第34話「行ってきます」
ヤトコの買い取り先が決まった。どこかの組織の厨房らしく、料理の腕を買ったらしい。
「お願いパパ。私からヤトコちゃんを奪わないで」
泣き付いて懇願した。子供みたいに喚き散らした。とても悪魔とは思えない、凄くみっともなくて弱弱しい姿。なりふり構っていられなかった。無力な私はとにかく願い、頼み込むしか方法を知らなかった。
「ようやく人間を高く買い取ってくれるところがみつかったんだよ。パパは、ザラメにひもじい思いをさせたくないんだ」
「パパ、お願い、お願いだから……」
「……連れていけ」
パパの冷徹な通告。悪魔に乱暴に扱われ、彼女は引き摺られていく。
影でつまらない話をしてクスクス笑い合う事も。
冗談を言ってちょっと怒ってみせる事も。
パパに怒られた時に慰めてもらう事も。
料理をする楽しそうな彼女を眺める事も。
全てがこの屋敷から存在を消してしまう。
彼女は無表情だった。
無理やりにでも彼女を連れて逃げ出すべきだった。
「ザラメ」
館を出て行く彼女は、床で泣きじゃくる私を呼んだ。
「またね」
あの顔で微笑んだ。
最期の最後まで優しい。
大きく頑丈な扉が無慈悲に閉まる。
その瞬間、私の心にも鍵がかかった気がした。
それから半年もしない内にあっけなくパパは逝った。
商売上、奴隷を買い取る顧客の情報は残っていなかった。仕事に一切関わりがない私は行方を知る術はない。ただの家庭教師であるガーベルも勿論知らなかった。
何が間違っていたのか分からない。
人間を好きにならなければ良かったのかもしれない。
「本当に一緒に来ないのですか?」
ガーベルは知り合いの伝手で別の家庭教師の仕事を見つけた。独りになってしまう世間知らずの私を心配し、ついてくる事を提案する。
私はゆっくり首を横に振る。
「この家でヤトコちゃんを待ってなきゃ」
ヤトコちゃんは「またね」と一縷の希望を私に残していった。それは呪いであるし、希望だった。
「どうか、お元気で。お嬢様」
ガーベルは寂しそうに、愛おしそうに私の頭を撫でた。その顔はヤトコが時折見せた暖かい表情と同じだった。
※
どれくらいの月日が流れたか分からない。いつまで経ってもヤトコちゃんは帰って来なかった。
パパが残した財産は確実に減っていく。
美味しいと噂のお店があればそこから取り寄せては食べるだけの日々。
不味かった。
本当は美味しかったのかもしれない。
厨房で包丁を握るヤトコが見える。
木の下で本読むヤトコが見える。
時が進むにつれ遅効性の毒が回るように私は壊れていった。
「お腹空いた」
私先に命が尽きたのは貯蓄の方だった。このまま何も食べずに衰弱し、誰にも気づかれないまま死んでいく。
ヤトコちゃんのベットの上でぼうっと耽っていた。
――またね。
……今、死んでしまう訳には行かない。
残る手段は一つだけだ。
私の足は大きな門へ向かっていた。
今更かもしれない。
大きな門に手をかける。
怖い。
手が震える。
一歩が出ない。
――またね。
力を込めると門が開いた。ギュっと目を瞑り恐る恐る右足を前へ出す。
窓の外何て実はなくて、落とし穴になっている。
そんな想像が過った時、足はしっかりと魔界の地を踏んだ。
この時私は生まれて初めて、魔界に降り立った気がした。
思ったよりも地面は硬い。
空気は冷たい。
一歩目、二歩目、三歩目、踏み出す足の時間はどんどん短くなる。
数歩歩いた所で家を振り返る。
外から見ると存外小さいものだと感じた。
「行ってきます」
おかえりといつか言ってくれる人のために、生まれて初めてそれを口にした。
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