第2話 何気ない日常
「いつまで寝てるの!さっさと起きなさい!」
――。
――――――――。
少しイライラした様子のその声が階下から聞こえてきて、少年は目覚める。少し汚れた白い天井、お気に入りのカーテンの隙間から射し込む暖かな陽光。昨夜7時に鳴るようセットしておいた目覚まし時計は既に7時30分を指している。
「ふあぁ・・・なんだ、もう朝かよ」
少年は不機嫌そうに呟き、目を開ける。しばらくぼうっとしてからのそのそと起き上がり、その寝癖のつきまくった頭をぐしゃぐしゃとかきむしりながら、カレンダーに目をやった。
「今日で高校に入学して1年か・・・」
何の感情もない、機械のような声でボソッと呟く。そして彼は重い足取りでリビングに降りて行った。
「ヤバい!遅刻するー!あら、起きたの?あなたもさっさと準備して登校しなさいよ!」
彼の母親がドタドタと爆撃音のような音をたてながら家を出ていく。毎日毎日同じコミュニケーション。それがあるだけまだましなのかもしれないが、基本的に彼と母親との会話はそれくらいだ。いや、彼が返事をすることも無いので、それは会話とは言えないのかもしれない。ただ、こんな息子に気をかけてくれるぶん家族のなかではまだ気を許せる方だった。
束の間の静寂を得た家の中。外から微かに鳥のさえずりが聞こえてくる。もう家には少年以外の人間がいないらしい。まあ、彼にとってはいつものことだ。父親はとうに少年を見限っているためか存在を無視している。軒並み他も右にならえだ。唯一母親は僅かながらもああして声をかけてくれる。
まあ、だからといって何が変わるというわけでもないのだが。少年は相変わらず重い足取りでノロノロと準備を進める。
彼が顔を洗おうとしてふと顔をあげると、目の前には死んだ魚の目をした黒髪の少年が写っている。その表情に覇気はなく、まるで生ける屍だ。寝起きであることを差し引いても、なかなかに酷い顔をしていた。とりあえず顔を洗ってしっかり目を覚まそうとしてみる。
冷たい水の感触。その感触を感じることで少年は自分がここに存在しているという証を得たような気がしていた。もう一度顔をあげ、水の冷たさで多少赤く染まった自分の顔を眺める。これでいくらかマシになっただろうか。
彼の名前は
何かが足りない。そう言いながらも特に何をするわけでもない。目標もなく過ぎていく代わり映えのしない日々を過ごし、このままで良いのかという得体の知れない不安を感じているものの、目標は見つからない。
子供の頃はもっと希望に溢れていた気がする。高校生と聞くだけで『格好良い大人』をイメージしていた。しかし実際になってみると現実を突きつけられる。こんなに中途半端に毎日を過ごしている自分を思い描いたことは絶対にないはずだ。少年はそんなことを考えていた。
「もういっそのこと異世界にでも行けないかなぁ・・・」
半分ふざけて言ってみるが、そんなことが起こらないのは百も承知だ。ヘドロを飲み込むような息苦しさと気分の悪さを感じつつ、彼はいつものように自転車で通学する。
並木道には桜が舞い、どことなく甘い香りが漂う。行き交う人々は皆どこか落ち着きが無く、春という始まりの季節に浮き足立っているように見えた。
そんな人たちを横目に見ながらレンは登校する。所詮は季節の移り変わり、大したことはない。世間一般ではレンのような人物のことを冷めていると表現するらしい。いや、ひねくれているというべきだろうか。
いつものように学校に着き、授業が始まる。朝から夕方まで源氏物語だの方程式だの英語の構文だの、将来何の役に立つのかわからない話を聞きながら、窓の外に広がる景色を眺めてはため息をついていた。
「おい藤宮っ!聞いてるのか?!そんなことで受験に勝てると思ってるのか?!」
窓の外に広がる自由の楽園を眺め空想に耽っているとそんな罵声が飛んできて、レンは現実に引き戻される。自称進学校を名乗るだけあって教師はやたら張り切っているが、はたしてこの面白くもないクソ授業をまともに聞いているものがこの中に何人いるだろうか。
俺なら無理。盗んだバイクで走り出したり夜の校舎の窓ガラス壊して回ったり、そんな度胸があるはずもない。というかやったら退学でその先もパーだ。
放課後になり、校庭から聞こえる運動部の声を背中に受けて逃げるように帰路につく。中学では打ち込んでいた部活も、高校に入ってすぐに辞めてしまった。そろそろ都会のエリート校を目指す弟が帰宅するはずなので、このまま家に帰ったところで居心地は最悪だし、かといって学校に居たくもない。生まれる場所が違えば、もっと良い人生を過ごせたのか。世界が違えばもっと良い時間の使い方ができたのか。
馴染みの道を横にそれ、生徒は滅多に使わないし、通学路からも外れた、下り坂の続く道を選んだ。人通りも滅多にないし車も道が狭いのでほとんど通らない。遠くに海の見えるこの道はレンのお気に入りの道だった。
「この長い長い下り坂を~・・・」
レンは思わず某有名アーティストの代表曲を口ずさむ。しかし後ろにのせる人もいなければゆっくり下るようなこともしない。そもそも今は夏ですらなかった。そんなことを考えてばかりいると虚しくなる。
「たまには良いだろ・・・。」
普段ならばそんなことはまずしない。ただ、このやり方以外にこのやり場のないモヤモヤを発散する術をレンは知らなかった。目の前には急な坂道、危ないかもしれない、頭では分かっていてももうこの衝動は止められない。
ムシャクシャして自転車のスピードを上げて、下り坂を思いっきりノーブレーキで走り抜ける。耳元で鳴る、風をきる音が心地良い。なんだか体が軽くなった気がして、思いっきり叫びたくなった。
「わあァァァァァァァァァァァァっ!!」
空気をいっぱいに吸い込んで思いっきり叫んだ。ごうごうと唸る風の音と自分の声が一緒になって響いている。まるで自分が風と1つになったような不思議な感覚を味わいながら、レンはそのまま一気に坂を抜ける。一時的でも彼を縛る全てのものから解放され、どこまでも行けそうな気分になっていたのだった。そのとき、
―――ッ!!!
一閃。雷にでも打たれたような凄まじい衝撃が体を貫く。何が起こったのか分からない。
(息ができねえ・・・それに、体が熱い・・・!)
そして徐々に全身の感覚がなくなっていく。彼自身の体から何か大切なものがこぼれ落ち、流れ出していくような感覚があった。意識もどんどん闇に引き込まれる。何が起きたのか理解できないが、直感的にこのままでは死ぬだろうと思った。何もせず、何の結果も証も残せていない。
(このままで良いのか?いや、良いはずがないだろう、嫌だ。まだ・・・・)
誰に届くわけでもない、少年の最期の叫び、実際には声を出そうとしても出せていないのかもしれない。最後にどこか遠くでプツンという音が聞こえた気がした。
そうして彼――
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