ありがとう

 何日か前に内川が子猫を不良から守っていた場所に、俺は立っていた。


 自分だけでは、もうどうすべきなのか分からないこの状況を、誰かに頼り相談するにしても、俺は驚く程に孤独だった。もともと人間関係を避けていた上に、ここは過去の世界だ。俺の知り合いなど一人もいない。


 辛うじて知り合いと言える上凪総真や霧島は、まだ小学生だ。さすがに相談を持ちかけられるような相手ではない。


 そうなると、もうここに来るしかない。俺の事は忘れろだとか言っておきながら、守るべき相手……しかも年下の女に頼らなければならない自分の弱さがこの上なく惨めで情けないが、俺のプライドで内川が死ぬのを見過ごすわけにも、人類を破滅に追いやるわけにもいかない。もう体裁を気にしている場合ではないんだ。


 それに、内川の傍にいた方が、何かあった時でも守りやすい。今の俺が、内川の隣にいるべきでない咎人だとしても、それでも、守り抜く。


 誰かの話し声と足音が近付いて来る。心臓が苦しく委縮した。


「あっ……」


 声に振り向くと、セーラー服を着た内川が同じ制服の女学生と並んで立っていた。内川の友人と思われるその人間は、俺と内川の顔を眺めた後、聞いた。


「え? 有希の知り合い?」


「えーっとぉ、まあそんな所……なのかな?」


「あ、もしかしてこの前言ってた……」


「わー! ごめん祥子、私用事思い出したから先に帰ってて!」


 内川は何かに慌てたように、ショウコと呼ばれた女学生の背中を押して俺の奥へと追いやっていく。


「うふふー、ごゆっくりどうぞー」


 ショウコは気味の悪い笑いを浮かべながらそう言うと、足早に去って行った。

 残された内川は、俺の横で俯いたまま黙っている。

 胸が苦しい。俺はまだこんなにも、弱かったのか。


「内川……」


「私、あなたに聞きたい事があるんです」


 内川は俯いたまま話した。


「……何だ?」


「あなたは……一体、誰なんですか? 私の事、知ってるんですか? 何があっても死ぬなって、どういう事ですか?」


 ――どう答えるか。どう言えば、信じてもらえるだろうか。


「……これから俺が話すことは、あまりにも現実離れしていて、突拍子もなくて、馬鹿馬鹿しくて、とても信じられないかもしれない。……でも、全部本当の事で、俺一人では、どうしようもなくて……。だから、お前に、聞いて欲しいんだ……」


 口下手な自分に嫌気が差す。もっと流暢に話せていれば、信頼を得られるかもしれないのに。


「考えて……悩んで……苦しんで……、ここに行きついたんですね?」


 内川はまだ俯いたままだ。


「……ああ、そうだ。……お前からしたら、俺は訳の分からない不気味な存在だろうな。忘れた方がいいとか言っておきながら、こうして待ち伏せして、話を聞いて欲しいなんて……」


「ホントですよ。訳が分かりません」


 ――だろうな。こんな人間、信用できるはずがない。

 でも、俯いたままの内川が少しだけ微笑んでいるように見えるのは何故だろうか。


「あなたは本当に、訳が分からない。……でも」


 そこで内川は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見上げた。その顔は、校舎の屋上で一緒に空を眺めていた時のように、優しく笑っていた。


「そんなに、一晩中泣いてたのが分かるくらい赤い目をした人の言葉、信じない訳がありませんよ」


「えっ……」


 俺の目、赤くなってたのか?


「誰かに相談したくて、でも言えなくて、ずっと辛かったんですよね。その相手に私を選んでくれて、嬉しいです」


「……俺の話を、聞いてくれるのか?」


 内川は誇らしげに、右手で自分の胸元を叩いた。


「もちろんですっ! あなたには以前危ない所を助けてもらいました。今度は私があなたを助ける番です。誰かに助けられたらそれに見合うお礼をしろ! それが内川家のモットーですから!」


「ははっ、そうか……ありがとう……」


 その言葉に、その笑顔に、生まれてからずっと張りつめ続けていた心の糸が、緩んだのを感じた。


 言い慣れない「ありがとう」の言葉が、照れも遠慮もなく、素直に言えるくらいに。

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