第25話「一歩、間違えば……」
その人間の女性は俺と同じくらいの年齢に見えた。ボサボサの長髪に黒い革で出来た首輪をしている。装飾一つない布切れ一枚の貧相な服装と、光のない目、不健康そうな目の下のクマ、所々に見える火傷の跡や生傷が注意を引く。
女性は手枷をハメられている。この世の全ての不幸を背負ったかのように見える女性の姿は、端的に奴隷を体現していた。
酷い絶望で全てを諦めた顔。
俺が殺してしまった男の子の母親と同じ表情をしていた。
「紹介するわ、ウチの厨房で働いてる人間よ。料理も旨いし、この土地に所縁があるって言うから、参戦させるつもりよ」
バトラの隣りで索然としながら立っている人間の女は挨拶もせず、ただ夢の中に居るようだった。
「……うそ」
俺達が相手のペースに飲まれている中で、ザラメだけが小さく発する。この世界で初めて人を見た俺よりも驚愕していた。その人間に釘付けになり、両手で口を押えて感情が漏れ出ないように必死だ。
人間の女性が、先に口を開いた。
「久しぶり、ザラメ。元気そうでなにより」
人間の女性は冷笑し、嘲弄して言う。誰にでもわかるくらい、相手を見下している態度だった。
「知り合い……ですか?」
俺の質問には誰も答えない。しかし、会話を聞く限り二人は知り合いだ。
「ヤ、ヤトコ、ちゃん」
ザラメは大きな瞳を少し潤わせ、愛おしそうに、懐古するように、口に当てていた手を前へ伸ばす。
ヤトコ、そう呼ばれた人間は首を傾け、つまらない映画でも見るように逆の方向へ頭をやった。そして一言、
「やめてよ今更。虫唾が走る」
ザラメを一蹴した。
態度だけではなく言葉でも軽侮する。ザラメは虐待を受けた犬みたくしおらしくなってしまう。その姿には慙愧に耐えない、無念に懊悩する後悔が見て取れた。
「何を驚いてんの。一歩間違えばお前も「こう」なんだよ」
ヤトコの矛先は俺に向かった。風当たりの強い発言だ。
一歩間違えば、俺も。手枷を見て、その言葉が重くのしかかる。人間に出会ったら聞きたいことがたくさんあった。同じ境遇なら悩みや解決策さえ相談できるかもと考えていた。
だがそれは甘すぎた。
目の前の人間が、尊厳なく扱われている事は明白だった。
「おめでたい面してるけどいつ主人に裏切られるか見物だよ。悪魔は人を欺くのが上手い。お前も、どうせ騙されてる」
ヤトコは人間の癖に悪魔に負けない威圧感があった。テトラは好き勝手にしゃべるヤトコへ睨みをきかせる。
「バトラ、組織の下僕なら礼を叩きこんでおきなさい。うっかり殺しかねないわ」
「失礼、お姉様。調教はこれからする所なの」
ヤトコは「はっ」と乾いた笑いを零した。
「調教だって。楽しみで今夜は眠れそうにないよ。お前、同じ境遇の人間とは思えないね。顔見りゃわかる」
俺はひたすら嘲笑に走るヤトコに何も言えない。自殺を懇願しているみたいで、慄然すら感じる。
ヤトコを見てからなぜか懺悔に押しつぶされそうになっているザラメと、混乱を極めた俺を見て、バトラはクスッっと上品に笑う。
「仕返しは成功ね」
仕返し……この精神攻撃のことか。悪魔らしいやり方だ。テトラは俺達の様子を見て、大きく舌打ちをした。
「用が済んだらさっさと消えて」
「お姉様、もうすぐ私の物よ。おめかしして待っていてね」
「消えて」
バトラは勝ち誇った顔で背中を向ける。テトラがよくやる表情で、その顔は非常によく似ていた。
バトラは少々乱暴にヤトコの手枷を引っ張る。腕を軸にぐいとヤトコの体が曲がって、痛そうだ。ヤトコが本来どういう人物だったかなど知る由もないが、酷い扱いを受けているのは同族として嫌な気分になった。
さっき言われた言葉が再び脳内を駆け巡る。
一歩、間違えば……。
「ヤトコちゃん!」
姿が見えなくなる寸前にザラメが叫んだ。
「もうパパは居ないの。だから、あの家に帰ってきて」
ザラメの悲痛な叫び声に、ヤトコは小さく反応しようとした。が、視線は床から離れず、そのまま引き摺られるようにして店を出て行った。
入って来た時とは真逆に、扉は静かに世界とこの店を隔絶した。
ヤトコのあの孤独な雰囲気を、俺は知っている。
狂気を何度も通り越し、絶望繰り返したような顔だ。
それでいて相手を陥れる言葉を繰り、一瞬で俺の心にいくつもの疑念を残して行った。
悪魔のような人間だった。
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