幸運の壺

えのき

幸運の壺

私こと林田陽一は、昔、何人もの嫉妬の渦に巻き込まれ精神を病みかけた経験から、嫉妬という感情を心から憎んでいた。人が人の不幸を望むということがいかに自分をも不幸にしていくかが、生々しいほどに目前に示された。自分の幸運を望むのはよいが、人の不幸を望むこととそれはイコールではない。たとえ奪い合い、蹴落とし合って1つの成果を得なければならないことであったとしても、それは競争相手を蹴落とすのではなく、自分を鍛えることで近付けばよい。綺麗事でなく、そうでなければならない。そう思うようになった。他人に祈るのは、不幸ではなく、幸運か健闘であれ。


私は、自分にある精神の弱さを見つめ直すために、人の幸運をしっかりと祈れる自分になるために、または心の傷を和らげるために、3週間ほど一人旅に出かけた。

こういうときに助けになるのは、神聖な場所であった。私はいままで神にすがったことも、祈りに身を投じたこともなかったし、特定の宗教に対する如何なる思い入れも無かったが、巡礼道というものを辿ってみることにした。


神聖な道…ここでは、人と人は互いに労りあい、励まし合って、あるいは孤独を尊重し、静寂のなかでそれぞれが自らと向かい合う。

私は、負った深い傷に時に一人涙しながらあるき続けた。


その巡礼道に脇道があり、そこには祈りのための丘があるという。観光地でもないし、ほとんどの人はそれを知らないだろう。だけれども、私はそこに寄ってみたくなった。石段を登り、森に入り、誰も通らない静かな道に、鳥の鳴き声がこだまする。その丘にたどり着く前に一軒の店があった。


「こんにちはー」

「はいはい、どうも」

出てきたのは一人の初老の男性であった。

「ここは人はよくくるんですか?」

「一日に十人は来るよ。ここが無いとなかなかこの先は大変だからね…」

あたりを見渡すと、土焼き皿、人形、壺、等が並べておいてある。それらは綺麗に磨かれ、小さいながらも気品を放っている。

「これは、お父さんが作られたんですか」

「そうなんだよ、昔は俺も神職だったんだけどね、人に祈りをして助けるという助け方もあるけど、こうやって人の祈りを助けるというのも俺たちのすべき仕事だと思ってね…。でもあんまり人が少いものなんで、こういうことも始めてみたってわけだ。もう十年以上前になるが…」


見れば見るほど美しくまた神聖なものに思えてくる。観光地で買うお土産よりもこちらの方がよっぽど神聖な気がして、なんとなく手に入れたくなった。


「これは、ちなみにいくらなんです?」

「そうだな、皿が6000円で、この人形は4000円、こっちの壺は10000円かな」


思ったより安かった気がして、その一番初めに目についた皿、人形、壺を3つとも買うことにした。そんなに大きくないので、邪魔にもならないだろう。


「20000円ね!はい、ありがとさん!」

男性は丁寧に緩衝材に包み、渡してくれた。なんだか、これからの私の人生をずっと助けてくれそうな、そんな予感がした。


さて、都会に戻ると、やはり日常というものはすぐに戻ってくるもので、忙殺される日々が続く。一人暮らしで毎日23時に帰る生活。初めの一週間は、その土焼きの三品に心を慰められていたが、それも段々感じなくなってきた。


仕事が21時に終わり、また心が辛くなる前に、と高校の同級生であった女友達、落合佳織を誘って、少し飲みに行くことにした。お互いに恋人がいた時も気軽に飲みに行けた仲間。男女の関係を一切匂わせない、気の許せる親友だ。それで一通り三週間の巡礼道の旅などを話した。それで心は大分落ち着いたこと、そして、皿、人形、壺、の三品を買ったこと。何だか気恥ずかしい感じがして、値段までは言わなかった。値段を言うと、急にその神聖さがその値段に落ちてしまうように感じたからでもある。次には佳織が私の話す番だと言わんばかりに饒舌になりはじめた。

「私にきた依頼がさ、横取りされそうになってて。その横取りしようとしてる男、じゃあそれを仮にAとしようか。そのAがね……」

相槌を打ち続ける私。

「たしかに私にはちょっと男っぽいところあるし、気が強いとは言われてるよ、でも…」

そう、佳織はいつも背筋を伸ばしてキリッとしている仕事のできそうな女性だ。そして、あまり恋愛に興味なさそうな雰囲気を漂わせているだけに、あまり気弱な、あるいは真面目な男は寄ってこないが、遊び目的の男にはしょっちゅう声を掛けられている。しかし、佳織の抱える問題は至って深刻だった。

「Aは、私のアイデンティティを否定して、仕事まで奪おうとして、それを周りは年齢と性別を理由に正当化してAの味方までする。こんなことってある?人知れず家でも仕事場でも努力してきた私の苦労はなんの為に?しかもね…」

私にとって深刻に感じたのは次の一言だった。

「私、今度裁判を受けるんだ」

裁判!こんな言葉を身近で聞くことになろうとは!

「一体どうしたの」

「それは…今は詳しくは言えない」

あまり深入りできなさそうな言葉に、私は一旦黙る。

「私も林田みたく三週間くらい旅に出たいよ…心の支えが全然無いんだ…」

佳織はあくまで口調は平然と、でも涙を浮かべながらいった。

私に、ふと良いアイデアが浮かんだ。

「俺が買ってきた壺、あげようか。なんだか神聖なところにあったってだけで、なんとなく気分がよくなるよ。お守りみたいな感じで」

「いや、いいよ、それは林田にとって大事なものでしょ。私にとってはあまり意味ないかもしれないし」

「まあ無理にとは言わないよ」

「それに高かったんでしょう?」

いくらだったっけ。私は頭の中で計算した。旅にかかった交通費は15万円、宿泊費は12万円、それだけかかって買いに行ったわけだ。諸経費はあれど、この壷に費やした金額は…その1/3と1万円…ということは、10万円…と諸経費か…

「10万…くらいだったかな」

「すごいね、よくそんなに出せたね」

「自分のための旅行だったしね…旅行ってお金を使うところだよね」

嘘はついてない。この10万円は旅行のお金だ。しかも、この壷の美しさは、10万円では安いほどだ。心の安らぎまでいれたら、これは10万円どころか、100万円以上の価値がある。

「それに本当に綺麗な壷なんだ、今度見てほしいな。なんなら、うちに寄っていく?」


こんな流れで、佳織は私の家に来た。皿と人形と壷は机の上に置いてある。

「これがそれか〜」

佳織は感慨深そうに眺める。

「ほんっとうに綺麗だね、たしかにこれは買っちゃうかも」

佳織は夢中で見ている。

「気に入ったならさ、あげるのはたしかにお互いに大変だから、貸してあげようか。解決するまできっと見守ってくれるよ」

「それなら、良いかも」

「今日、持って帰ってもいいよ」

「ほんと?ありがとう。ちょっとだけ、林田のご利益、貸してね。私がんばるから」


佳織は24時を回ったあたりで帰宅した。なんだか私も何も根本的な解決はできていなさそうだったけど、人助けができたと内心嬉しかった。この壷のおかげで、私は人を助けることまでできたのだ。


数カ月経って、佳織から連絡がきた。


おかげさまで、仕事の依頼もしっかりこなせたし、裁判も良い弁護士に頼めたおかげでうまくいきそう!ありがとう!そろそろ借りてた壷も返さなきゃいけないから、また飲みにでも行こう!


という幸せの報告とは裏腹に、私はなかなか辛い時期を過ごしていた。あるプロジェクトの進行中に起きたトラブルで多額の損害が発生。大家とトラブルになり、引っ越しまで考えなければいけない始末に。しかし財政難。そして失恋。不幸はここまで重なるか、と。

そうだ、壷を返して貰えればもしかしたらまた幸運が戻ってくるかもしれない。佳織に会ってこの愚痴を聞いてもらうだけでも心は休まるかもしれない。そうだそうだ。こんな時に連絡くれるなんて、なんていい友達を持ったのだ。


そして、佳織とバーに入った。そのバーは細い階段て地下に降りていかなければならない。その日は雨が降っていたこともあって少し足元が悪く、しかも佳織はヒールで少し階段を降りづらそうにしていた上に、カバンと壷の袋で荷物が多い。アッと思った時に足を滑らせてしまった。階段3段分を派手に転んでしまった。

「大丈夫!?」

「イツツッ、あ、でも大丈夫、あ、いやっ」

とっさに壷の入っている袋を確認する佳織。

ジャリッ

嫌な音がした。佳織は一瞬で顔が青ざめる。

「あっ、もしかして…」

確認するまでもなく、壷は割れていた。

「ごめんなさい!ごめんなさい、大変なことしちゃった、どうしよう、、」

「いや、それよりも佳織は大丈夫?」

「私は全然…、でも大切な壷が…、ごめんなさい」

「佳織が怪我がないのが一番だよ、壷が身代わりになってくれたのかもしれないし」

「だってこれ林田の大切な壷でしょ、ごめん、弁償するよ」

「まあ、まずは気にせずお酒でも飲もうよ」

とはいったものの佳織は申し訳なさそうな顔が解けない。

「10万円ちょっと、って言ってたよね?お世話になったのも込めて15万円払うよ、ここもおごらせて」

え、15万円?ここで15万円入ったら、、少なくとも家の問題は解決できるかも。この時期に15万円は嬉しい。あ、でもこの壷は15万円どころか1万円…

「そんな、10万円でいいよ」

「それじゃあ気がすまないの」

そして、佳織はカバンから15万円を取り出し、渡してきた。まったく罪悪感が無かったわけではない。しかし、これで佳織の心が静まるなら…そして、私の生活が少しでも楽になるなら…。おごってくれるって?今日の出費も楽になる…。そうだ、このことは誰にも知られることはないし、そもそもあの壷は原価1万円かもしれないが、普通に買えば15万円はするだろう。実際に大変な旅程で手に入れたんだ。

「なんだか、むしろ、ごめん」

そうして私は15万円を受け取った。


その15万円は一週間のうちに消えたが、私は危機を脱出しつつあった。ああ、なんて幸運だったんだ。あそこで15万円手に入っていなければマズかった。最後まで私に幸運を呼び寄せてくれた壷だったのだ。こんな奇跡ってあるだろうか?私は本当にこれこそが幸運の壷だったと思った。世間を騒がす詐欺事件の幸運の壷、そんな壷のご利益にだれが騙されるかと思ったが、実際にご利益がある壷もあるのだ。


「だからさ〜、ほんとに幸運の壷ってあるな〜って笑」

「すげーなそれ、ハハハ」

高校の悪友達―もちろん佳織のこともよく知っている―とこのことについて話していた。ただ、一つだけ心に残っていた罪悪感を払拭するために、どうしても告白をしなければ済まなくなった。

「でもね、実はその壷1万円で買ったやつなんだ…ちょっと悪いことしたかなって」

「お、お前も立派な詐欺師か?」

こう断罪されると、逆に気持ちがいいものだ。

「ちげーよ、今回はまあ事故でしょ!助かったんだし!」

「そうだそうだ!でも、近くでこんな幸運の壷の話聞くとは思わなかったな、爆笑だわ!佳織も1万円の壷って見抜けないもんだね〜」

「まあ、大抵の人は見抜けないよね笑しょうがないしょうがない」

なんにせよ、この罪を告白できたことで私はなんとなく気分が軽くなってその日は家に帰った。


それからも佳織とはたまに飲みつつ、生活も軌道に乗ってきた。しかし、ある日突然、佳織は口調の違うメールを送ってきた。


「あなたは詐欺師で、私は被害者なんですか?」


それだけのメール。私は全身から冷や汗がでる。何の事だ。そもそも壷の事はお互いに納得してのことだったはずだ。いまさら断罪される謂れはない…


私は弁解メールを何通も何通も送る。お詫びの言葉も毎回添える。しかし、10万円と計算した理屈については書けない。なぜ、あれほど毎回自分自身を納得させた理屈を佳織に説明することに使えないんだ!

私はそれまで自分を納得させていた全ての罪悪感に対する言い訳が、人に対して一切の言い訳にならないことに気付いた。いまさら遅い。なんとかこの場を切り抜けたい。そんな終わった話のことで佳織に致命的な不信感を抱かれてしまい、もうもとには戻れないのか?そもそもなんでそれを佳織が知った!?

そうか、あいつらか、あいつらは私が飲み会の席で話したことを全て佳織に伝えて喜んでいるんだ。それなら全て辻褄が合う。あいつらは私の不幸を喜ぶようなやつだったんだ。所詮はそんな関係さ!一生不信感を抱き続けて、人をはめていろ!佳織も佳織だ、私とあなたが納得して収まった、それでいいじゃないか!なんで本当かどうかもわからないあいつらの話を真に受ける?

今度は怒りに変わってきた。そして、そんな気分の変化が何通も送っているメールの表現にダイレクトに反映される。


佳織からの返信は一切ない。はやく返信してくれ、本当の気持ちを聞かせてくれ。でもその決定的な裁定を下す前に、私の話でなんとか納得してほしい。


私は15万円を受け取った過去の自分を呪い、高校の同級生に話した自分を呪い、彼らも呪い、そして佳織すらも呪っていた。もともとこの話の発端は?ああ、あの壷を売った男だ。あんなもの買わなければ良かったのだ。15万円と佳織の信頼の引換券でしかなかった。


気付いてしまった。あれほど、人の不幸を願うのを嫌っていた私が、人を呪い始めていることに。私は深呼吸を何度もして心を落ち着かせる。今は人を呪うときではない。誠実になり、誠心誠意謝ることだ。


しかし、いつまでたっても佳織の返信はなかった。


ふと、部屋にある皿と人形を見る。人形は優しい笑顔を浮かべてこちらを見ている。私はその壷の記憶と結びついて罪の観念がどうしても消せず、人形のその視線が私の内部の内部まで見透かしてくるように厳しい視線で見てくるように思えた。

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幸運の壺 えのき @enoki_fugue

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