なやことの章

ななの夜

 今から何十年前のことになるだろうか、〟アオイ〝がこの世から姿を消したのは。

 文字通り煙のように消えてしまったので、彼の生死は定かではなかった。以来、〟アオイ〝行方はたった一匹を除き、友人も両親も誰も知らないままであった。

 いつしか彼の神隠しの話は百本の怪奇話を残して消えてしまったという怪談話へと変化して、百物語の度に人々に語り継がれるようになっていた。

 〟アオイ〝の身を襲った真実、それを知っているのは、彼の飼い猫のシラタマだけであった。シラタマはその真実を主と同じ名前を持つ怪異に少しずつ語り出した。


 〟アオイ〝はとても美しい子だった。肌は胡粉を塗ったように白く、髪は猫のようにふわふわと柔らかい黒、引き目の細い双眸は齢八つの少年には不相応な憂いと色香を帯びて静かに光っている。美しい女性の姿を「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と例えるが、その言葉が驚くほど似合う少年であった。彼が子供たちのからかいの標的となった理由は、人には見えない怪異が視えたことはもちろんであったが、その類稀なる端正な容貌を持っていたことも一因であったのだろう。

 〟アオイ〝の美しすぎる容貌は時に怪異をも魅了し引き寄せた。怪異に対する警戒心はあっても、逃げることしか抗う術がなかった彼は、度々怪異に襲われては怪我をしていた。シラタマはそんな〟アオイ〝を守るために、いつも彼についていった。そして、悪意のある怪異が彼に手を出そうとした時は、精一杯の威嚇をして相手を追い払っていたのである。彼も幼心に、シラタマが自分を守ってくれていると感じていたのだろう。どこかへ出かける時もどんな時も彼はシラタマと一緒にいたのだった。

 「君は、いつも僕を守ってくれるね。ありがとう、僕にも何かできたらなぁ……」

 そう言いながら〟アオイ〝は力なく笑うことがよくあった。シラタマはそんな時、大丈夫、君が幸せなら、と心の内で呟きながら優しく撫でてくれる彼の手に頬を擦り寄せてじゃれていたのだった。

 しかし、〟アオイ〝があの日、一枚の文を受け取った瞬間から歯車は狂いだした。

 その文の差出人は不明だった。ただ表書きに〟葵殿〝と書かれていたので、両親は特に警戒することもなく、文を彼に渡してしまったのである。が、当時まだ普通の猫であったシラタマでもわかるほど、とんでもなく強い情念にも似た思念が込められており、本能的に彼はそれを恐れた。内容はというと、彼を恋い慕う想いを婉曲的に表現した詩が丁寧な字でしたためられていた。文学に親しんでいた彼はすぐにかつ正確にその詩の意味を理解した。文の最後に返事が欲しいという旨と手紙のやり取りの方法が描かれていたので、彼はすぐに返事を料紙にしたためた。

 自分はまだ子供だから、貴女の想いに応えることはできない。彼はこのような意味の詩を丁寧に書き、丁寧に畳んで紙に包んだ。受け渡しは広間の外の縁側、深夜までにそこに置いておけば取りに行く、と文にはあった。夜は玄関も閉まっているのにどうやって取りに来るのだろうか、疑問に思いながらも〟アオイ〝は文にあったように、夜縁側にそれを置いてから眠った。

 その翌日のことである。彼の書いた文は縁側から消えていた。その代わりにまた文が一枚。表書きはもちろん〟葵殿〝と。今度の文の内容は、それでも貴方を待ちたい、というものだった。これもまた返事を求められていたので、〟アオイ〝はこのよういしたためて縁側に置いておいた。

 待つのは構わないが、会ったこともない人に待たれても迷惑だ。せめて会いに来てほしい。

 朝、はたして彼のしたためた文は消えていて、その返事が縁側に置かれていた。

 もっともだ、しかし、自分は夜にしか出歩くことができない上に、とても恥ずかしがりなので、最初は障子越しに話すのでもよかろうか、ということだった。〟アオイ〝はもちろんだ、しかし、どうか声だけは聞かせてほしい。そう返事をしたためた。

 その翌日の夜から障子越しの奇妙な逢瀬が始まることとなった。

 障子の向こうの人は声色から察するに大人の女性であった。最初の夜はお互いに言葉少なであったが、次第に打ち解けて、三日もすれば話も弾むようになった。〟アオイ〝が話すのは自分が読んだ本の話、彼女が話すのは聞いたこともない奇妙奇天烈な話であった。例えば、山の神様が河の神様に恋をした話、狐が化けた美しい女と人間の男が恋に落ちる話。恋の話ばかりかと思いきや、身の毛もよだつ恐ろしい話もあった。とある森の奥にある井戸に住む霊の話、物に宿る妖怪の類の話など、それはそれは色々なことを話してくれた。その話がとても興味深いので、〟アオイ〝は相手の恋心のことなど忘れたように、また話に来てくれ、と毎晩彼女にせがんだ。ちょうどその頃、彼の両親は家業であった呉服屋の仕事が忙しく、彼をほとんど構えていなかった。その寂しさを埋めるように、〟アオイ〝と彼女はその距離を確実に縮めていった。

 シラタマはというと、彼女に対して嫌な予感ばかりがよぎって仕方がなかった。何といってもとんでもない思念を文に込めて送ってきた相手である。人か化生かわかったものではないし、そんな正体不明の輩に〟アオイ〝を渡すわけにはいかないと考えていた。しかし、当時のシラタマにはその正体不明の者にケンカを売る勇気はなく、いつものように見守ることしかできなかった。

 ある日、〟アオイ〝はシラタマに言った。

 「あの人、どんな顔をしているのだろうか。……もし、あの人が人間じゃなかったら、僕はあの人にどう答えたらいいのだろうか」

 彼はあの恋文のことを気にしていたのだろう。また、彼女が人ではないかもしれないということに勘づいていたのかも知れなかった。その通りだ、やめた方がいい。そのシラタマの言葉は〟アオイ〝には届かない。シラタマはそんな自分を無力に思いながら、不安げな彼のことを片時も目を離さず見守りながら、懸命に人間の言葉を勉強し始めた。自分が感じた危険を〟アオイ〝に伝えるために。

 しかし、それは叶わぬ夢となってしまった。

 彼女が通ってくるようになってから随分と経ったその日、彼女はふいに〟アオイ〝に訊ねた。

 「〟アオイ〝、貴方は私のことを愛しているのかしら」

 突然の問いに〟アオイ〝はすぐに返事ができなかった。その問いは、彼が悩みながらもずっと答えを出せなかったものだ。

 「私ね、一つ願かけをしていたのよ」

 「願かけ?」

 嫌な予感がしてきた。背中を冷たい手で撫でられているような悪寒が〟アオイ〝を襲う。

 「そう〟百〝って数字には、不思議な力があるの、知っている?」

 今日、私が貴方の所に通って〟百日目〝なのよ。百夜通うと、願いごとが叶うの。

 この時、〟アオイ〝の顔は青ざめていた。利口な彼はそれだけで彼女が言おうとしていることがわかったのである。

 「〟アオイ〝、今だから言うけれど、私は人間じゃないの」

 でも大丈夫、この間話したように人間同士でなくても、結婚することはできるわ。

 「な、なにを……」

 「ねえ、〟葵〝。私の愛しい子、私の……いえ、わらわの望みは貴方を花婿として異界に連れていくこと。ようやく今日叶えることができるわ」

 「い、嫌だよ!知らない所に行くなんて嫌だ、連れていかないで!」

 「どうして?貴方も、私のことが好きだから、また話しに来てって誘ってくれたんでしょう?」

 「違う……」

 〟アオイ〝は首を振った。違わないわ、と彼女は言う。違う!と彼は再度語調を強くして言った。

 「シラタマ!シラタマ!僕行きたくないよ、助けて!」

 「そうはさせないわ。さあ〟葵〝、おいで……。わらわと共に行きましょう?」

 障子が開く。現れたのは〟アオイ〝に負けず劣らず真っ白な肌を持つ絶世の美女。しかし、彼にとってその美しすぎる容貌は、逆に不気味に感じられた。シラタマも彼女を見た瞬間、この上ない恐怖に襲われた。こいつはとんでもない奴だ、敵うわけがない、と。しかし、〟アオイ〝を失うことも堪えられなかったシラタマは勇気を振り絞って女に飛びかかった。腕に噛みつき、彼女の肉を食い破るほどに強く深く噛んだ。

 しかし――、

 「この猫ごときが……っ!」

 シラタマは乱暴に振り払われ床に叩きつけられた挙句、腹部を力いっぱい蹴飛ばされ、部屋の隅にまで吹っ飛んでいった。

 「シラタマ!」

 「まったくもう!とんだ畜生ね!おかげでひどい怪我をしてしまったじゃないの。早く異界でなおしてもらわないと。――さ、〟葵〝行きましょう」

 彼女は〟アオイ〝の腕を掴んでものすごい力で引っ張っていく。広間にかかっていた何も書かれていない掛軸に彼と共に身を沈めていった。

 「いやだー!シラタマ!」



 それからというもの、〟アオイ〝は二度と姿を現さなかった。しかし、シラタマは二人の消えた掛軸に異界に渡るための術があるのだと気がつき何度もそれに身を投げ出した。しかしその度に体中に電撃のような激痛が走り、彼女の低い声が聞こえてくる。

 《しつこい畜生め。これ以上わらわの邪魔をいたそうものなら、そなたも〟葵〝もただではすますまいぞ》

 そうだな、二度と転生できぬ体にしてやってもよいのう。さすれば、〟葵〝はずっとわらわの元におるからのう。

 哄笑がシラタマの耳を打つ。無力な自分を彼は深く深く嘆いた。また同時に、強くなりたいとも願った。この日を境に、シラタマは猫としての生を手放し、猫又として生きていくことを心に決めたのだった。

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