[2-27] アビュージング・モノアイ
長机ひとつに子ども達が群がる食堂。明かりを節約するために薄暗いその部屋で、
「パニーラ、今日は寝る前に私の部屋に来なさい」
背後を通り過ぎざま、孤児院の院長が言い置いていった。
『パニーラ』は院長の名前を知らなかった。どういう来歴なのかも知らない。少なくとも『パニーラ』が孤児院に来た時には既に院長で、今も変わらず院長だ。
彼は初老で、肉団子のような禿げ頭をしている男だった。
神殿付きの孤児院だからか、院長はいつも僧服を着ている。たぶん若い頃は神殿に勤めていたのだろう。だが別に神聖魔法を使えるわけではない。もっとも、聖職者の過半数は神聖魔法が使えないそうだから別に珍しいことではないが。
「はい、院長先生」
たぶん、産業革命期のテムズ川はこんな感じだったのだろうなと
大事の前の小事だが、まさかこんな余計なイベントが発生するとは。
――余計な手間増やしてくれちゃって。
* * *
院長室は、貧乏孤児院の中にあってまだ辛うじて見栄えがする場所だった。
と言っても本棚や事務仕事用の机など、シンプルな家具がいくつか置かれているだけだ。隣の部屋は院長の寝室で、院長はここで暮らしていた。
「よく来たね、パニーラ。まあ、そこに掛けなさい」
椅子を勧められて
「明日、マクレガー子爵様がお越しになる。子爵様のことは知っているね?」
「はい。わたしたちが毎日ご飯を食べて生きていけるよう、寄付をなさっている方です」
「そうとも。よく分かっているね」
孤児院は神殿から資金を貰っているが、それだけでやっていくのは厳しい。
騎士や資産家、そして一般市民に寄付を求めるのはどこでも当然のように行われていることだった。
この孤児院はマクレガー子爵からそこそこの寄付を受け取っている。
孤児たちも、時折孤児院を訪れるマクレガー子爵と対面し、セレモニー的にお礼の言葉を述べていた。
ただ、浄財のほとんどは院長の懐に消えているというもっぱらの噂……と言うかほぼ確実にそうだとトレイシーは掴んでいた。
もちろん『パニーラ』を含む孤児たちは裏の事情など知らない。
「私たちは子爵様にちゃんとお礼をしなければならないんだ。今回は、その大役を君に任せたい。
ついては……子爵様相手に粗相が無いよう、私が君を指導しようと思う」
「指導……ですか?」
院長は笑顔だった。
にちゃり、と粘っこいツバを掻き回すような音がした。
――……まさかこのタイミングで呼ばれるなんて。
『パニーラ』の記憶を探ってみても、彼女はこの孤児院の裏側を全く知らなかった。
だからこんな風に標的にされることはないだろうと思っていたのだが、よりによってだ。
この孤児院で何が行われているのかは、潜入前に情報通のトレイシーから聞かされて知っていた。
マクレガー子爵が何故、この孤児院を支援してたびたび訪れているのかも。
代価は、子ども達の肉体だ。
――念のため対処を考えておいて良かったわ。
目の前のゲス男は戦闘能力ゼロに等しい。
まあ、成人男性の体格と力はあるのだから子ども達にとっては逆らいがたいだろうが、“怨獄の薔薇姫”にとっては赤子と変わりない弱者。
だがここで殺すわけにもいかない。
子爵を出迎えるべき院長が消えてしまったら、子爵を逃してしまう。
レブナントにするのもNGだ。街中の聖獣監視網がアンデッドの気配を見張っている。
そこでまず院長の記憶を操作し、パニーラへの『指導』は済んだと偽の記憶を植え付ける。
そのままだと記憶操作の後遺症で不審に思われそうだが、ついでに院長には適当な風邪を引いていただく。見舞いが来るほどでもなく、神官に見せるほどでもない風邪を。
この世に存在するあまねき疫病は邪神の眷属。
呪詛魔法を得意とするルネは、他人を病気に罹らせるくらい思いのままだ。
要は数日間、人と会うのを控えてもらえばいいのだ。仮に誰かと会って変なことを言っても、熱のせいだと思ってもらえるだろう。
マクレガー子爵が訪問を見合わせる可能性は……まあ気にしなくていいだろう。彼はただでさえ平民を見下しているし、孤児院に対しては金を出している立場だ。院長が体調を崩した程度でそれを気遣って訪問を取りやめるとは思えない。
少なくともマクレガー子爵を殺してルネが撤退するくらいまでの間は時間を稼げるだろう。
それで充分だ。
院長は無遠慮な足取りで近付いてくる。
「服を脱ぎなさい、パニーラ」
彼の手が、
その時、
いくつかの記憶がルネの中で、鮮明な追体験のように蘇った。
頭と身体の芯が、白く痺れて冷たくなっていくように感じた。
手が震える。
鼓動が激しくなる。
息が苦しい。
何かが胸を刺し、締め付ける。
この感情を知っている。
これは。
――……恐怖、だわ。
「ひっ……!」
院長はしっかりと肩を掴んでいる。
戦う力すら持たない、ただの卑劣漢に。
「おやあぁ? 私が何をするか知っているようだね。……いけない子だ」
院長が笑みを深くする。欲望の黒い輝きが彼の目に浮かんだ。
――記憶を操作する……病気に罹らせる……何も無かったようにカモフラージュ……
頭の中で、次にするべきことを繰り返す。縋り付くように繰り返す。
邪魔などできはしない。この男に何ができるというのか。
「君は初めてかな? それとも経験済みかな?
まあいい、力を抜くんだ。怖がらなくていい。そう、なにも、怖がることはない。
落ち着いて身を委ねなさい。すぐに気持ちよくなるから……」
何かがうるさい。
自分の奥歯だった。震えて歯の根が合わない。
「ちゃんと子爵様のお相手ができるよう、私が教えてあげよう。何もかもを」
冷たい石の世界。
目をぎらつかせた裸の男。
掴みかかる手。
『拷問』の記憶が
「い、いやあああああああああああああっ!」
次の瞬間。
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