ここの夜
アオイが屋敷に戻ったのは翌朝のことだった。屋敷は変わらず静けさを保っており、草がさわさわと揺れる音に満たされていた。アオイはいつも通りの光の姿でフヨフヨと宙を漂って、広間の外の縁側に辿り着いてから人の姿へと変化した。翁に教えてもらった姿を変える術も問題なく使いこなし、二本の足で縁側へ危なげなく立つ。昨晩の特訓の成果が出たようだ。手で障子に触れることも問題なくこなせる。
そういえば先日、シラタマに覚えておくといい、と言われていたもの全てがこの姿になった途端に必要性になった。先見の明があるなぁ、とアオイはそっと笑いながら障子を開いた。
目の前に広がる畳の部屋。いつもの場所でシラタマが丸くなって眠っている。しかし、いつもと様相が異なっており、眉間にシワを寄せて何だか苦しそうにしていた。アオイは心配そうに彼の傍らに座してその身を揺らした。
《シラタマ、シラタマってば。大丈夫?》
《んん、まだ眠いから起こさないで……》
《とか言って、君うなされてるじゃないか、どうしたのさ》
《ああもう、寝かせてって言ってるのにやかまし……っ!?》
そこで跳び起きたシラタマがアオイの姿を見てきょとんとした。アオイは首を傾げながら笑う。
《えっと、ただいま》
《ア、〟アオイ〝?嘘…》
しかし、すぐに違和感に気がついて首を振る。
《うん、残念ながら君の大切な人だった〟アオイ〝ではないけど》
困ったように笑って見せると、シラタマは信じられない、と言いたげな表情でこちらを見た。あんまりじろじろとしばらく見てくるものだから、アオイの方が何だか恥ずかしくなってオロオロとする。
《な、なに?》
《うーん、ボクの知っている〟アオイ〝よりも美人かも》
《……どこを見てるんだよ》
アオイが呆れたような表情をすると、シラタマはでも、と続けながら二つに分かれた長い尾を振った。
《うん!アオイだ、おかえりアオイ。昨日は姿を見かけなかったから心配したよ。……で?何がどうしてこうなったの?》
その問いに、話せば長くなるんだけど、と前置きをしてから昨日の出来事を話す。シラタマはそれを最後まで聞いて、へえっ、と面白そうに言った。
《すごいや、君も君の仲間たちも、本当にすごいね。成長できるなんてうらやましい》
《君のおかげだよ、シラタマ》
アオイはそう言って静かに笑ってから、さてと、とシラタマに背を向けて立ち上がった。その視線の先にあるのは件の掛軸。
掛軸の中では〟アオイ〝が目を伏せたまま悲しげに微笑んでいる。アオイは肩越しにシラタマをもう一度振り返ると、彼もその掛軸を見て寂しそうな目をしているのが見えた。それを受けたアオイは心の内で覚悟を決めて、その掛軸の前へと歩み寄った。
《アオイ!?何をするつもり!?》
シラタマが目を剥く。アオイは彼を抱き上げると、黙ってギュッと抱き締めた。
《シラタマ、君はもう一度、〟アオイ〝に会いたい?》
《まさか、アオイ。君は…っ!》
《ボクは会ってみたいな。聞いているだけじゃわからないこともたくさんあるけど、きっといい人なんだろう、って思うから。だって、君やあの二人が〟アオイ〝について話してる時はすごく寂しそうに、でも優しい表情で話すのを感じたから……》
止めないでね、とアオイはシラタマを離してから掛軸の前に立った。その前では先日源平の持ってきた虫籠の鈴虫が鳴いていた。リィリィとまるで……。
――助けて……。
夢で聞こえてきた〟アオイ〝の声がよみがえる。うん、今行くよ、待っていて。
アオイの大切にしていた虫籠と押し花の栞を持って、アオイは掛軸に手を伸ばした。しかし、手が触れる瞬間、シラタマが突然彼の目の前に飛び出して、彼の胸元に体当たりを食らわせた。驚いて思わず後ろにバタンと倒れた彼の上にシラタマはのしかかる。
《行っちゃだめだ!行かないで、アオイ!君までいなくなったら……》
ボクは、ボクはまた一人ぼっちになってしまうよ……。
シラタマが泣きそうな声で訴えてきた。彼の目は揺れている。そんな彼を見てアオイはしばらく言葉を失ったが、やがて苦笑しながらもう一度彼を抱きしめて言った。
《ボクはちゃんと帰ってくるよ。〟アオイ〝を連れてちゃんとここに帰ってくるよ。ボクの帰る場所はここだもの》
そう言い聞かせてもシラタマは首を左右に振って、だめ、嫌だ、と繰り返す。大丈夫だ、と言っても聞かないのでアオイはすっかり困り果ててしまった。
気持ちはわからなくもない。仮に自分がシラタマと同じ立場に置かれれば、間違いなくこうして引き止めるだろう。一人ぼっちになることが寂しいことも、大切な誰かが目の前から消えてしまうことが辛くてたまらないことも、想像すれば身が引き裂かれそうになることぐらい、痛いほどわかる。
それでも、だからこそ……。
《シラタマ、行かせて》
《嫌だ!どうしても行くって言うなら、ボクも連れて行け!》
シラタマは強い語調でそう言ってきた。アオイは目を見開くと、それは、とその先の言葉を言い澱む。しかし、シラタマは更にまくしたてるように続けた。
《ねえ、行くなら連れて行けよ!ボクしか本物の〟アオイ〝には会ったことがないんだから》
《え、いやでも、危ないし、来ない方が……》
《足手まとい、って言いたいの?ボクだって!》
身を震わせ怒鳴るように言ってくる。アオイが怯む前でシラタマは全身の毛を逆立てて噛みつくように言ってきた。
《ボクだって助けたいに決まっているじゃないか!また会いたいに決まってるだろ!だから、どうか連れて行って!》
《……わかったよ。一緒に行こう》
ようやくそこでアオイが折れた。シラタマは頷くと、共に掛軸を見据えて深く息を吐いた。
《準備はいい?》
《もちろん》
《帰って来られないかも》
《覚悟の上だよ》
《〟アオイ〝に、会えなかったら?》
《それでも、後悔はしたくない》
アオイはそうか、と微かに笑いながら、肩に飛び乗ってきたシラタマを優しく撫でた。
《シラタマは強いね……、〟アオイ〝のためにそこまでできるなんて》
尊敬の念を込めてそう言うと、何言ってるのさ、とシラタマが尾で彼の頬をはたく。
《君の方が、ずっとずっと強いじゃないか》
それに君もいるから、というシラタマの言葉に、それはボクの台詞、とアオイは心の内で呟いた。
掛軸に弾かれないように気配を抑える。黙って手を掛軸にかざして、
《行くよ、シラタマ》
そっと、そろりと、彼らは掛軸に身をゆっくりと沈めていく。水面のようにさざめいた紙面は二人を拒むことなく受け入れる。アオイはそこで空いている左手を握り、小指のみを立てて口元へと持って行った。翁に教えてもらった「惑わしの術」、こうすることでアオイが声を出さない限り、二人の気配と姿は人にも怪異にも不可視の状態になるのである。
やがて全身が掛軸に沈み、降り立った先は暗い小道になっていた。時折赤い人魂がフヨフヨと漂っている。その瞬間だけ暗いその場の全容が明らかになる。
そこはどうやら隧道のようであった。いくつも存在するわかれ道の度に立て看板のような木の板に変な文様が刻まれている。恐らく怪異にのみ伝わる道案内なのだろう。そして、その文様を解読できない怪異専用なのか、その木の板の上で人魂が光の明滅によって道案内をしてくれていた。
――右、白雲ヶ淵 左、赤来ノ丘
シラタマがアオイを不安そうに見上げる。すると、彼は黙って右の道を指さすことで応えた。〟アオイ〝の呼ぶ声はそちらから聞こえてくる気がする。アオイは己の直感に従って歩き出した。
そこからしばらく歩くと、一筋の光が見えてきた。出口だ。そこを抜けた彼らの目の前に現れたのは、霧がかった大きな池のほとりに建ち並ぶ青い屋敷の数々だった。
アオイは小指を口から離して呆然と呟いた。
「これが、異界……」
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