第50話「ひい!!」

 これから何を作るのか、コムギへ説明は終わった。

 問題はここからだ。

 少し大きめの鍋に卵が十五個ほど敷き詰められている。水がひたひたに張られていて、後はガス台の取っ手を回すだけだ。

 先程からコムギはガス台の取っ手を握ったまま石化している。一先ずゆで卵を作るのだが、多いので時間を食う。理事会が九人も居る事がここで障壁となっていた。

「コムギさん、時間ないですよ!」

「う、うるせぇな、分かってる」

 指に力を込めては脱力を繰り返している。火を近くで見る事ができるし熱さに耐性は付けて来ているが、まだ自ら火を扱わせたことは一度もない。少々ハードルが高いか。

「じれったいわね。がっと行けばいいのよ、がっと」

 テトラは自分の髪を指でいじりながら言う。

 ただ火をつけるだけなんだけど、本人は爆弾の解除コードを切るくらいの迫力を見せている。

 何とか特訓の日々を思い出してもらおうと唇を動かした時、低音がそれを遮った。

「コムギ」

 いつの間にかコムギの祖父が近づいてきていた。大きな怪獣のようにのそのそとゆっくり歩いてくる。

 会場は今度はバールゼーブから邪魔が入るのかと沸いた。

「爺ちゃん、何の用だよ。からかいに来たのか」

「確かに成長したな。そこに立てるってのは」

 会場の煩わしさを跳ねのけて、その低音は鼓膜に刺さる。

「回せないのか?」

「うるせぇ、今回す」

「火を怖がるなんざ料理人失格だ。やめちまえ」

「……うるせぇ」

「俺の長い人生で一番後悔しているのはな、お前なんかに店を継がせた事だ」

 コムギは睨み返し、黙った。肩で息をしているのが遠くから見てもわかる。

「私が一番惨めなんだ。火が怖いなんて。理由もないのに」

「いや、理由はある」

「え?」

「墓場に持って行く気だった」

 またコムギに酷い事を、と思い何か言い返そうかと思ったがコムギ同様に俺は口を紡ぐ。

「それを回せたら教えてやる」

 爺さんはそれを告げると、背を向けて戻ってしまった。

「じいちゃん、今教えろよ! ずりーぞ!」

 背中から返事は帰ってこない。コムギの目線はッチンの取っ手に戻る。

「なんなんだよ。じゃあなんで、今まで……」

 コムギはうなだれたままぶつぶつ言っている。声が小さくて聞き取れない。意気消沈してしまったように思えた。

 でも、コムギは取ってから手を放していない。

 一度大きく息を吸って、それが無くなるまで吐きだした。

「あああああ怖えええええ!」

 コムギは取ってを握ったまま、足をばたばたと動かす。

「絶対教えろよ! くそじじい!」

 ――ぼぅ、と台に火が灯る音がした。

「ひい!!」

 と奇声を上げながら目にも止まらぬ速さでコムギが視界から消えた。甲高く唸っている声をたどってみると、いつのまにかテトラの背中に隠れている。

「ややややったぞ! 見ろ! やったやった! 火ィつけた!」

 獰猛な野生動物を木陰からのぞき見するように、火に当たる鍋を見ている。テトラはやかましそうに顔をしかめながら右の耳を押さえていた。

「やりましたね、コムギさん!」

 一カ月の時間をかけ、ようやくスタートラインに立てたわけだ。ずっと特訓に付き合っていたせいか、なんだか俺まで嬉しい。

 鍋を振るうのはもう少し先になりそうだけど、とりあえず煮物系ならなんとかなる。

「お前のおかげだユキヒラ! いや、師匠!」

「俺も嬉しいです! あと師匠は止めて下さい!」

「じいちゃん、約束は守れよ!」

 コムギは腰に両手を当てて叫ぶ。爺さんは安心したような、少し焦っているような、複雑な顔をしていた。

 火はつけられたが問題はここからだ。ゴールはまだ先にある。

「コムギさん、火はつけられましたけど安心できませんよ。茹で上がった後、多分五分もないです。かなり要領よくやらないと」

「そんだけあれば十分だ」

 コムギはにっと口角を上げて腕を捲る。すぐに包丁や他の食材を取りに円卓へ駆けて行った。

「もしかしたらもしかするかもしれないですよ。味付けのセンスはありますし」

「それはどうかしらね」

 テトラは別のキッチンを怪訝に見ながら言う。ダスメサとジアの手元をずっと観察していたみたいだけど、尋常ではない何か感じたのだろうか。

 我が主人の評価は厳しいが、俺は一縷の望みくらいはあるのではないかとほんの少し期待していた。

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