俺はまた、守れなかったんだ

 リビングに入ると、いつものようにヤドリギがソファに腰かけていた。


「おう、帰ったか」

「ヤドリギ……。霧島から、聞きました」


 僕の言葉を聞くと、ヤドリギはわずかに口元を釣り上げ、僕を見上げる。

 その表情に、胸の辺りに立ち込めていた怒りが増加する。奴は知っている。僕が何を聞いたか。僕が何を思っているか。僕が、何をするつもりなのか。


「ほう……、何を聞いたんだ?」

「お前が霧島を使って僕を監視させていた事。不良連中をそそのかし、内川を襲わせ殺した事。さらに霧島の怒りを煽り、僕と争わせた事だ!」

「ふむ……」


 ヤドリギがソファからゆっくりと立ち上がった。


「それを聞いてお前は、どう思うんだ?」


 奴はまだ笑っている。怒りで頭がクラクラする。


「……お前が憎い。僕一人ならまだしも、他人の心や命まで巻き込みもてあそんで、許されると思っているのか!」

「フン、他人になど無関心だった冷血なお前が、随分人間らしく振舞うじゃないか。内川や霧島との邂逅かいこうがお前を変えたか?」

「僕を冷血にしたのはお前だ! ヤドリギ!」


 右の拳を握りしめて奴に走り寄り、無精髭の生える頬に向けて振り上げる。ヤドリギは、容易くその拳を弾いた。


「フフ……、いいぞ、組み手の時にはなかったスピードだ」


 すかさず左手のファランクスを奴の腹部に向けて放つ。奴は当然のように僕の手を払って言った。


「何故我々が生きるのか、お前は知っているか」


 反撃を想定して距離を取ったが、ヤドリギは動かなかった。


「……そんなもの、人それぞれだろう」

「フン、個人の生きがいの話をしているのではない。ヒトという種の存在意義を問うているのだ」

「知るか。興味も無い!」


 動かないなら好都合だ。間合いを詰めて殴りかかったが、やはり弾かれる。奴に攻撃の暇を与えないように何度も拳を向けるも、ヤドリギは全て打ち払いながら言葉を続けた。


「妬み、憎み、奪い合い、殺し合う。この世は絶望と苦痛と終わりない欲望で、けがれ切っている。生きる事は重罰だ、苦痛だ、屈辱だ。ならば、この苦しみの世界で何故、我々は生きるのか!」


 ヤドリギの拳が動いた。ギリギリの所で避けると、風を切る低い音が頬を掠めた。


「それは、我等を生み出し、望んでもいないこの荒野に放置した身勝手な神への、復讐だ!」


 ヤドリギが、親指を立てた右手を僕の喉を目がけて高速で突き出した。咄嗟とっさに後ろに飛び退く。こいつは、僕を殺す気だ。


 ……いや、分かっていたはずだ。僕だって、こいつを殺しに来たんだ。これは命を奪い合う戦いだ。


 神経が研ぎ澄まされる。

 周囲の空気がピリピリと肌を刺激する。


「その神への復讐の為に、僕を育てていたというのか」

「そうだ」


 ヤドリギは淡々とした口調で答えた。


「東城達に内川を殺させたのも、僕の怒りをあおる為なのか!」

「……そうだ」


 今度は少し間があった。しかしその違和感は、すぐに僕の憎悪に掻き消された。ヤドリギは険しい顔で僕を見据えて続ける。


「お前はあいつと近付き過ぎた。それでは俺の目的を達成できない。神への復讐を遂げる為、お前は俺を越えなくてはならないんだ!」


 怒りが、憎しみが、心を塗りつぶす。


 神への復讐だと?


 そんな事の為に! そんな事の為に! 内川は苦しんで死んだのか!


 僕はお前を許さない。許さない! 許さない!


「そんなに越えて欲しいなら、望み通り今お前を殺してやるよ!」


 右手の親指を、ヤドリギの喉を狙って突き出したが、ヤドリギは左手でそれを弾いた。弾かれた右手が、キッチンの上に置かれた箸やフォーク等を入れているグラスに当たり、それらが音を立ててばら撒かれた。


 ヤドリギが右の拳を僕の腹部に向けて放った。僕はそれを左手で押さえ、弾かれた右手でキッチンテーブルに散らばったフォークの一本を掴む。


 もうこの世界に内川はいない。あの幸福な微笑みを見る事も出来ない。

 目の前の、この人間が奪ったんだ。大切な人の命も、僕の生きる意味も。

 殺してやる。殺してやる。最早もはやその思いだけが僕を突き動かしていた。


 一秒でも、一瞬でもいい。こいつよりも速く動く。

 この悲しみを、この怒りを、引き裂かれるような胸の痛みを、こいつにぶつけてやる。


 右手に握ったフォークを奴の腹部に向けて突き出す。ヤドリギはその右手を左手で掴んだ。すかさず左手のファランクスを打ち込むと、奴は右手でそれを掴む。ここだ。

 右足で、奴の足を踏みつける。そのまま両手を引き込み、渾身の力で奴の顔面に頭突きを食らわせる。


「ぐっ!」


 当たった! ヤドリギは衝撃で仰け反る。掴まれていた両手が離される。

 まだ気を抜くな。畳みかけろ!

 ガードの開いた胴体に向けて突きを入れようとした瞬間、自分の腹部に衝撃が走った。それと同時に、視界に入っていた風景が前方に吹き飛んだ。何が起きたのか把握した時には、僕はリビングの壁に叩きつけられていた。ヤドリギに、蹴られた。


「がッ……」


 痛みと衝撃で、呼吸が止まる。ヤドリギが、鼻から流れる血を拭い取りながらゆっくりと近付いて来るのが見えた。


「本来であれば、今ので合格だ。だが今は違う。お前は、俺を殺しに来たんだろう」


 体勢を整えなくては。そうしないと、僕が殺される。


「俺はこの世界に絶望している。人間という種の存在に絶望している!」


 ヤドリギは僕の前に立ち、左手で僕の首元のシャツを掴んで立ち上がらせた。


「お前は俺が憎いのだろう。殺したいのだろう。なら俺を殺してみせろ!」


 鋼のような拳が、僕の腹にめり込んだ。痛みで意識を失いそうになる。床に倒れないでいられるのは、ヤドリギにシャツを掴まれているおかげなのかもしれない。


「もはや俺の世界には一かけらの希望も無い。だがお前にはまだやるべきことがある。目を開け。歯をくいしばって前を向け。俺を憎み、俺を越えろ。内川の死が悔しくないのか!」


 霞んだ視界の中、ヤドリギの怒号と共に奴の拳が僕の顔に向かってくるのが見える。

 内川の死……。そうだ、こいつが内川を殺したんだ。僕はもう、どうなってもいい。でも、内川が感じた苦しみを、痛みを、こいつに思い知らせないまま死ぬなんて、そんなことは許さない。

 歯を食いしばって目を見開いた。寸前まで迫っていた奴の拳を左手で受け止める。これで右手は封じた。左手はまだ僕のシャツを掴んでいる。


 僕が、神を貫く刃なのだとしたら、その力を振るうべきは今だ。


 右手の親指を立て、全身に溢れる憎悪と哀しみを込める。爆発する感情が叫びとなって空気を揺らす。

 スローモーションとなった世界で、ヤドリギの脇腹にファランクスを突き刺した。鋭く尖らせた爪は奴のシャツを破き、内川を殺した連中の血が染み込んだ親指は、奴の固い筋肉を貫き引き裂いた。


 首元のシャツを掴んだ手がゆっくりと離れた。ヤドリギがうめき声を上げ、脇腹に突き刺さった僕の右手を振り払う。僕の親指は温かく鮮明な血を纏い、湿った音を立ててヤドリギの体内から抜け出た。


 ヤドリギは傷口を抑え、足を引きずるように後ずさりし、いつものソファに崩れるように座ると、うつむいたまま口を開いた。


「よくやった……。ようやく、……俺を、越えたな」


 僕は自分が呼吸することさえ忘れている事に気付いた。肺に残った酸素を堰(せき)を切ったように吐き出し、血の匂いのする空気を肺に取り込んでいると、痛みと衝撃で失いかけていた感覚が徐々に体に戻り、右腕がピリピリと痛んだ。


 僕は……勝ったのか?


 ヤドリギが押さえる傷口から血が滲み出て、奴の白いシャツを赤く染めている。僕が与えた傷は、致命傷ではない。僕はあいつを殺しに来たのだが、あの傷では奴は死なない。


 全身に疲労と痛みが纏わりついているが、心の底の炎を再び滾(たぎ)らせ一歩踏み出した時、ヤドリギは掠れた声で言った。


「……お前が俺を越えた今、もう隠す必要は無くなった訳だ」


 思わず足を止めた。隠す? 何を言っているんだ。

 ヤドリギは相変わらずソファに座ってうつむいており表情は伺えないが、奴の顔から透明な滴が零れ落ちるのが見えた。奴はそれを隠すように、傷口を押さえていない右手で目元を覆った。


 ヤドリギは、泣いているのか?


 いや、馬鹿な。そんなはずはない。こいつが涙を流すなんて、信じられない。あり得ない。


「どういうことだ? 隠すって、何をだ……?」

「俺はまた、守れなかったんだ」

「……は?」

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