内川有希

 翌日の高校、朝のホームルームが終わった後、担任の内川が黒い厚紙に挟まれた冊子を両手に持って、僕の前におずおずと歩いてきた。昨年、僕が入学した年からこの高校に赴任したらしい、新任の女教師だ。国語の担当だが、今年度から僕が所属するクラスの担任となった。親しみやすいキャラクターのようでクラスの生徒には人気があるようだが、僕にだけ妙な態度を取る。


「あ、あの、上凪かみなぎくん……。一応今日、日直ってことになってるから、すみませんけどこれ、お願いしますね……」


 表紙に白い紙が貼られ、黒く太い字で「学級日誌」と書いてある。クラスの生徒が一日ずつ当番となり、その日のカリキュラムと簡単な概要を記載し、放課後に担任に提出する。下らない風習だ。受け取って、答える。


「はい。分かっています」

「だよね、ごめんね、先生余計な事言っちゃったね。上凪くんが忘れるわけないよね」


 何故そんなにへりくだるんだ。僕の何を恐れるんだ。休憩時間で騒がしかったクラスが少し静かになり、さりげなく視線をこちらに向けているのが分かる。


 下らない。ここで過ごす時間は実に下らない。全員が低能で、騒がしく、何も考えていないように思える。まるで自分が猿山の中にでも入れられているようだ。


 少し息を吐き出し、僕の顔色を伺い続けている教師の目を見た。


「あっ……。ご、ごめんなさいっ」


 教師は頭を下げ、小走りで教室を出て行った。そういえば内川が初めて僕の前に立った時も、驚いたような顔で僕の顔を見つめていたのを思い出した。何なんだ、あの人間は。

 クラスが静まり返ったが、しばらくしてまたガヤガヤと騒ぎ出した。


「おーいソーマ、あんまりユキちゃんイジメんなよー。かわいそうだろー」


 髪を茶色く染めた一人の男子生徒がニヤニヤとした表情で僕に近寄り、肩を叩いた。霧島きりしまだ。クラスメイトは全員僕を避けるが、こいつだけはいつも馴れ馴れしく関わってくる。僕を総真そうまという下の名前で呼ぶのもこいつくらいだ。小学校の頃から、何故かいつも同じ学校、同じクラスになっているからだろうか。


「苛めているつもりはない。あいつが勝手に怯えているだけだ」

「お前のその冷酷な態度がもはやイジメなんだよー。お前頭いいんだからそれくらい気付けよ。それに、ユキちゃんを『あいつ』なんて呼んだらいけません」

「気に入らないなら僕に構うな」

「そうはいかんなぁ。なんせ俺は君を気に入ってるからな。はっはっは」


 笑いながら霧島は僕の肩を叩いた。溜息をついて、窓の外に視線を向ける。何故こんな適当な人間が全国模試で十位以内に入り続けているのか理解できない。


「全国トップを独走し続けているソーマの方が、俺には不思議だねぇ。それも、入学してしばらくは、あらゆる部活からスカウトされる程の運動神経を披露しちゃって、学校中の注目を集めてたじゃないか。文武両道のアウトバーンをぶっ飛ばしてるよな。……ま、今やお前のその性格を知って、誰も話しかけようともしないけどな」

「迷惑なお前を除いてな」

「まったく、頭脳明晰、スポーツ万能、品行方正……はちょっと違うか、おまけに眉目秀麗ときたもんだ。一体天はお前に何物を与えたもうたのかね。一個くらい俺に分けろよ。その性格以外を」


 そう言って霧島は僕の制服を軽く引っ張った。相手をするのが面倒なので、腕を組んで目を瞑る。

 程なくして、授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。


「そんな幸せな体に産んでくれた両親と神様に感謝しろよ」


 ヒラヒラと手を動かし、霧島は自分の席に戻って行った。

 幸せな体。この体のどこが幸せだと言うんだ。それに両親など初めから知らないし、神に至っては存在すら認めていない。


 そもそも、幸せとは何なのだ。学校で出される下らない問題に答えられることか。肉体を目的に沿って正確に動かせることか。容姿が整っていることか。僕は生まれてから十七年、この体で生きてきたはずだが、人間が言う「幸せ」と感じられるような感覚を覚えたことは、今まで一度も無い。



 つまらない授業を終えて放課後、記入の済んだ学級日誌を持って教員室に向かっていると、途中の廊下にガラの悪そうな男子生徒が五人程集まって騒いでいた。彼らの体の隙間から、担任の内川の困惑した表情が見えた。馬鹿な男達に絡まれているのだろうか。そこそこの進学校のはずなのに、何故このような低俗な連中が存在しているのか理解に苦しむ。

 通り過ぎる生徒はうつむいて、何も見ていないかのように早足で歩いている。

 日誌を渡す対象がこの状態では困るため、邪魔をしている男達に声をかけた。


「おい、何をしている。邪魔だ」

「ああん?」


 内川を取り囲んでいた男連中が僕の方を向いた。眉根を寄せて険しい表情をしている。体の具合でも悪いのだろうか。


「邪魔だと言ったんだ。そこの内川という人間にこれを渡さなくてはならない。どけ」


 左手に持った日誌を少し持ち上げると、一番近くにいる男が僕の手元を見て、続いて僕の足元を見た後、視線を僕の顔に戻して言った。


「てめえ二年だろ」

「そうだが。それがどうした」


 この学校は、内履きの色で学年を分類している。僕の靴は現在の二年生を示す青色のラインが入っており、内川を取り囲む男達の靴は、三年生を示す紫色のラインが入っていた。


「おい……、口の聞き方ってモンを知らねえのかよ」


 男が眉間の皺を一層深くし、僕に顔を近づけてきた。黒い炭酸飲料を再現したような合成甘味料の匂いがする。


「日本語を話しているつもりだが、理解できなかったか?」

「バカにしてんのかコラ……」


 男が手を伸ばし、僕のネクタイを掴もうとしたのが分かったので、日誌を持っていない右手でその腕を掴んで止めた。


「いっ? 痛てててて!」

「ちょ、ちょっと待って、みんな落ち着いて」


 腕を掴まれた男が苦悶すると内川が体を出し、震える声で僕たちの間に割って入った。


「先生、彼らとちょっとお話しをしていただけなの。だから大丈夫だよ。手を離して」


 手を離すと、男の手は一旦引いたが、握り拳になって僕の顔に向かってきた。再び右手で止める。


「や、やめなさい。学校で喧嘩なんてだめでしょ。問題を起こすと退学ですよっ」


 内川が男を制しながら、僕の方を向いて続けた。


「上凪くんも、年上の人を敬う話し方をしないとだめよ。彼らはそれで怒ってるんだから」

「一つ年齢が上なだけで、こいつらに敬える要素など何も無いな」

「調子乗んなよコラ!」


 男がさらに向かってこようとしたが、内川が全身で抑えている。

 今まで見ているだけだった他の男も、止めに入った。


「おい、こいつはヤバイって。二年の上凪だぞ」

「あぁ? カミナギ……」


 男の動きが止まった。


「何だ? 僕の名前がどうかしたか?」


 中心の男が舌打ちをして、こちらをチラチラと見ながら、他の男を引き連れて廊下の奥に歩き去って行った。不良という存在の典型例に挙げられるような者達だったな。

 背の低い内川が僕を見上げ、おずおずと口を開いた。


「い、一応お礼を言っておくね。ありがとう。助けてくれたんだよね」

「いえ、これを渡しに来ただけです」


 日誌を内川に渡す。


「あ、ありがとう、ございます」

「いえ、では失礼します」

「先生には、敬語使えるのにね。先輩達にもそんな感じで話せばいいのに」

「あいつらのような下らない連中にへりくだる必要性が見当たりません」

「ホラ、そういう言い方がいけないんだって。もっと効率良く立ち回る生き方を覚えないと、社会人になってから大変だよ。心でそう思うのは自由だけど、いや、あんまり良くはないけど、でも、表面だけでも丁寧に接すれば、さっきみたいな衝突は無くなると思うの。学生のうちは大きな問題にはならないかもしれないけど、社会に出るとちょっとしたすれ違いが取り返しのつかない問題になったりするから、」


 話が長い。時間が惜しいので切り上げよう。一つ息を吐き出し、口を開いた。


「そうですね。以降気を付けます」


 そう言って、教室に向かって歩き出した。内川は何も言わなかった。



 鞄を持って校舎を出て、家に向かう。ヤドリギに攻撃を当てるにはどうしたらいいかを考えながら歩く。

 角を曲がって細い道に入ると、後ろから人が走り寄ってくる気配がした。風を切る音から、何か棒状の武器を持っていることが推測できる。鈍器であれば手で受け止められるが、刃物の場合は手を出すのは危険だ。歩きながら鞄を強く握り直し、音が背後まで近寄ってきた所で、振り向きざまに音の鳴る箇所に向けて素早く鞄を振る。


 「バスッ」という鈍い音を立てて、曇った銀色の棒が弾かれた。鉄パイプか、また不良の典型だな。持ち主が舌打ちをして、三歩後ろに下がった。


「そんなに僕が気に入らないか」

「ああ、気に入らねえな」


 先ほど学校の廊下で殴りかかろうとした、頭の悪そうな男子生徒だった。


「その鉄の棒で人間を殴るとどうなるか知っているのか」

「当たりめーだ! てめえはまた俺をバカにして!」


 男が鉄パイプを振り下ろした。刃物ではないと分かったので、今度は左手で掴む。


「そうですか。相手が僕で良かったですね、先輩」


 そう言って、左手で棒を引き寄せて男の腹部に右手を打ち込む。男は気味の悪い声を上げ、腹を押さえて地面に座り込んだ。


「気に入らないならもう近寄らないで下さいよ、先輩」


 そう言い残し、鉄パイプを足元に捨て、中断された帰宅を再開した。

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