それでも、苦しいんだよ

 放課後前のホームルームで、内川の目はまだ微かに赤かったが、清々しく微笑んでいた。


「あれ、ユキちゃん目が赤いよ。泣いてたの?」

「いやー、ここのところ寝不足でねー」


 内川は頭を掻きながら笑う。


「寝不足は美容の大敵だよー」

「そうだよねー。気をつけるよ。私を待っててくれる誰かのためにもね」


 教室がどよめいた。


「えっ、何それ! 彼氏?」

「ええー、ユキちゃん彼氏いるのー? ショックなんだけどー」

「へへー、秘密だよー」


 騒がしくなった教室の中で、内川と目が合った。すぐに視線を逸らされたが、嬉しそうな笑顔を見ると、前のように胸は痛まないばかりか、また暖かな喜びで満たされていく。どうやら僕達には、秘密の約束が出来たらしい。



 ホームルームが終わり、夏季休暇の近付きに浮き立つ教室の中で、霧島に声をかけられた。


「なあソーマ、これからちょっと付き合ってくれないか」


 霧島は真剣な表情だった。そういえば最近、こいつのニヤけ顔を見ていないな。以前、うつむきがちに何か言おうとしていた所を、佐藤達に邪魔されたことも思い出した。


「構わないが」

「そか。じゃあちょっと付いてきてくれよ」


 そう言うと霧島は、僕を連れて校舎を出て、帰宅路の近くの土手まで歩いた。土手の下の小さな公園を挟んで、川が穏やかに流れているのが見える。公園では子供が野球の真似ごとをし、土手の上は時折運動部の人間が走って行った。ここに来るまで、奴は一言も話さなかった。


「僕に何か用があるんじゃないのか?」

「ああ……まあ、そうなんだ。とりあえず、その辺にでも座ろうぜ」


 霧島はそう言うと、土手の道を外れ、川を見下ろす傾斜の草地に腰を下ろした。仕方なく、僕もその横に座る。


「なあ、最近、どうだよ?」

「……質問の内容が漠然としているな。何を聞きたいのか分からんぞ」

「あー、そうだな……」


 歯切れが悪い。やはり今までの霧島とは随分違う。なかなか本題を出そうとしないので、こちらから切り出してみることにした。


「この前、教室で僕に何か言いかけただろう。用事とはそのことじゃないのか?」

「……お前、やっぱり変わったよな。対人でそんなに気が回るとは思わなかったぜ」

「お前だって随分変わったように見えるぞ。どうしてそんなに大人しいんだ。何かあったのか?」


 僕がそう言うと、霧島はうつむき、右手で髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。


「そんなに言いにくいことなのか?」

「いや、あのさ……」

「何だ」

「お前さ、何か……やるべきことがあるんじゃないのか? ホラ、いつだったか言ってたじゃねぇか、僕には使命があるって……」


 霧島の口から「使命」という単語が出た事に少し驚いたが、すぐに思い出した。小学校の頃、頑なに人と関わろうとしなかった僕に、霧島がその理由を聞いた時だったか。


「……それがどうした?」

「いや……どうなんだ、その調子は?」

「……まだ、終わっていない」


 霧島がこちらを向いた。口元が多少ニヤけてはいるが、無理して笑っているようにも見える。


「じゃあさ、もっとそれに集中した方がいいんじゃねぇの?」


 確かに最近は、ヤドリギを越える為に考えを巡らせる時間は減った。

 でも、得体の知れない使命よりも、内川の笑顔や約束の方が、今の僕には大切なもののように思える。


「確かに、そうなのかもしれないが……」

「だろ?」


 霧島は何故か嬉しそうに念押しした。

 個人の人間の生きる意味と、他者から与えられた使命は、どちらが重いのだろうか。


「……なあ霧島、お前は……何の為に生きているんだ?」

「あ? 俺は、そりゃ……」


 霧島はまた右手で髪を掻き乱した後、しばし動きを止めた。その後、両手で自分の頬を叩いた。……何をしているんだ?


「俺はもちろん、ソーマを見守る為に決まってんだろ!」


 霧島はニヤけた表情を顔中に浮かべ、僕の背中を叩いた。


「何だそれは。気持ち悪いな」

「俺は小学校の頃からソーマの成長を見守ってきたからなぁ。お前が事を成し遂げる所を見届けたい訳さ。だから寄り道なんてしてないで、目的に向かって突き進めって事を言いたかったんだよ」

「今寄り道させているのはお前じゃないか」

「そういう事じゃなくて、もっと精神的な事を言ってんだよー」


 脇目を振らず、僕の使命の事だけを考えていろと言いたいのだろうか。


「何故お前にそんな事を言われなければならない」

「だからそれは親心っつうか、見届けたいという願望だって」


 霧島に向けていた視線を、太陽の光を反射して煌めく川に移し、ひとつ息を吐き出した。

 僕が使命を果たすのを見届ける事が、霧島の生きる意味? 本当にそうなんだろうか。


「じゃあ、さっきまでの思い詰めたような態度は何だったんだ? 僕が寄り道している事がそんなにも苦痛だったか?」

「あ、いや、それはさ……」


 霧島はニヤけ顔を止め、また深刻な表情でうつむいた。やはり何か抱えているようだ。


「……いいんだよ、俺は。俺だけの問題っていうか、お前に言ってもしょうがないっていうか……。お前がやるべき事だけを見据えていてくれれば、それが俺にとって一番ありがたいんだよ」


 こいつも、ヤドリギも、肝心の話の核心を喋らない。そういえば内川さえも、「やっとまた会えた」という件について深く話さなかった。

 まあ、ヤドリギの言う使命は別として、話したくない事を深追いするつもりはない。立ち上がり、ズボンに付いた草を払い落す。


「そうか。ならもう行くぞ。僕に寄り道している暇は無いらしいからな」

「おう……頑張れよ」


 霧島は座ったまま、川を見ているだけだった。霧島が座る坂とは反対側の、土手から降りる階段に足を掛けると、背中の方で霧島の声が聞こえた気がした。


「それでも、苦しいんだよ……」


 振り返ったが、ランニングをする運動部の連中に隠され、奴の姿は見えなかった。


   *


「ふむ、少しはキレが戻ったようだな。自身の成すべき事をようやく自覚したか?」


 ヤドリギに腕を押さえられ、床に捩じ伏せられながらも、僕は自分の考えを曲げるつもりはなかった。


「……僕に課された使命、それを忘れた事はありません。それでも、僕は人の心を捨てるつもりはありません。使命を完遂し、人間としての幸福も掴み取ってみせます!」


 ヤドリギが僕の腕を離し、立ち上がった。全身の痛みから解放される。


「……内川との約束だな」


 雷に打たれたように感じた。


 反射的にヤドリギの顔を見上げる。僕を見下ろす奴の顔は、天井からのライトの逆行で影になっているが、苦渋と悔恨の混ざったような表情に見えた。


「な、何故それを……!」


 ヤドリギは背中を向けた。何かを考えているように、うつむいているように見える。


「やはり、こうなるのか……」

「え……」

「お前が……本当にその約束を果たしたいのなら……。一刻も早く俺を越えなくてはならない。お前はやはり、俺を越える事だけを考えろ」

「何故いつも肝心な所を話してくれないのですか! ヤドリギを越えなくては、果たせない約束ということなのですか!」

「そうだ! その理由が必要だと言うなら、それを得る為にも俺を越えてみせろ!」


 ヤドリギはそう言い残し、部屋を出た。奴がさっきのような感情的な大声を出すのは初めてだった。

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