むぅの夜
アオイが言葉の勉強を始めてからどれほど経っただろうか。時節柄もあるのだろうか、百物語をやる集団がこの屋敷を訪れることも少なくなったので、彼は夜ごとにろうそくの火を食べに外出するようになった。もちろん、毎日運よく百物語の現場に会えるわけでもないので、収穫がなかった日は線香や行燈の火を食べた。何も食べなくとも生きていけるとはいえ、早く〝形〟を得たいアオイは百物語のろうそくを食べられないことを残念に思っていた。その気持ちを紛らわせるように、昼はあの巻物を見ながらシラタマに習った音を一生懸命練習した。そのためか、大分言葉も拾えるようになり、彼も簡単な単語を口にすることができるようになった。
そんなある日のことだった、アオイが待ち望んでいた出来事が起こった。あの二人の男が再び夜に屋敷を訪れたのだった。彼らはシラタマの眠っている広間へと向かっていくので、アオイもあわてて天井裏から彼らの姿を見守った。すると、シラタマも天井裏に上がってきて、ああ、あの二人か、と懐かしそうに言った。知っているのか、と訊ねると、シラタマは前足で二人を示しながら言った。
《よく知っているよ。〟アオイ〝の幼馴染みだった。あっちの優男がサクヒデって言って、貸本屋の息子だ。閉じこもりがちの〟アオイ〝に本をよく貸してくれたり、手習いや算盤を一緒にやっていたよ。優しくていい子だ。で、あっちの濃い男がゲンベイって言って、武家の跡取り息子だ。結構粗暴な男でさ、ボクもよく意地悪で追いかけ回されたものだ。でもね、とても面倒見はよくてね、〟アオイ〝の具合が悪くなると、誰よりも先に医者を呼んでくれたり、外の美味しいお茶菓子を買ってきてくれたりしていた》
二人ともね、〟アオイ〝にとって大切な友人だった。だから、〟アオイ〝がいなくなった時、誰よりもあの二人があの子ことをものすごく心配してくれた。ずっとずっといなくなったあの子のことを探し続けていた。もちろん、今もね。
今も?〟アオイ〝は生きているの?とアオイが聞くと、シラタマは少し沈黙してから、やがて弱々しい声で、きっとね、と返事をした。
《この間、この話には別の真実がある、って言ったよね。〟アオイ〝は今になってもずっと見つからないから、死んだことになっているけど、本当はあの子がどうなったのかは、誰もわからないんだよ……》
ボクもね。ここはボクが生きている時に〟アオイ〝を見た最後の場所、あの子の描かれた掛軸もあるし、もし帰ってくるならここかな、ってさ……。
そうか、ようやく腑に落ちた。彼がずっとあの広間にいるのは〟アオイ〝の――彼の主の帰りをずっと待ってのことか、と。しかし同時に、腑に落ち切らないこともあった。なぜだろう、シラタマは何か〟アオイ〝のことに関して、隠していることがあるような…そんな予感めいたものが、アオイの脳裏をよぎったのだ。
話はそこで一区切りついた、その先の話を聞いていいのかどうか迷っていた、そんな時だった。
「〟アオイ〝!いるんだろう?」
ゲンベイと呼ばれていた男の声が広間に響いた。どうやら自分のことを呼んでいるようだ、とアオイは知る。なんだろうとシラタマから視線を外すと、ゲンベイは布に包まれた何かを掲げながら続けた。
「懐かしいものを持って来たぞ。何か思い出すかもしれん、いるなら出てこい」
「源、そんな強引な……」
「いや、〟アオイ〝とて見てみたいと思うだろう、だからでてきてもらわんと困るんだ。だろ?朔よ」
「まあ、そうだけどさ」
二人が下で何やら話をしているのが天井裏にも聞こえてくる。シラタマがどうするのさ、と訊ねてくるが、アオイはもう少し様子を見ることに決めた。
何かを持ってきた、と言っていたな。何を持ってきたのだろうか。それはものすごく興味がある。もしかしたら、シラタマが見たことのある物かもしれない。もしも知っていれば、彼にその物にまつわる〟アオイ〝の話を聞くことができる。もし自分があの〟アオイ〝と同一人物ならば、その時に何か思い出せるかもしれない。そう思ったのだ。アオイはそれを期待して天井裏から目を凝らして二人の手元を眺めた。
「おい、お前は何かないのか、朔」
「ええ、源が言いだしっぺなんだし、君が先に出しなよ」
「俺からかよ、仕方ねえな……」
言いつつ源平が取り出したのは、小さな竹の虫籠だった。朔秀はその籠に見覚えがあったらしい。
「あっ!それ〟アオイ〝がなくしたって言って大泣きしてた。まさか源…」
「違う、誤解だ。あいつが預かってくれって言ったのを忘れて……」
「君こそ返すのを忘れているじゃないか。まったく、あの時の〟アオイ〝の泣きっぷりは半端じゃなかった。大切な鈴虫が入っているってさ。大変だったんだからね!」
籠の中には小さな鈴虫がリィリィと鳴いている。天井裏に潜んでいるアオイにとって、それは外の木陰で眠っていた頃に聞こえてきた懐かしい声の一つだった。それが入っている虫籠には、残念ながら見覚えはなかったが。そこで、アオイはシラタマにあの籠のことを知っているか訊ねてみると、
《うん、覚えているよ。〟アオイ〝は虫が好きだった。でも、ボクがいたずらをするから、あの籠を買ってもらって、ボクが届かないの木の下に吊るしていた》
何だか悔しそうに言う。そうなのか、とアオイは記憶をさかのぼってみたが、シラタマがいうような光景は思い出せなかった。
二人は下で更に続けていた。
「悪かったよ、あの時は…。でも、返そうとしたら〟アオイ〝はいなくなっちまった。仕方ないだろ」
「まったくもう……」
「そう言うお前はなにかあるのかよ」
源平の言葉に朔秀が懐をごそごそと探り出す。俺はこれ、と彼の目の前に差し出したのは、竹皮に押し花を貼りつけた小さな栞だった。
「おい、それ〟アオイ〝が作った押し花の栞じゃないか」
「そう、最後に〟アオイ〝に貸した本の間に挟まったままだったんだよ。気がついたときにすぐに返せばよかったんだけどね。明日また会えるし、とそのままにしていたらそれっきりになっちゃってさ。今でも後悔しているよ……」
栞を大切そうに握りしめながら、微かに揺れる瞳で朔秀は言った。悲痛な告白だった。
「ああ、俺たちは〟アオイ〝に返せなかったものばかりだな。本当にすまないことをした」
悲しそうに、寂しそうに、彼らはポツリと呟いて俯いた。チラリとシラタマを見ると、彼も何処か遠くを眺めるような目で黙っていた。
アオイはそろそろと天井裏から下の広間へと降りていった。ゆらゆらと揺れるその光に気がついた二人は、あっ、と声を上げる。びっくりしたアオイは跳び上がって部屋の隅の物影に隠れようとする。
「ああ、待ってくれ。驚かせてすまなかった。どうか行かないでくれ」
プルプルと震えつつ、待ってくれという源平の言葉に反応したアオイはそっと振り返る。すると、朔秀がそっとそっと驚かさないようにゆっくりと彼に近づくと、目の前に先ほどの押し花の栞を置いた。アオイはそれを見て目をしばたたかせる。
「ねぇ、もしも君が〟アオイ〝なら、これをもらってくれないか?いや、違うや、返すんだったね、どうか持って行っておくれ」
彼の言葉を理解したアオイはどうしたものか、と悩んだ。そこでふと、そういえば床の間にかかっている掛軸は〟アオイ〝を描いたものであると、シラタマが言っていたことを思い出す。あれの前に置くことで、〟アオイ〝に返したことにはならないか。そう考えた彼は栞を口にくわえて床の間の掛軸の前へ持っていった。
「これも、返す。預かった時にいた鈴虫は残念ながら死んでしまった。すまなかった」
源平が捕まえたのだろう、虫籠の中には若い鈴虫が一匹リィリィと鳴いていた。アオイはこれも同じように掛軸の前へと持っていき、床の間に置いた。何かに誘われているように自然なその行動に一番驚いたのはシラタマだった。彼が天井裏で、え、と声をあげたように聞こえたが、真意を問う前に二人が話を始めたので、思考がそちらに持っていかれる。
「ねぇ、源。この掛軸に描かれている子……」
「ああ、〟アオイ〝にそっくりだな。あいつを描いたものなのだろうか」
「うん、でもこんな掛軸、昔からあったっけ?」
「いや、覚えはないな」
二人はひたすら首を傾げていた。アオイはそれを傍目にまじまじと掛軸に描かれた〟アオイ〝の姿を見た。
ふっくらとした瓜実顔、白く、目は憂いを帯びた流し目、ふわふわの髪、繊細な指先、しなやかな手足…。少年と言うにはあまりにも大人びた表情で、子どもには不相応なほどの色香を纏っていたことが絵からでもわかった。まるで人形師が丹精を込めて作り出したかのような均整のとれた顔立ち、まさに美童だった。
「この掛軸の前に置いたってことは、この絵に何かあるのかな」
アオイの見ている横から朔秀が掛軸に手を伸ばした。そしてその指先が掛軸に触れようとした、その瞬間だった。
突然バチッと電撃のようなものが室内を駆け巡った。朔秀の手にちょうど当たったのか、彼がびっくりして手を押さえながら床の間から身を引いた時、地の底から響くような低い低い声が聞こえてきた。
《この美童はわらわのものじゃ……。人間ごときが、わらわに、こやつに、触れるでないわ!》
それはアオイも知らない声だった。どうやら二人も知らなかったようで、声が聞こえた瞬間、うわっ、と声を上げながら腰を抜かし、顔を真っ青にして震え上がった。アオイもこの声に大変驚き、近くにあった押入れの中に飛び込んで隅で小さくなる。
「これは、まずい!朔、逃げよう!」
「で、でも……」
「明日、霊媒師の先生呼んで見てもらう方が安全だ。これ以上、ここにいる方が危ない」
言うや否や、源平が朔秀を半ば引っ張るように外に連れ出した。あの声の主は低い呻き声を出しながらも、それ以上二人に危害を加えたりはしなかった。
沈黙が室内を支配する。すると、そこでようやくシラタマが天井裏から降りてきた。彼は掛軸の前に座って〟アオイ〝の絵を見上げた。彼の全身は心なしか震えているように見えた。
同時に、再びあの声が、今度は掛軸からはっきりと聞こえた。
《これ猫又!誰にも触れさせるな、と言うたであろうが!》
《ごめんなさい!もう絶対に触らせないから!だから、どうか〟アオイ〝には、お願いだから〟アオイ〝には何もしないで!》
それは、必死な思念だった。涙目になりながら、震えながら、懇願するシラタマを見て、アオイはビクビクと震えながらも、押入れを出て彼の側へと近づいていった。彼だけにしてはいけない、そうアオイの心が訴えていたのだ。シラタマはアオイが寄り添うように隣に座ったのを受けてビクッと全身を揺らした。それに追い打ちをかけるようにあの声は続ける。
《次にこのようなことがあれば、そなたも〟アオイ〝も許さぬ。そなたらの命はわらわが握っておるのだぞ、せいぜい覚悟しておくのだな》
脅すような言葉を最後に掛軸は再びだんまりを決め込んだ。アオイが不安そうにシラタマを見ると、彼は疲れたように笑って見せた。
《驚かせてゴメンね、アオイ。恐かったろ?》
あれは何?と思念を送ると、シラタマはうん、と頷きながら床の間から視線を外した。
《ちゃんと説明するね。それよりも、書斎に行こう。ほら、君の寝床にさ》
なんで、とは聞かなかった。シラタマはきっと今そこにいたくないのだろう。いくら〟アオイ〝の――自分の主人の絵が描かれた掛軸があろうと……。アオイもあの声は恐ろしく感じた。一刻も早く逃れたい、と、そう思った。
二人は無言で廊下を通り、書斎へと向かった。静かに佇む扉を通り抜けて室内に入ったところで、シラタマはようやく一息ついたようだった。だが、彼はとても疲れたように書斎の机の上に丸くなってしまう。アオイはそんなシラタマを案じつつも、あの声のことが気になって仕方がなかった。何も知らずにこの屋敷にすむわけにはいかない。シラタマは自分の成長のために心を砕いてくれた。今度は自分の番だ。
そう強く思い、アオイは勇気を出してシラタマに聞いた。
〟アレ〝は何だ?と。するとシラタマはこう答えた。
《あれは、掛軸に住む妖怪だ。あの掛軸は人間の世と妖怪の世の境界。ボクの主人である〟アオイ〝はあいつに、さらわれてしまったんだ》
平和な夜ばかり続くわけがない。この後シラタマから語られた真実を受けて、アオイはあることを決意したのだった。
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