幸せとは、何ですか?

 つまらない授業を終え、昼休み。校舎の屋上で金網に身を預けて、ヤドリギに攻撃を当てるための戦略を考えながら固形栄養調整食品を咀嚼していると、校内に通じる扉が開いて人が一人出てきた。


「あっ……」


 その人間は僕に気付いて少し躊躇ったようだが、やがてゆっくりと僕に近付いて来た。担任の内川だ。手に小さいビニール袋を提げている。


「……上凪くん、いつもここでお昼食べてるの?」

「ええ」

「あ、そんなの食べてー。そういうのって栄養はあるけど、ちゃんと野菜とかも摂らないとダメなんだよ」

「知っています。朝と夕食はちゃんとしたものを作って摂取しています」

「え、上凪くんが料理するの?」

「はい」

「そ、そうなんだ。すごいねぇ」


 内川は僕の隣に来て金網に寄りかかり、ビニール袋から何か取り出した。透明なフィルムに包まれている握り飯だ。コンビニエンスストアに入ったことはないが、そこで売っているものであろうことは想像が付く。


「かく言う私もコンビニおにぎりでね……。恥ずかしいけど料理とか全然しないんだ」

「そうですか」


 内川はフィルムを剥がして中の白米を一部露出させ、さらにフィルムに包まれている海苔を引き出しつつ白米に巻いた。……良く出来ているな。手を汚さず、海苔を湿気らせる事もなく、握り飯が完成するという訳か。


「朝と夜も買って食べてる点では、自分で料理してる上凪くんに何も説教できないなぁ。親御さんは、お忙しいの?」

「親はいませんが?」

「えっ……、そ、そうだったの、ごめんなさい……」


 内川は頭を下げた。


「生徒のこと、何も知らなくて……、私先生失格だね……」

「いえ、別に構いません」

「でも、その、家族の方は、いるのよね? おじいさんおばあさんとか、御兄弟とか、親戚の方とか?」

「後見人はいます。もう行っていいですか?」


 自分の昼食は食べ終わった。いつもは昼休み終盤まで一人で屋上で過ごすのだが、他人の昼食と雑談に付き合う義理は無い。教室にでも戻って戦略の続きを考えたい。


「あ、待って、もっと上凪くんのこと教えて」

「何故あなたに教えなければならないのですか?」

「コ、コミュニケーションだよ。先生を助けると思って、もうちょっとだけ付き合ってよ」


 溜息をついて、浮かせた背中を再び金網に押し当てた。


「ふふ、ありがとう。実は先生、上凪くんのことちょっと怖いかもって思ってたんだけど、本当は優しい人なんだよね」


 内川は僕を見て笑って言った。僕が優しい? どこがだ。この人間は変わった思考をしているな。


「そのような評価をされるのは初めてですし、予想外です」

「そう思うのは、言われ慣れてないからだよ。もっと先生とかクラスのみんなにも打ち解けて、話してみようよ。その方がきっと楽しいよ」


 結局説教か。弱く騒がしいだけの人間達に慣れ合っているような暇は無い。そんな時間があれば、少しでも戦略を練っていた方が有意義だ。


「楽しさの為に生きてる訳ではありません」


 そう言うと、内川は少し驚いたような表情をして、僕を見上げた。


「じゃあ、何の為に生きてるの?」


 何の為に生きているか。そんなの、賢く、強くなって、ヤドリギを越えるために決まっている。

 では、それは何の為なのか……。何の為に、ヤドリギを越えるのか……。

 ヤドリギを越えた、その先。僕の使命。僕は、何の為に生きているのか。


「……まだ、よく分かりません」

「そっか……」


 内川は神妙な面持ちをして俯いたが、やがて口元が歪み、嬉しそうに笑いだした。


「うふふ……、ふふふっ」

「……何かおかしな事を言いましたかね」

「ううん、違うの。何だか嬉しくて」

「嬉しい?」

「うん。上凪くんて頭も良くて運動も出来て、何だか完璧超人みたいに思ってたけど、普通の高校生の男の子みたいに生きる意味が見つからなくて悩んだりもするんだなぁって思ったら、急に親近感が湧いてきちゃって」


 僕の場合、別に見つからなくて悩んでいる訳ではないのだが……。説明したいとも思わないので黙っていた。


「先生で良かったら、何でも相談に乗るからね。何でも話してね」


 何でもか。ヤドリギに勝つにはどうしたらいいですか。そんなことを相談して、この人は答えられるのだろうか。その光景を想像したら如何いかにも滑稽で、思わず笑ってしまった。自分が笑うということに、内心微かに驚きながら。


「ははっ」

「えっ? 何? 私何か変な事言った?」

「いえ……。あなたは、何の為に生きているんですか?」

「私は教師だから、もちろん生徒達みんなを正しい道に進ませる事だよ。あとは、自分自身の幸せの為だね」

「幸せ……?」

「そう、人はみんな、幸せになるために生きてるんだよ」


 人は、幸せになるために生きている。

 そうなのか? それには、僕も含まれるのか?

 そもそも、幸せとは何なんだ。以前霧島が、僕を幸せな体だと言っていたが、僕は幸せなのか?

 ヤドリギは僕にあらゆる知識を教えたが、幸せの定義は教わっていない。


「……幸せとは、何ですか?」

「うーん、それは難しい質問だね。色んな考え方はあるけど、結局は自分が見つけるしかないと思うの。自分はこれが嬉しい、楽しい、そう思えること。それを探すのも、人が生きる意味かもしれないよね」

「漠然としていて分かりません。具体例を挙げて下さい」

「幸せの具体例かぁ……。例えば、自分の趣味に没頭している時間とか、天気の良い日の散歩とか、綺麗な景色を見つけた時とか……」


 幸せとは、その程度の事なのか。それくらいなら自分にも……

 そう考えて、趣味と言えるものもなく、景色に対して綺麗と思えるような心も持ち合わせていない事に気が付いた。

 もしかして僕は、幸せではないのではないか?


「あとは、好きな人のそばにいる時とか……。上凪くんは、好きな人はいないの?」

「好きな人? それは、好感を持てる人間ということですか?」

「うーん、まあそうなんだけどちょっと違うかなぁ。近くにいるだけで胸がドキドキしたり、ぎゅって苦しくなったり、暖かい気持ちになったりするんだよ。恋とか愛っていうやつ。したことないの?」

「……聞いたことはあります」

「そっかぁ」


 内川は少しうつむいて、思い出したように握り飯を少し齧った。


「どうやら僕は、幸せではないようですね」


 そう呟くと、内川は目を見開いて、僕を見上げた。


「そんな事ないよ! ……ちょっと待ってね」


 内川はそう言うと黙って顎を動かしている。口に入れた握り飯を咀嚼しているのだろう。餌を頬張った小動物のようだ。やがて小さく頭を上下して飲み込んだ後、再び僕を見上げて口を開いた。


「幸せってね、気付きにくいけど、実はそこら中に転がっているんだよ。ちょっと目を閉じてみて」

「何故です?」

「いいから、ほら」


 内川が両手を上に伸ばし、僕の目を塞いだ。世界が閉ざされ、仄かな闇に覆われる。内川の腕に通しているビニール袋が、風に吹かれてカサカサと音を立てた。

 小さい手だ。柔らかくて暖かく、少ししっとりとしているのが、目元の皮膚を通して伝わってくる。


「……何ですか?」

「目を閉じて、太陽の暖かさを感じるの。体を撫でる風の優しさを、木々のそよぐ音を感じるの。ゆっくり深呼吸して、空気の美味しさを感じるの」

「……」


 言われた通りにしてみた。初夏の太陽の程良い暖かさ、体を撫でる風、さらさらと鳴る木々の音を、確かに感じる。空気の美味しさは分からないが、肺一杯に新鮮な酸素を取り入れる事の気持ちよさは理解出来た。


「気持ちいいでしょ。世界の優しさを感じない?」

「また抽象的ですね。……でも、何となく分かります」


 内川がそっと手を離した。


「そしたら、少し上を向いてゆっくりと目を開けて。太陽は見ないようにね」


 また、言われた通りにしてみる。ゆっくり目を開けると、どこまでも続く澄んだ水色の空と、所々に柔らかそうに浮かぶ白い雲が見えた。遠くに鳥も飛んでいる。じっと見ていると、雲がゆっくり動いているのが分かる。

 内川が僕の視線の方向を向いて、口を開いた。


「綺麗でしょ。空って凄いよね。大きいし、綺麗だし、時間によって表情を変えるんだよ。朝焼けのオレンジも、爽やかな青と雲の白も、夕焼けの赤も、夜の紺と星々の黄色も……。人間が作ったどんな芸術作品よりも綺麗だと、私は思うんだ」

「……確かに、壮大な印象を受けますね」


 内川は僕を見て微笑むと、続けた。


「じゃあ今度は、こっちを見てみて」


 指をさす方に視線を移すと、屋上の金網を隔てた先に、校庭にある花壇が目に入った。色とりどりの花が咲いている。


「花……ですか」

「そう。カンパニュラ、デルフィニウム、ベゴニア、クレマチス……他にもあるけど、忘れちゃった。近くでちゃんと見るともっと綺麗なんだけど、ここからでも綺麗でしょ。色んな色があって、みんな太陽を浴びて嬉しそうにキラキラ輝いてるよ」

「嬉しいかどうかは分かりませんが、輝いてはいますね」

「花が風に吹かれて揺れると、最高に可愛いよね」

「……そうですか」


 それは良く分からなかった。今度近くで見てみるか。


「花も、すごいよね。世界にはきっと何万、何十万もの種類があって、その全てに名前が付いていて、みんな違う形や色や匂いで、毎年毎年綺麗に可愛く咲いてくれるんだよ。空と比べるとっても小さいけど、何万年も受け継いできた何億もの遺伝子や細胞が毎日頑張って成長して、こうして私たちに綺麗な花を見せてくれるんだよね」


 何が言いたいのか、いまいち読み取れない。


「つまりね、そんなすごくて綺麗なものが、町中に、世界中に溢れてるんだよ」


 内川は僕の方に向き直り、両手を広げて続けた。


「花だけじゃなくて、猫も、犬も、草も、私たち人間だって、たくさんの奇跡と長い時間と、苦労や努力や、優しさや愛の果てに存在していると思うの。そんな素敵なものたちが、暖かい太陽に照らされて、気持ちのいい風に撫でられて、綺麗な空の下でキラキラと世界中に存在してると思うと、とっても幸せじゃない?」


 広げた両手を胸の前で重ね、満面の笑みでそう言った。

 青い空に太陽が煌めいて、風が内川の髪を揺らした。

 視線を遠くに向けると、新緑の木々が風に揺れて太陽の光を乱反射している。


「成程……。何となく、分かりました」


 幸せとは、何かの物質や事象ではなく、そこに幸福を見出せる心理の事を言うのだろう。その心理を持つ者は、あらゆる事を肯定的に捉え、幸福と感じられるのだろう。その者は、なんと幸せなのだろう。


「分かってくれた?」

「ええ……。あなたは、幸せですね」


 僕を見上げる目を見据えて言うと、内川は慌てたような顔をして視線を逸らした。


「そ、そうかな……。上凪くん……、微笑むと、反則だね」

「え?」


 左手で自分の顔を触ると、口元の筋肉が微かに吊り上っているのが分かった。自分が、いつの間にか微笑んでいたというのか。

 下らないだけだと考えていた世界が、今はわずかに輝いていた。


「先生、すみません。僕はあなたを見くびっていたようです」

「えっ、今先生って呼んでくれた? あれ、でも見くびってたって……?」

「あなたは、僕の知らない事を沢山知っていますね。あなたと話していると、とても新鮮な心情になります」

「あ、ありがと……、あれ、素直に喜んでいいのか難しいな……」


 内川が顔を赤くしながら複雑な表情をしていると、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。


「あっ、やばい、全然食べてない」

「では、失礼します」


 急いで握り飯を齧る内川を置いて、僕は教室に向かった。古びた白い金属の扉を開けると、階下に向かう階段の前に、腕を組んで背中を壁に預ける霧島が立っていた。


「……何か用か?」

「ん、いや……。何話してたんだ?」


 霧島は珍しくニヤけていなかったし、いつものような軽い調子でもなかった。


「……どうした。お前らしくないな」


 前を横切り、階段を下り始めると、霧島は後ろから付いてきた。


「ははっ、俺らしさって何だよ……」

「いつもニヤニヤ、ヘラヘラ、チャラチャラした印象だ」

「ひでーな。……ま、その通りなんだがな」


 霧島は少し鼻で笑って肯定した。やはり、単純な言い方をすると、元気が無いように思える。が、こいつの調子など知った事ではないので、後ろを付いてくる奴の静かさに、若干の心地良さすら感じながら教室に戻った。

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