試してみていいですか

 昼休み、屋上でいつもの栄養補助食品を齧っていると、扉が開いて内川が出てきた。


「やっぱりここにいた。またご一緒してもいいかな?」


 内川がにこやかに、手に持っているビニール袋を掲げて言う。


「……構いません」


 内川は小さく笑うと、僕の横で金網に背中を預けた。


「今日、教室で佐藤さん達と話してたね。何を話したの?」

「僕が一方的に取り囲まれて話を聞かされただけです。会話とは言えません」

「そっか。それでもいいんだよ。人の話を聞いて、その人の考えを、思いを受け止める。そして自分の中で解釈する。それについて自分がどう思うか考えてみる。それも大事なコミュニケーションだよ」


 内川はビニール袋から取り出した握り飯のフィルムを剥がしながら言った。


「僕にコミュニケーションは必要ありません。自分がやるべき事をやるだけです」

「またそう言ってすぐに逃げ出しちゃう」


 内川が不満そうな顔を僕に向ける。


「逃げ出しているのではありません。不要なものを取り除いているだけです」

「うーん、上凪くんは一見完璧なようだけど、大きな弱点があるね。それが何か分かる?」


 弱点?

 初動の遅れ、攻撃時の隙、行動の規則性……。自分で思い当たる弱点は全て改善してきたつもりだったが。内川は僕の弱点を見抜いているとでもいうのか。もしかしたらそれが、ヤドリギを越えるヒントになるかもしれない。


「……分かりません。教えて下さい」


 少し屈辱だったがそう聞くと、内川は嬉しそうに笑って言った。


「いいでしょう。……上凪くんはね、他人との関わりを恐れてるんだよ」


 予想外の回答だった。


「……僕が、恐れている?」

「そう。自分以外の人が、何を考えているか分からないでしょ。何をされるか、何を言われるか分からない。どう接したらいいか分からない。だから関わりを避けて、一人になりたがる。……そうでしょ?」


 他者との関わりなど、無意味なものだと思っていた。だからこそ不必要な関係を避け、他人を遠ざけてきた。それが有意義な時間を作る手段だと考えていた。

 でもそれは、僕が他人を恐れているからだというのか?


「いや……、違います。他者との関わりが、僕には不要だからです」

「ほら、逃げてるじゃん」

「なっ……」


 逃げている訳ではない。他人など、弱く無能なだけの存在だ。うるさくて、わずらわしいだけだ。そんなものと関わっている時間がもったいないと思うのは当然だ。

 内川はしばらく僕の表情を伺っていたが、手に持った握り飯をビニール袋にしまい、金網の突起に引っ掛けると、僕の正面に立った。


「……何ですか?」

「ふふふー」


 内川は何かを企んでいるかのように僕を見上げて笑った。

 何だ。何をする気なんだこの人間は。


「えいっ!」

「うっ?」


 突然、内川が僕の体に腕を回し、抱きついた。


「な、何ですか!」


 内川の小さな頭が、僕の胸辺りにある。


「ほら、怯えてる。心臓がドキドキしてるよ」

「……これは、驚いただけです。離れて下さい」


 内川が腕に込めた力を少し強めるのが分かった。


「私は何もしないよ。君に危害を加えないし、無闇に傷付けるような事も言わない。だから大丈夫。安心して」

「……そんなのは分かっています。あなたは僕の敵ではない」

「ううん、違うの」


 内川が首を振った。黒い髪が制服で擦れる音がした。


「敵だとか、敵じゃないとかじゃなくて、私を信頼して、私に身を委ねてみて」

「身を委ねろと、言われても……」

「体の緊張を解いて、呼吸をゆっくりにして、リラックスするの」


 制服を通して、内川の体温が伝わってきた。温かい。

 小動物は体温が高いらしいが、これもそういうことなんだろうか。……いや、違うか。悔しいが、確かに軽いパニック状態になっているようだ。

 一つ息を吐き出して、目を閉じた。今は言われた通り、リラックスしてみよう。


 ……。

 どこかで鳥が鳴いているのが聞こえた。

 木々のそよぐ音も聞こえた。

 仄かな風も感じた。

 内川のいる位置から、微かに甘く爽やかな匂いを感じた。香水だろうか。

 胸元から背中にかけて、内川に触れている感触がある。所有されているような、守られているような、そんな感覚を覚える。

 心地良い。今まで感じた事のない、落ち着いた気分になる。これが安心感というものなのだろうか。

 内川が腕の力を緩めたのが分かった。


「うん、胸の鼓動がゆっくりになってきたね。素直でいい子だね、上凪くんは」


 内川にそう言われ、胸の辺りが暖かく満たされたような感覚になった。

 何だろうこれは。嬉しいのか?


「気持ちいいでしょ。心が、落ち着くでしょ」

「……はい」


 僕が答えると、内川はぱっと離れた。

 胸の辺りに満ちていた心地良い感覚の中に、微かに冷たいものが混じったように感じた。何なんだ、これは。残念とか、寂しいとか、そう表現するのだろうか。さっきから、自分で驚くような感覚ばかりだ。

 目を開けると、内川が満面の笑みを浮かべていた。再び心臓の辺りに満ちてきた感覚は、先ほどよりも熱く感じた。


「分かってもらえたかな」

「……何をです?」

「コミュニケーションの大切さだよ。さっきのはちょっと極端だったかもしれないけど、人間同士の触れ合いとかやり取りって、私達の生きる意味、『幸せ』の基盤なんだよ」


 また『幸せ』か。内川はこの言葉が好きなようだな。

 でも、何となく、分かる気がする。

 先ほど感じた心地良さ、安心感は、『幸せ』と呼んでもよかったかもしれない。

 『幸せ』か。僕に課せられている使命の、その先には、『幸せ』があるんだろうか。


「幸せになるためには、コミュニケーションが必須だ、と言いたいのですか?」

「うん、それもあるけど、それだけでもないかなぁ」

「……?」

「うーん、あんまり定番な事は言いたくないんだけど……」


 内川は金網にかけたビニールの場所に戻りながら言った。


「人はね、やっぱり一人じゃ生きられないんだよ。色々と便利になって、人間同士が直接関わる機会は昔に比べてぐんと減ったけど、それでもやっぱり、人は誰かに頼ったり、すがったり、助け合っていかないと、生きていけない弱い生き物だと思うんだ」


 人間は、弱い生き物か……。


「それは、僕もですか?」

「もちろんだよ。上凪くんだって、人間だよ」


 ハッとした。僕だって、人間……。

 今まで、僕の周りにいた人間で、僕をそのように見る者はいなかった。機械のようだとか、人間離れしている、人間味が無いとか、そのような評価ばかりだった。


「上凪くんは頭良いし、運動も出来るし、家事も全部やってるみたいだし、すっごく強いと思うけど、それでも何も無い世界に上凪くん一人しかいなかったら、食べ物とか、服とか、家とか、作り出せないでしょ」


 そんなの、当たり前だ。ヤドリギから畜産学も農学も建築学も学んで頭に入っているが、実践するとなると話は別だ。


「……はい」

「だから、人は人に頼るんだよ。それぞれ得意な事を分担して、分け合って、補い合うの。それってすごく素敵なシステムだよね。よく、支え合うから『人』だっていう話があるけど、世界に何億人もいる人々が、みんなでみんなを支え合って生きていると思うと、ちょっと感動しちゃうな」


 内川は笑顔でそう言ったが、すぐに悲しげな顔になった。


「でも、人は弱いから、……弱いからこそ、不安になったり、臆病になったり、ずるくなったりして、それで奪い合ったり、争ったりするんだよね」


 風が一つ吹いて、内川の髪を揺らした。内川は右手で髪を掻き上げ、耳に掛けた。


「戦争なんかも、そうだよね。誰も幸せにならないって、きっと皆分かってるのに、信用できなくて、疑り合って、いつまでも終わらないんだよね……」


 戦争か。今朝も食卓のラジオでは、未だに終焉の気配を見せない国外の戦争の激化が報じられていた。今はこの国は平和だとは言え、いつ争いの火の粉が降りかかってくるかも分からない。

 僕も、戦争には賛成できない。内川は「誰も幸せにならない」と言ったが、実際は、一部の権力者、政治家や、武器商人などが、自分の立場を守るためであったり、相手を失墜させるためであったり、私腹を肥やすために、国民や兵士の信仰心、正義感などを煽って、利用しているのが実情だろう。一部の人間が、自らの『幸せ』の為に、自分は安全な所でゲームの駒を動かすように、人々の命を利用している。


 ……いや、そんなものは、内川が言うような『幸せ』への希求とは違うな。人間が持つごう、『欲望』の追求に過ぎない。持たざる者は持ちたいと思い、持つ者はより持ちたいと願う。その為に、欺き、奪い、利用する。人間の愚かさの極みだ。きっとその先にあるものは、内川が言うような『幸せ』なんかではないのだろう。


 内川は金網に指をかけ、遠くの空を見つめながら、呟くように言った。


「みんながみんなを信じて、戦争とか、争いの道具とかが、この世から全部なくなれば、いいのにね……。そうすればもっと、この世界は、もっともっと、素晴らしいものになると思うのに。どうして私たちはそれが出来ないんだろうね……」


 完全なる平和。それは確かに理想の世界だろう。でも、とても難しい事だ。

 誰か一人でも武器を持っていれば、それを恐れ、自衛の為に他の者も武器を持つ。正義の為と武器を持つ者を討てば、恐怖や憎しみが生まれ、復讐が始まるだけだ。人間が、自分以外の全員を信頼し、同時に武器を捨てなくては、その世界を実現する事は出来ない。もしくは、絶対的な支配力を持つ存在が、全人類を統率するか……


 どちらにしろ、人類が存続する間でそれが実現する可能性は、限りなくゼロに近いと言ってもいいだろう。

 ……それでも、目の前の幸福な人間が望む、幸福な世界を、実現してやりたい。それが叶った時の、この人間の幸福な笑顔を、僕は見てみたい。


「……あれ、何か違う話になっちゃったね。ごめんね」


 内川は僕の方を向き、何故か謝った。


「……いえ」

「えーと、そうそう、コミュニケーションの話だっけ。……だからね、幸せになるためだけじゃなく、私たちが普通に生きる事でさえ、コミュニケーション無しでは成し得ない。だから上凪くんも、周りの人を信用して、もっと気楽に楽しく話してみよう。そこから『幸せ』に繋がっていく事だってあるんだよ、って事を、言いたかったの」


 自分自身が『幸せ』の為に生きているという事を、まだ実感出来ていないが、先程内川に抱きしめられた時に感じたような満たされた感覚は、また味わいたい。人間がその為に生きているという言葉も、分からなくはないと、思える。

 それが、他者とのコミュニケーションの先にあるのだろうか。本当にそうなら、試してみる価値は、あるのかもしれない。


「……ええ。分かりました。努力してみます」

「そっか。良かった! やっぱり上凪くんは素直でいい子だね」


 内川が笑った。初夏の太陽がその笑顔を照らし、キラキラと輝いたように見えた。

 何故か分からないが、胸の辺りに苦しいような、痛いような、曖昧で漠然とした感覚が湧き上がるのを感じた。


「……先生」

「ん?」

「さっそく、試してみていいですか」


 内川は嬉しそうに笑った。それを見て、胸の苦しみが強さを増す。


「もちろんだよ! 私でよければ喜んで相手するよ!」

「そうですか……」


 それを聞いて、僕はゆっくり手を伸ばした。内川の小さな肩を越え、背中の方に回す。


「えっ? えっ? 何?」


 内川はうろたえている。胸の漠然とした苦しみが、心臓を強く速く叩いているようだ。


「ちょ、ちょっと待って上凪くんっ……」


 背中に回した腕に少し力を入れ、内川を抱きしめる。小さい体だ。簡単に壊れてしまいそうだ。


「あっ。か、上凪くん……、これは、ダメだよ……」


 僕の腕の中で内川がもぞもぞと動いた。さらに力を入れ、強く抱きしめる。あの暖かな幸福を、また僕に感じさせてくれ。


「うぅ、上凪くん、ダメだって……」


 いくら強く抱きしめても、先程のような安心感は、微塵も感じない。ただ胸の苦しみが強さを増すばかりだ。


「……先生は良くて、何故僕はダメなんですか?」

「だって、それは……」


 校舎からチャイムの音が響いた。内川が僕の体を押し、腕を振り払った。

 顔を真っ赤にした内川は、僕から少し距離を置き、うつむきながら早口で喋った。


「わ、私の例が良くなかったかな。ごめんね。でも、コミュニケーションは抱きしめる事だけじゃないからね。もっと、お喋りとか、そういうライトなものから始めないとだよ。じゃ私、ご飯食べないとだから、行くね。ごめんね」


 そう言うと、内川は金網に掛けたビニール袋を持って、走って校舎に入って行った。

 残された僕は、自分の腕を見つめてみる。僕の腕では、幸福を感じることは出来ないというのだろうか。胸の痛みが鋭さを増した気がした。


 その日の教室への帰り道では、霧島には会わなかった。

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