第19話 「ひとつだけ、生き延びる方法あるよ。聞く?」
「ふぅ……」
楽しい楽しい仕込みの時間。大量の人参と大根の皮むきを終えた。
ここからこれを全ていちょう切りにすると思うと気が滅入る。毎度の事だけど。
でも最近はザラメという話し相手がいるから、随分マシになった。作業は俺より大分遅いので、仕込みの人数には数えられないのが残念な所だ。
「テトラさん、許可してくれるといいね」
ザラメには昨日の俺の提案を話した。従業員であるザラメにとっても他人事ではない。もし俺が居なくなれば、当然食数は減り盛り込み要員もいらなくなる。つまり俺が負けるとザラメはクビになる可能性が高い。
「ユキヒラ君は、もし負けたら……どうするの?」
「どうもこうもないですよ。売り飛ばされて終わりです」
俺は少し投げやりに言う。他人事に聞こえるかもしれないが、寝不足になるくらいには内心焦っているのだ。ザラメは準備していたまな板を台に乗せ、その上に刃が自分に向かないよう包丁を置いた。
「ひとつだけ、生き延びる方法あるよ。聞く?」
「へぇ。何ですか、それ」
「逃げるの。ここから」
「はは、それは良い手ですね」
ザラメが珍しく冗談を言う。それが出来たら苦労ないな。この世界で人間は一人で生きていけないから、こうして下僕をやっている。せっかくの冗談だ、俺が洒落の効いた返事を考えていたら、ザラメが真剣な顔で覗き込んでくる。
「ユキヒラ君。私の下僕にならない?」
「……は?」
「私、テトラさんより優しいよ。我儘もいっぱい聞いてあげる。なんでも買ってあげるし、して欲しいこともしてあげる。人間界に帰る方法も、探してあげる」
「いや、何言って……」
……ザラメの下僕に、俺が?
眼下にある顔は、闇を覗く眼つき。口角はあがっているが、遠くの獲物に狙いを定め、どこから食らってやろうか考えているような獣を感じる。目に色がない。
ザラメの提案はつまり、テトラを裏切って別の悪魔と契約するって事だ。確かにそうすればここから自由になれる。
テトラに比べてザラメは優しいし、人間に理解あるし、結構可愛いし、収入源があるのか気になるけど、何より帰る方法を探してくれるって言うのは助かる……あれ、これって罪悪感さえ捨てれば魅力的な提案では?
テトラは、俺が居なくなったらどう思うんだろうか。
何をどう言っていいか分からずに困惑してしまう。俺がきょろきょろと目線を定められないでいると、ザラメは体を引いてまな板の前へ戻った。
「……なんちゃって。本気にした?」
ザラメはいつものふにゃっとした顔に戻って、柔らかく笑う。経験のない奇妙な疲れに、俺はでかい溜息を吐いた。この役者め。
「しましたよ……心臓に悪い冗談は勘弁してください」
「本気で考えてくれたんだ。なら、脈ありかな」
「だから止めて……」
「えへへ」
にしし顔でぷいと顔を背けた。普段はそんなそぶりを見せないが、ザラメも悪魔だ。たまに人をこうやってからかいたくなるのは発作みたいな物だろう。ちょっとビックリしたけど。
「テトラさんが帰ってくる前に、仕込み終わらせちゃいましょう」
「うん、そうだね」
俺とザラメは同時に包丁を持つ。ザラメは珍しく溜息を吐いた。大量の人参と大根を目にした、からだろうか。
俺が一本目の大根を切り始めた時、厨房の入り口が開いた。
「ただいま」
仕込みを終わらせるとか意気込んでおいて、早速テトラが帰ってきてしまった。テトラは昨日の俺が提案した、保温機能のある器の事を街に調べに行っていた。
いつ帰るか分からないと言っていた割には、案外早かったな。
「ザラメ、お疲れ様」
テトラは珍しく、ザラメに笑顔で声をかけた。いつもは無表情なのに。もしかして良い知らせでもあるのか。ザラメは軽く会釈をしてボソっと挨拶を返したので、俺も倣ってテトラに声を返す。
「おかえりなさい。それで器、どうでした?」
「良い知らせと悪い知らせがあるわ。どっちから聞きたい?」
テトラは歩き疲れてウンザリした、と両肩をくいっと上げて聞く。こう言う時は大抵良い話が悪い話の前振りだったりするのだ。どうせ頭を抱えるなら、先に良い話を聞いておこう。
「良い方からで」
「良い方はね、見つけたわよ。弁当用の保温容器。色々回ったけど結局昨日デートで行った釜めし屋に聞いたら早かったわ。作っている業者も何件か教えて貰ったわ」
おぉ、よかった。これで容器の問題はクリアだ。……で、今なんでデートの部分を強調して言ったんだ。そもそも、昨日の外出はデートだったのか? 人生初のデートが下僕としてとか、悲しすぎるぞ。
さて、もう一つの悪い話題が気になる。ザラメもそれを気にしてなのか、顔が全く笑っていない。
「で、悪い方って言うのは?」
「今から注文しても間に合わないのよ。在庫が足りないんですって」
「え……ちなみに、作ったらどれくらいかかるか分かりますか」
「数が数だから一週間以上かかるらしいわね。勝負だけを考えても、あと数十個は足りないわ」
数個ならまだしも足りなすぎる。やっぱり悪い話の方がオチになったか。
「買ってくれるんですか?」
「予想よりは安かったからね。あの病院の後ろ盾は借金し放題だし」
後半聞き捨てならない気がするけど、今は置いとくとして……意外とあっさり許可が下りたな。しかし新たな問題が発生した。あの料理長が条件の変更を認めるとは思えない。どうしたもんか……。
「まぁ今日の今日だから、もう少し業者を当たってみるわ。とりあえずメニューは考えておきなさいよ」
テトラは業者のリストが書いてあるらしい紙でペラペラと顔を仰ぐ。それだったら業者を全部調べた後に報告すればよかったのでは。何故今だったんだ。
「そういう訳だから。仕込み、お喋りしてないでさっさと終わらせなさいよ」
それを捨て台詞にテトラは厨房を出て行った。
もともと静かだった厨房が余計に静かに聞こえる。大量の野菜を見て、今やるべきことを思い出し仕事導具を手に取る。はぁ、包丁がいつもより重い。
「……ザラメさん、なに笑ってるんですか?」
切菜をする音が隣から聞こえないなと思ったら、ザラメは人参を指で突きながら少しだけ口角を上げていた。
聞こえなかったのか、ザラメは俺を無視して包丁を握りしめる。笑いながら包丁を持たれるとちょっと不気味だ。今日のザラメはいつもよりおかしい。
ザラメは突いていた人参に狙いを定め、ゆっくりと執拗に切り刻んでいた。
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