僕が望む空白
内川と屋上で話をした日から、どういう訳か、授業中の問題の解答に指名されるようになった。今までは、どう思っていたのか知らないが、教師達は誰も僕を指名しなかった。正直、その方がありがたかったのだが。
単純な問題の解答を答えると、教師達は皆、安堵と満足を混ぜ合わせたような笑顔を見せた。
「ふむ、さすがだな、上凪。飛びきりの問題をぶつけたつもりだったんだが」
物理を教える金田が、黒縁の眼鏡を押さえながら低い声でそう言った。
僕はチョークを置き、教壇の前で腕を組んで黒板を見つめている背の低く小太りな金田を見据えて、
「空気抵抗有りの問題は高校の物理の範囲外ではないのですか?」
そう言うと、金田は少し慌てた様子で弁解した。
「あ、いや、そうなんだが……。す、すまん。ちょっとお前を試してみようと思ってな……」
「この授業はあなたの好奇心を満たすための時間なのですか?」
教室が少しザワつく。
「い、いや……そうだな、私が間違ってたよ。……すまん」
金田が頭を掻きながら謝罪した所で、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「じゃあ今日はこれまでだ。今日宿題忘れた奴は明日必ず持って来るように!」
チャイムが鳴り騒ぎ始めた教室に向かって、金田は赤い顔で怒鳴りつけ、そそくさと教室を出て行った。
黒板の前でそれを見送った後、自分の席に戻ろうと視線を戻すと、霧島がいつものニヤけた顔で近付いてきた。また、「教師をイジメるな」とでも言う気なのだろう。
そう思いながら歩き出すと、霧島よりも先にクラスの女子が四人走り寄ってきて僕を取り囲んだ。クラスメイトの人間に興味は無いが、名前と顔は全員記憶している。鈴木、黒崎、佐藤、大沢だ。様々な形をした揺れる頭の間から、霧島の驚いた表情が見えた。
「上凪くん、やるじゃんー」
「あの金田が困惑してるの、爽快だったよねー」
「うんうん、わたし笑いを堪えるので必死だったよー。ぷくくっ」
「金田の嫌がらせを冷静に
先程の金田とのやり取りの話か。どうやら僕の応答が、この人間達には痛快だったらしい。
「金田っていやな奴でねー、セクハラと他人の揚げ足取りが生きがいみたいな奴なんだよ」
「そうそう。難しい課題出して、期限に間に合わなかった人は男子は正座で女子は背中叩きなんて、あれ絶対女子の体触りたいだけだって。あー気持ち悪い!」
そう言うと佐藤は自分の体を抱えて身震いをした。金田のその様な噂も行動も知っているが、課題を期限までに出せばいいだけの話なのではないのか。
「だから、上凪くんのおかげでちょっとすっきりしたよ、ありがとー」
大沢が僕の制服の裾を掴みながら、笑顔でそう言った。
「そうか、それは良かったな。席に戻るからとりあえずどいてくれ」
「キャー!」
なるべく迷惑そうな声で言ったつもりだったが、僕を取り囲む人間は何故か嬉しそうに笑っている。こいつらには言語が通用しないのか?
少し離れた所で様子を伺っていたらしい霧島が、ようやく近付いてきた。
「ソーマぁ、女の子にはもっと優しくしろよ。せっかく話しかけてくれたんだから」
「今は上凪くんと話してんのー。霧島は黙っててよ」
「あぁ? なんだよー、ソーマの冷酷な牙から、か弱い女子を守ってやろうとしてんのに」
霧島はいつもの軽い調子だった。この前の大人しい態度は何だったのか。
「上凪くんは女の子を傷付けたりしないよねー」
「そうだよー、優しいんだよー」
その言葉に、何故か屋上での内川との話が思い出された。
(実は先生、上凪くんのことちょっと怖いかもって思ってたんだけど、本当は優しい人なんだよね)
(そう思うのは、言われ慣れてないからだよ。もっと先生とかクラスのみんなにも打ち解けて、話してみようよ。その方がきっと楽しいよ)
僕が優しいだなどと、そんなことはあり得ない。寧ろ、冷酷で、人間味の無い、機械のような存在だろう。実際、過去にそう言われた事もある。
「僕は優しくなんてない。僕を構ってもお前達の得になるようなことは何一つ無いぞ。席に戻れ」
僕がそう言うと、取り囲む人間達は少し目を見開き、無言で僕を見つめた。
胸の辺りに痛みが走った。何だ、この痛みは。心臓を握り潰されるような、そんな痛みだ。
そういえば、僕がまだ幼い頃、同じように人間達に囲まれ、見られた事があった。「怖い」「何考えてるか分からない」「不気味」などと、その人間達は口にしていた。
お前達がどう思おうと、僕には関係ない。僕には使命がある。そう言い聞かせ、心臓の辺りに纏わりつく理由の分からない恐怖や吐き気を抑え込んでいた。やがて人間達は僕に距離を置くようになり、その静かな空白を僕は喜んだ。
今、僕を取り囲むこの女達も、あの時の人間のように僕を見ているのだろう。
霧島がニヤけた顔で、大沢と佐藤の肩に手を置いた。
「そーいうこと。だからお嬢様方、この冷たい狼に心を傷つけられる前に、早く安全な所へお逃げ下さい」
そうだ、あの時も、霧島だけは僕を構い続けた。小学校や中学校で、自由にペアやグループを組んで行動するような時、机から動かない……いや、動けない僕の所に、霧島はすぐに飛んできた。霧島は勉強もそこそこ出来、運動も上手く、性格も柔軟で人懐っこくて、誰にでも人気があるのに、何故僕を構うのか、今も分からない。
僕には使命がある。やるべき事がある。らしい。それでも、集団の中で取り残される恐怖と孤独は、僕の心を凍り付かせた。その中でも、正気を保っていられたのは、使命に向かい続ける事ができたのは、もしかしたら、お前のおかげなのかもしれないな、霧島。
そんな事を考えていたら、僕を見上げて
「もーう、上凪くん超カッコイイー!」
「そしてかわいいー!」
「そんなクールで暗い所が、母性本能くすぐるよねー。てか気易く触んないでよ霧島ー」
佐藤が肩に置かれた霧島の手を振り払った。
カッコイイ? かわいい? 理解出来ない。
霧島も、目を丸くしていた。この女達の言葉を聞いてだろうか、それとも手を振り払われた事に驚いているのだろうか。
そんな霧島に目もくれず、女達はキャイキャイと騒ぎ続けた。
「上凪くんって近寄るなオーラ出してるから、なかなか声掛けられないんだけど、実はけっこう隠れファンいるんだよ」
「そうそう。頭よくて冷静で、運動神経も良くて、権力に屈しない所とかねー」
「そんな中でも時折見せる寂しげな横顔とかに、キュンとしちゃうんだよー」
「そー、私が守ってあげたいーみたいな!」
「あんたじゃ守るどころか守られもしないでしょ!」
女達はキャハハと耳障りな高音で笑う。いい加減解放してもらえないだろうか。
霧島がはしゃぐ女達に割り入った。
「ちょっとちょっとお嬢さん達、こいつを過大評価しちゃいないかい。それに誉めたって仲良くなれる望みは無いぜぇ」
「あんたはさっきからどうして邪魔するのよー」
「そうだよー、霧島に話してるんじゃないんだから、どっか行ってよ」
「もしかして嫉妬してんの? あんたなんか上凪くんに敵う訳ないじゃん!」
そう言って女達は割り込んできた霧島を押し戻している。
「なんだとぅ! お前らを心配して言ってやってんのに……」
霧島が抵抗していると、教室の扉が開いて内川が入って来た。次の授業は国語だったか。
「あら、みんなで上凪くんと遊んでるの? うふふっ」
内川が幸せそうな笑顔で近づいてくる。これが遊んでいるように見えるのか?
まあ、幸福の回路を頭に持っている内川にはそう見えるのかもしれない。
「ユキちゃん聞いてー、さっきね、上凪くんが物理の金田にねー」
佐藤が内川に駆け寄って話しだした。それを機に残りの三人も内川に群がる。ようやく解放された。
一つ息を吐き出して、席に戻るため歩き出した。霧島が絡んでくるかと思ったが、奴は複雑な表情で内川を眺めているだけだった。
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