは人型に戻ると、シラタマを肩に乗せ、ひとまず門の陰に身を隠した。
《惑わしの術を使う。思念も何も飛ばさないでね、シラタマ》
シラタマが頷くのを確認して、アオイは先ほどもそうしたように小指を立てて口元に運んだ。術が発動したのを受けてアオイがシラタマに手で合図を送る。彼らはお互いに頷きあってから屋敷の中へと足を踏み入れたのだった。
屋敷内は大騒ぎになっていた。あの魚の思念を受け取りはしたものの、中にはまだ詳しい情報が上がってきていないのか、侵入者へ対応しきれていない様子だった。しめた、とアオイとシラタマは〟アオイ〝の気配を探ってみた。
この白雲ヶ淵に人間は一人しかいない。その言葉を頼りに屋敷内を探ってみると、はたして一つ異質な気配が奥の方から感じられた。怪異の気配ではない、動物のものとも違う、それはすなわち人間だ。
どうやらシラタマも同じ気配に行き着いたらしい。彼らはまた目で会話をしてからすぐに長い廊下を気配のする方へ駆け出した。さすがに大気まで術は及ばないので、彼らが駆け抜けた後は不自然に風が吹く。が、混乱する屋敷内でそれを気にかけるものはいなかった。むしろこういう時ほど気にかけてしかるべきだというのに。しかし、彼らには好都合、まさに渡りに舟だった。
突き当りを曲がると、廊下は板から畳のそれへと様相を変える。横に見える襖の絵も心なしか豪華なものであるように思えた。主の部屋は大体屋敷の最奥だ。道は間違っていない、そう確信めいたものを感じつつ彼らは駆ける。
瞬間、ふいに背後から誰かが来る気配を感じた。アオイが肩越しに振り返ると、そこには剣と槍で武装した馬の頭を持つ怪異が二匹と、目隠しと口にさるぐつわをはめられた人型の影が一つこちらに向かってきていた。その内の一匹がふとアオイのいる方向を見たので、彼は思わずピタリと動きを止めた。
「どうした?」
「いや、なんだか気配を感じたような気がしたんだが」
「なんと、侵入者もいると言うし警戒せねばなるまい」
そう口々に言い合いながら馬頭は再び歩き出した。しかし、侵入者がいるというのに、さしてあわてている様子もない。否、侵入者よりもあのさるぐつわの影を何処かに連れていくことの方に神経を使っているのかもしれない。
アオイとシラタマは少し様子を見ることにした。
「しかし、なんと頃合いの悪いことか。こいつの懲罰をこれから下そうという時に。なんともできすぎているとは思わないか?まさか、こいつを!?」
「いや、侵入者はどうやら怪異らしい。怪異がこいつを救って何になるというのだ?」
影の手に掛けられた紐を馬頭が引っ張りながら言う。
「彼にゆかりのある人物が取り戻しにきたというのか?馬鹿言え、人の世とこちらの世とを渡ることは、ただものにはできまいぞ」
「そうだな、とにかく我らはこいつを姫様の所に急ぎ連れていかねば」
馬頭の前で影は抵抗もせずに立っていた。ある種の予感がアオイの脳裏をよぎった時、何のいたずらだろうか、影の視界を遮っていた目隠しがはらりととれた。その下からあらわになったのは、大人のそれではあるが、どこか色香を漂わせる見慣れた顔つき。
《ア、〟アオイ〝!》
シラタマが思わず叫び術が砕けてしまう。突然現れたアオイとシラタマの姿を見た二匹と一人は驚き目を見開いた。
「な!?フヨウが、二人!?」
「いや、こいつから怪異の気配がする。すなわち、こいつらが侵入者に相違ない!」
二匹が武器を構える。その目の前ではシラタマも全身の毛を逆立てて唸った。
《〟アオイ〝を離せ!》
今にも飛びかからんばかりのシラタマの姿を見て、フヨウこと〟アオイ〝は何かに気がついたように息をのむと、何か言いたげに首を左右に振っていた。
一方、もう一人のアオイは提灯を先端につけた棒を両手に持ち直しながら、〟アオイ〝を見て唇に指を立てた。
「今、助けるからね」
発せられた人間の言葉に〟アオイ〝はますます驚いた表情をする。君は一体誰だ、と言いたげな視線を受けながら、アオイは馬頭に訊ねる。
「その人に何をするつもり?」
「貴様に教える筋合いはない!」
「そう。……でも、そうやって拘束してるってことはいいことではなさそうだ。離してもらおう」
言うや否や、アオイとシラタマが同時に二匹相手に飛びかかった。馬頭は槍を振りかざしてアオイの提灯の棒を受け止めると、彼の小柄な体を後方へと吹っ飛ばした。しかし、アオイは中空にとどまって勢いを殺し、天井を蹴って加速しながら長い棒を振りぬいた。馬頭がかわしたことは言うまでもない。しかし、アオイの攻撃はそれに止まらない。彼は片手に青白い火を灯すと、指先にそれを集中させてから横一文字に宙を払う。飛び出した火の玉が馬頭にいくつか命中したので、彼はその隙に足払いをかけて、怯んだその一瞬を見逃さず、頭上から一発棒を叩きこんだ。
「貴様ァ!」
《お前の相手はボクだ!》
シラタマが言いつつ尾の先にやはり青白い火を灯して飛びかかる。もう一匹の馬頭が剣をふるうが、シラタマは身軽な動きでそれをかわして刃の上に飛び乗る。その尾で馬頭の顔面をはたくが、あまり衝撃はなかったようで、怯まず剣を振る馬頭の攻撃をアオイが受け止めた。
《シラタマは〟アオイ〝を》
《ありがとう!任せて!》
シラタマは馬頭二匹の拘束がとけた〟アオイ〝に近づくと、さるぐつわを尾の火で焼き切ってやる。〟アオイ〝は苦しげに咳き込みながらもシラタマを泣きそうな目で見た。
「シラタマ、シラタマだよね……。本当に助けに来てくれたんだ……」
《〟アオイ〝会いたかった》
シラタマをギュッと抱き締める〟アオイ〝。大人びた美しい青年の姿になっても、彼はあの日から何も変わっていなかった。シラタマの目も揺れている。彼の言葉は〟アオイ〝には伝わらないが、〟アオイ〝は彼の言葉をまるで理解しているかのように頷きながら、会いたかった、ありがとう、と何度も何度も言った。
馬頭の鳩尾に棒を叩きこんで沈黙させたアオイはそこですかさず二人に駆け寄ってきた。
「無事かい?」
「ありがとう、でも君は一体誰なんだ?その顔はまるで……」
彼の言葉にアオイは微かに笑いながら言った。
「ボクはアオイ。君の思念と記憶から生まれた〟青螢〝だ」
さあ、のんびりはしていられない。早くここから逃げなくちゃ。アオイがそう言うと、〟アオイ〝が待ってと声をあげた。
「ごめん、僕にはまだやることがあるんだ。君たちとは行けない」
《え…?》
シラタマが固まる。どうして、と言いたげな目を見てアオイがその気持ちを代弁する。
「何をするの?」
「クチナワ姫様に、僕がした無礼を謝る。それから、名前を返してもらわなきゃ」
そうだ、〟アオイ〝はこちらではフヨウと呼ばれていた。それはすなわち、名前を誰かに預けているということ。その相手はクチナワ姫だ。名前を預けたままでは、彼はずっとクチナワ姫に縛られて自由を奪われる。人の世に帰るのなら、返してもらわなくてはならないものだ。
「助けに来てくれたことは嬉しい。でも…」
《嫌だ!〟アオイ〝が一緒でなきゃ!ボクは、ボクは…》
泣くシラタマと悲しそうな〟アオイ〝を見て、この場合の最適解は一体何だろう、とアオイは考えた。やはり彼は帰りたくないのだろうか、本当はどうしたいのかを知らなければならないと。
「君はクチナワ姫をどう思っているの?」
アオイはそう〟アオイ〝に訊ねた。彼はシラタマのことを撫でながらポツポツとこう語った。
「……姫様は確かに僕のことをさらった。でもそれは僕の望みでもあったし、姫様は口では脅してきてもひどいことは何もしなかった。彼女はとても優しい方なんだ。 それなのに、僕の不注意で姫様には大きな怪我をさせてしまった。だからちゃんと謝らなきゃ。それから君たちのことを話すよ」
「じゃあ、人の世に帰りたくない、ということ?」
「帰りたいよ。でも、何も言わずに消えたら、同じことの繰り返しになる。だから、ちゃんと話さなきゃ」
なるほど、帰る前にやりたいことがあるということだ。帰りたくない、ということでないのがわかっただけで十分だ。
「じゃあ、ボクらもついていく。君がちゃんと人の世に帰ることができるように、協力するよ」
シラタマもそれでいいでしょう?と聞くと、彼も頷いていたので、じゃあ決まり、と言う。その目の前で〟アオイ〝は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「どうして君はそこまでしてくれるの?」
アオイは微笑みながら言った。
「君から、名前と〟形〝をもらったからだよ」
「それだけで……」
「ううん、君に、助けて、とも言われたから」
「……ありがとう、君はとても優しいんだね」
〟アオイ〝もそう言って笑ってくれた。花が咲くように暖かい笑顔だった。
そうして二人と一匹は共にクチナワ姫がいるという奥の間へと向かっていった。
「そろそろ、来ると思っていたわ」
そう声がして目の前の襖が勝手に開く。そこには白い肌の美しい妙齢の女性が座していた。シラタマは彼女が恐ろしいようで二人の後ろに隠れるが、〟アオイ〝は彼女の前へと座し、静かに頭を下げた。
「この度は申し訳ありませんでした」
「ふん、そなたの無礼は今に始まったことではない。安心いたせ、怒ってはおらぬ」
「いえ、僕は安心できません。だって、姫様はそのせいで今も立ち上がれないんですから……」
彼女は長い一重の着物を纏っていたので、足を直視することはかなわなかったが、確かに少し不自然な座り方をしているように思えた。アオイがその一点をじっと見ているのに姫は気がついたらしく、クスリと美しく笑った。
「気になるのか、青螢よ。なに、フヨウが剣舞の最中に着物の裾を踏んで転びおってのう。切っ先が掠っただけじゃ」
「姫様、それは……」
「わらわは、それでよいと言っておる。しつこいぞ、フヨウ」
彼女はそう意思の強そうな口調で言う。〟アオイ〝はそれきり何も言わなかったが、彼が唇を噛み締めているのを見ると、それは真実ではないのだろう、と思われた。
「さて、言いたいことはそれだけか?」
全てを見透かしているような赤い目で、クチナワ姫は〟アオイ〝を見つめる。彼は何も言わずに黙っていた。アオイとシラタマが心配そうに彼を見ていると、彼女がまた口を開いた。
「のう、フヨウや。そなたの本心はどこにあるのじゃ?本当は心の奥底で願っておったろう、「人の世でこれ以上生きていたくはない」と。わらわはその思念にひかれ、そなたの元へと行ったのだ。だから、どんなにそこの猫があがこうと、わらわはそなたを帰さなかった」
そなたの心は本当はどこにあるのじゃ?わらわがずっとわからなかったのはそこだけじゃ。
クチナワ姫はそう遠くを見つめながら言った。〟アオイ〝を見ているようだが、はたまたどこも見ていないようにも見える。
そこでずっと口を閉ざしていた〟アオイ〝が口を開いた。
「僕は、あの時とても弱かった。心も何もかも…。貴方達怪異も人間も、全てが恐かった。なら一層、消えて無くなってしまえば、この苦しみも全てなくなると思っていたんです」
何も信じられなかった。友達も、両親でさえ、いつか僕を気味悪がって捨てるんじゃないかって、ずっとずっと不安だった……。
それは〟アオイ〝の心の最奥に抑え込まれていた本当の感情。彼の声を聞くことができたアオイには、彼がそれでずっと苦悩していたことがありありと想像できた。
「だが、そなたはその苦しみをもう一度受けに行こうとしておるのだろう?」
「……はい」
「今帰れば、そなたは神隠しより帰った奇人として、ますます恐れられることであろう。その好奇と怪訝の眼差しに、そなたは堪えられるのか?そなたにとっての地獄であろうに……」
「でも、迎えに来てくれた子たちがいた。待っている人がいるのなら、いつまでも逃げてばかりではいけないかなって」
怪異の視えるこの目も、声が聞こえるこの耳も、生まれついてきたものなんだから。そろそろ僕も守られるばかりの子供じゃなく、向き合える大人になります。
〟アオイ〝はそう言ってもう一度深々と頭を下げた。
「今まで本当にお世話になりました、クチナワ姫様」
「自ら苦難の道を選ぶとはおろかな奴じゃ」
クチナワ姫は実につまらなさそうに、しかし、何処か寂しそうに口にした。
そこで、アオイは彼女がずっと〟アオイ〝を守っていたということに気がついた。人の世に絶望し、怪異を恐れる彼をずっと……。名前をクチナワ姫が預かっていれば、彼は自由がない代わりに、姫の小姓として扱われ、下手な怪異には襲われることもない。また、異界にいれば、人間たちに傷つけられることもない。きっと、そう考えていたのだろう。
なんと慈悲深い怪異なのか……。
「フヨウ…、いや、葵。そなたにわらわを傷つけた罰を与える。そなたは、これより人の世へと流刑とする。二度とこの地を踏むことは許さぬ」
ああ、そう言って突き放すのか。本心では離れたくないと思っているのに……。
アオイはいつの間にか涙を流していた。見れば、名前を返された葵も大粒の涙を流しながら嗚咽を必死に堪えていた。
「姫様、本当に、本当にっ!ありがとうございました」
そう言って葵はシラタマと姫の部屋を出ていく。そこに一人残ったアオイは肩を震わせるクチナワ姫を見て、そっと頭を下げた。
「なんじゃ、捨てられたわらわを笑うか?」
「いえ…。あなたはとても心優しい方です。自らを悪にしたててまで彼を守ろうとしてくれました。今度はボクらが彼を守ります」
「あんな奴、どうなろうともう知らぬ。じゃが、可愛がった小姓が苦しむことはあまり見とうない。だから……」
あの子を頼んだぞ、青螢のアオイや。
こうして、アオイを取り巻く一つの物語が幕を下ろす。彼のその後の行方は誰も知らない。
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