[2-76] TMKK75

 魔力灯ひとつ掲げられたきりの仄暗い部屋の中。

 ノアキュリオ王国軍進駐部隊副司令官であるケレス・ジャレッド・コックス子爵は、粗末な机を挟んでその老婆と向かい合っていた。


 天日に晒し続けたスライムのように萎れ、憔悴しきったその老婆の名は、モルガナ。

 枯れ木のような彼女の身体は包帯で覆われていたが、その狭間から醜い火傷の痕が覗いていた。

 彼女の背中に存在した聖紋スティグマを……【洗礼紋バプテズムスティグマ】を焼き潰した痕だ。


 パトリックが聖獣にされてしまった一件で、ノアキュリオ王国軍は泡を食ってディレッタ神聖王国に善後策を相談していた。

 ディレッタからは

モルガナそいつ引き渡せって言ったよな? 何十年か言い続けてたよな? どの面下げて相談しにきたんだ?』

 という文句をお上品に味付けして羊皮紙一杯に希釈したような挨拶を添え、もはやパトリックは手の施しようがないということ、そしてモルガナを大人しくさせたいなら背中の紋を焼き潰すべきだという返答があった。

 ご丁寧に受肉聖獣の『廃棄』方法と聖紋スティグマを潰すための術式も教えてくれた。そこにどういう駆け引きがあったのか、あるいはディレッタにとって大した技術的秘密ではないのか、ケレスには分からなかったがどうでも良かった。


 ――カラクリが分かっていれば、もっと早くこうしていただろうに……

   いや、それでは最初から役にも立たなかったか。


 地上の権力など意にも介さない面倒な狂信者として、モルガナは持て余されていた。

 その異常な信仰は彼女の聖紋スティグマがもたらしたものだったのだ。


「何故、聖獣どもは命令を聞かなくなり、市民を襲ったのだ?」

「ジスランの命令だろう……

 あたしは……ジスランを聖獣に変える時に【洗礼紋バプテズムスティグマ】も刻んでいたから……

 【洗礼紋バプテズムスティグマ】を刻まれた者は……己の頭で、神を模す。

 大局を見られる賢い者ほど……大神が下されるであろう『正しい判断』に……近づくんだ……」


 詰問と言うほど厳しくもなかったが、ケレスの問いにもまるで反抗せずモルガナは応じた。

 全てがどうでもよくなったかのように。

 牙を折られた無気力な奴隷の目だった。


「ノアキュリオの進駐軍やシエル=テイラを磨り潰しても"怨獄の薔薇姫"を討つべきと……あたしでさえ考えたんだ……

 ジスランもきっと、そう考えた……だから、そう命じた……そのために聖獣を動かした……

 聖獣どもは、エドフェルト侯爵に従うようあたしが言い含めたから従っていたにすぎない……

 神の声を聞く者……ジスランに命じられれば、全てを投げ出して従うだろう…………う、うぐっ……」


 ボサボサの白髪頭を抱えながらモルガナは訥々と語っていたが、急に言葉を詰まらせると、発作的に頭を机に打ち付け始めた。


「ああああ……後生だ! どうかこの哀れな年寄りを早く死なせておくれ!!」


 薄暗い部屋に冷たく乾いた音がする。


 待機していた兵がすぐに、何の力も無いモルガナの両腕を掴み拘束した。

 皺深い額からどろりとした血が流れていた。


 邪神との戦い……そのただひとつの信仰を追い求めた、人の心を持たぬ狂信者。

 モルガナは中央軍で使われていた技術者だが、ケレスもモルガナの悪評は耳に入っていた。占領した敵地でのパレードに石を投げた子どもを殺したとか、敵前逃亡した兵を人体実験に使ったとか。

 しかし今ケレスの前に居るのは己の所業に耐えかねて死を望むただの無力な老人だった。


「遠からず貴様は死ぬだろう。

 貴様は聖獣の『暴走』の責任者としてシエル=テイラに引き渡される。

 良くて死刑、悪くても死刑だろうな」


 ケレスは感情を交えずに言い放った。


 聖獣の振る舞いに関して、シエル=テイラ側から抗議があった。

 賠償を要求するシエル=テイラに対して、ノアキュリオ側はモルガナを引き渡すことでの軽減を計ることにしたのだ。

 それがモルガナの最後の役目だった。


「ひとつ、私的な質問をしたい。

 ……あれは本当に神様のご判断だというのか?」


 深淵を覗き込むような幾許かの恐怖とともにケレスは問う。

 項垂れるモルガナは、ケレスの方を見もしないで訥々と答えた。


「あれは、あたしが見ていた世界の中では間違いなく『神様の正しいご判断』だったよ。

 この上で何が見えていたら、あたしは思い止まれたって言うのかえ?」

「ううむ……

 例えば人口の減少、信仰の毀損、国家間の火種……どれも長期的視野で見れば魔族との戦いにおいて不利になる要素ではないか?

 それを貴様は見極められず戦いを仕掛けた。しかし神々であれば大所高所から判断して強引な戦いを避けた、という可能性も……」

「その程度の事は考えてたさ……その上で些事と判断し、戦いを優先したんだよ……

 まして、王族に生まれてずっと政治の世界を見て来たはずのジスランさえ、この判断が『神として正しい』と考えたわけだ」


 ケレスは何か言い返そうとして言葉が出なかった。

 闇の軍勢を打ち倒すためならばいかなる流血も辞さない、というのは、かの『滅月会ムーンイーター』をはじめ神殿勢力の一部に確かに存在している思想潮流だ、

 だがケレスが知る限り、神殿の総意として大っぴらにそんなことを言ったりはしない。神殿が言い出すのは、あくまでも自衛や大陸の奪還など、人族が栄えるための戦いだ。それでさえまずは味方の命を気遣う主張が差し挟まれるのだから、神々の教えはそうしたものなのだと考えていた。


 ――だが、本当は神々の考えはもっと過激なのだろうか。

   人類の九割九分九厘が死に絶えても、その結果として魔族を滅ぼせれば良しと考えているのか?

   だとしたら神殿が説く甘っちょろい教えは何だ?

   神殿が人々に受け容れられるよう、羊の皮を被っていたとでも言うのか……?


 取り立てて信心深い方ではないが、ケレスもまた良き『神の子』たらんと祈りを欠かさず生きてきた。

 だがそれは神の愛を信ずるが故だ。たとえ戦いのためと言えど大神がこのように冷酷な判断を下すなどと考えたくはなかった。

 ケレスは、冷たく濡れた石でも呑み込んだように感じていた。


「どう足掻いても、あれは神々の思し召しか。

 ふん……私が神殿騎士であったなら仕事を放り出して放浪の旅にでも出ていたかも知れないな」

「人生を捨てる気にはならないのかい?」

「私は軍人だ。神様のお考えがどうであろうと、祖国のために戦うのが私の仕事。

 この剣は神々ではなくノアキュリオ王国に捧げたのだ」

「そうかい……そうかい……」


 半ば自分に言い聞かせるようにケレスが言うと、モルガナは感じ入ったように何度も頷いていた。


「あたしの人生は何だったのかねぇ…………」


 全てを諦めきったようにモルガナは嘆息する。


「何のために生まれてきたのかも定かでないまま、無意味に死んでいく者はいくらでも居るだろう。特に戦場には、いくらでもな。

 故に我らは……たとえ神に疑念を抱こうと縋り、こいねがうしかないのだ。

 『せめて、良き輪廻があらんことを』と」


 ケレスは慰めの言葉を見つけられなかった。


 * * *


 バーティルはウェサラのノアキュリオ軍本陣に抗議を入れて既成事実化した後、流石に放っておくわけにもいかず周辺諸侯にも事態を知らせ、抗議について説明……しようとした。


 ところが(予想通りではあるのだが)バーティルが何か言う前からノアキュリオ軍は諸侯にを持ちかけていた。

 ノアキュリオに付いた諸侯とノアキュリオ軍にとって共通の理想的展開は『事態の揉み消し』。そのためバーティルは四方八方からを受けることになった。


「こんな話が国内に流れたらノアキュリオ王国への反発が生まれる。

 それではノアキュリオ王国の庇護を得たい東側諸侯も、庇護下においてグラセルム資源を狙いたいノアキュリオも困るというわけですね。だからこれは合意の上で秘されると……」

「まあ、それでも金は毟れたんだ。結構なことじゃないか」


 憤懣やるかたない様子で、カーヤは拳を握りしめていた。

 それでもバーティルが新聞を読みながら悠々と茶を飲んでいるので、怒りのやり場をなくした様子でしかめ面を作る。


 テイラカイネ陥落によって暇になってしまった宿場町に、避難民たちと第二騎士団は未だ滞在していた。

 バーティルは通信局の一室を借り受け、そこに巣くっていた。ノアキュリオ軍との交渉や諸侯との調整など、四六時中遠距離通信をする必要があったからだ。

 部屋の壁には、バーティルにしか意味が分からないよう半暗号化されたメモ書きが大量に貼られていた。


 バーティルとノアキュリオ軍の間で交わされた『率直で真摯な意見交換』の結果、テイラカイネからの避難民は周辺諸侯が分担して預かることになり、ノアキュリオ軍は手持ちの資金から見舞い金を支払うことになった。

 これは誰が何と言おうと純粋に人道的かつ下心が一切無い支援であり、テイラカイネでの戦闘とは関わりの無いことである……ということになっている。公式には。

 聖獣が市民を襲ったという事実は揉み消されることになった。


「金の支払先は半分が避難民に直接。もう半分が避難民を預かる諸侯と、今預かってる俺に……

 実質、これは口止め料だな。『エドフェルト侯爵領の代理人になる』という俺の言い訳に向こうが乗った形だが、俺宛の金だろうよ。避難民に払われた見舞金もを見ちまった連中への口止めだ。

 まあ、それでも避難民の命が助かるならいいさ。本来外交権なんて持たないはずの俺が交渉したにしては上出来だろう。

 モルガナの引き渡しでだいぶ責任を相殺されちまった気もするが……致し方ない」


 落とし所を作るべくノアキュリオの切った札が、モルガナだった。

 ノアキュリオ軍に帯同していた聖獣使い。彼女が暴走を仕組んだものであるとして、ノアキュリオ軍はモルガナをシエル=テイラ側へ引き渡した。

 事態を表沙汰にしない約束を飲まされたとは言え、賠償金と犯人が引き渡されたとなれば面子も、これ以上ゴネるのは難しいところだ。

 バーティルとしても、国内に惨禍を招いた罪人が引き渡され国の手で処刑できるなら、国家の体裁を保つ上で大変結構なことだと思っている。どうせ公開処刑にはできないのだから、後はルネが横取りしに来る前に首をはねるだけだ。


 宿場町の宿に滞在している避難民たちは、これから諸侯に預けられる。

 そこで何らかの口止めを受けるはずだ。

 ノアキュリオ軍はこれから一時撤退するわけなので、シエル=テイラ国内の世論操作はシエル=テイラ側に任せざるを得ないのだった。


「ノアキュリオ王国軍は金を出す件についてはたっぷり宣伝していく予定だ。

 実態は賠償と口止め料でも、表向きは一方的な支援だからな。

 そりゃそうだろう、ノアキュリオはまだこの国のグラセルムを諦めてない。戻って来る気なら心証を良くしておきたいわけだから。

 ……だが、俺らはそんな茶番に付き合ってやる必要は無い」


 バーティルはからかうように肩をすくめて見せる。

 カーヤは半ば呆れたようにこめかみを揉みほぐしていた。


「ノアキュリオ軍のが発表された直後、民間の有力者や報道機関がどこからか事の真相を聞きつけてくるんだ。街角でも噂を囁く者があるだろう。

 噂が広がるのは早いぜ。なにしろジレシュハタール連邦の工作員がとっくにこの件を知ってるからな。……漏らしたのは俺だが」


 しゃあしゃあと言い放ったバーティルに、カーヤは頭痛をこらえるような顔だ。


 ノアキュリオ軍もノアキュリオに付いた諸侯も、なまじバーティルがテイラカイネでの戦いに参戦していたため、バーティルの立ち位置を少し見誤っていたと言うべきだろう。

 バーティルは『ノアキュリオに賭けるしかない』どころか、最初からジレシュハタール連邦と手を握っていたし、西で擁立された皇太子候補ヨハンにも裏で話を通してあった。


「俺は表の人族にんげんだからね。噂を広める段階では特に手伝わず、西へバックレちまおうと思う。話が充分に広まったところでノアキュリオ王国を非難する声明を出し、噂に裏付けを与えるのが仕事だ。

 自分でやってもいいが、できればこれはヨハン殿下にお任せしたいところだな。俺はノアキュリオとのパイプを残したいが、ヨハン殿下は最初からジレシュハタール側の立ち位置だから。

 いずれにせよ、これで世論はノアキュリオへの批判に向かうだろう。ジレシュハタールが国内をまるっと頂くのも容易くなる。ヨハン殿下も国内の支持を得られるだろうし、俺も連邦に貸しを作って万々歳さ」


 色々あったが、とにかくジスランは死んだ。

 後はヨハンが王となりジレシュハタール連邦の庇護下に置かれれば、シエル=テイラ再建に向けて辛うじて光明を見いだせるだろう。

 その道筋を付けるためなら、多少の無茶は上等だ。


「ここだけの話だ。まだ裏があったぞ、カーヤ。

 からの情報でね……エドフェルト侯爵も一枚噛んでたようだが、あいつら、ジスラン殿下も聖獣にしちまってた」

「えぇえ!?」


 壁のメモを十把一絡げにむしり取りながら、心持ち声を潜めて独り言のようにバーティルは言う。

 カーヤは度肝を抜かれた様子だった。


「信じられっか? それを王にしようとしてたんだぜ。

 急に皇太子への立候補を決めたことと言い、思い返してみれば心当たりがありすぎる。

 流石にこりゃ許しておけないよ。ちと痛い目を見て貰おうじゃないか」


 バーティルはメモを新聞に包むと暖炉に放り込み、着火剤の油を振りかけて呪文を唱える。


「……≪着火イグニッション≫。

 さ、行くとしようか」


 紙束は暖炉の中で燃え上がり、瞬く間に灰と化した。

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