[2-28] ともあれカルタゴ滅ぶべし

 ヒルベルト2世のクーデターは、列強五大国のうちジレシュハタール連邦を除いた四大国の支援を取り付けたことで成功した。


 その中で最も大きな功績があったのはノアキュリオ王国だろう。地理的にも隣接しているノアキュリオはいざという時の派兵をヒルベルトに約束し、国境に兵を集めた。これによって諸侯は雪崩を打つようにヒルベルトに下った。即ちノアキュリオ王国は滅ぶべきである。


 ケーニス帝国は同じように派兵を約束していたが、少々離れていることもあり、これと言って動きを見せなかった。しかし純粋な軍事力で言えば列強五大国最強であるケーニスが後ろ盾となったなら、ヒルベルトが諸侯を説得する上で大きな助けとなったことだろう。

 つまりケーニス帝国は滅ぶべきである。


 ディレッタ神聖王国は新政権に対する『国家としての承認』とを約束した。

 ディレッタには大神信仰の中心である『大祀府』が存在する。これは本来、国からは独立した機関のはずだが、実質的には神聖王国政府と半ば融合していた。そして大祀府は各国の政府に対して『邪神と戦う正統なる権力』を認定しているのだ。

 ディレッタから承認されるという事は、大祀府からも認められることにほぼ等しい。まあ大祀府が認定しない事は非常に稀なのだが、内乱や政変があると様子見を決め込むことも多い。そこでスムーズに認定を受けることはヒルベルトの新政権にとって弾みになっていただろう。

 人道支援はそのまま、政権移行後の混乱期に神殿を通じた慈善活動を行うというもの。名目こそ人道支援でも、内実は混乱期における新政権への物的・金銭的側面支援だ。

 だとするとやはりディレッタ神聖王国は滅ぶべきである。


 そしてファライーヤ共和国は議会の足並みが揃わなかったこともあり、機密費からの資金提供と小規模な工作部隊を派遣しての控えめな協力に留まった。

 だが。


 派遣された工作部隊には、騎士たちに『拷問』を指導した、あの『役得野郎』が居た。


 ルネはそのただ一点だけを以てしても、ファライーヤ共和国は百度の滅びに値するだけの仇敵と見なしていた。


 * * *


 ぼろ切れのようになった僧服が、飛散した血肉によって壁に張り付いている。

 それを前にしてパニーラルネは頭を抱え、床に突っ伏すようにうずくまっていた。


「わ……わたしはもう大丈夫、わたしはもう大丈夫、わ、わたし……う、うぇっ……うえ゛え゛え゛え゛ーん……わたしは……ひぐっ、もう、大丈夫……」


 顔をぐしゃぐしゃにしてパニーラルネは泣いた。

 折角食べた夕飯どころか、胃液まで吐き戻すくらい吐いた。

 呪文かおまじないのように、壊れたロボットのように、同じ言葉を繰り返す。


 闇色の万華鏡を覗き込んだように、闇の記憶が頭に巡る。

 感じた痛み、恐怖、怒りと絶望。その全てをパニーラルネは追体験した。

 心の軋む音をパニーラルネは聞いたような気がした。


 ――だめ……じっとしていたら……このまま全てが終わってしまう……


 呪詛魔法を使ったわけではないが、これだけ血の臭いを漂わせれば聖獣けものの鼻に気付かれてしまう。

 だから、早くどうにかしなければ。

 だけど、怖くて悲しくて身体が動かない。


「……≪白洗白筺ランドリー≫……!」


 振り絞るように声を上げ、魔法を使った。

 渦巻く水がパニーラルネの手から迸る。

 対象が服でもベッドでも壁でもなんであろうと密かに洗い上げる『証拠隠滅』魔法。


 だが、それが限界だった。


「っはぁっ……はぁっ……!」


 は、顔を上げた。

 既に呼吸の不要な身体なのに、荒い息をついて。

 銀糸のような髪がさらりと流れ落ちる。その身体は既にパニーラのものではない。銀髪銀目の少女へと転じている。レブナント形態だ。

 極限の恐怖に晒されたことで、ルネは自然と戦闘態勢アンデッドになってしまっていた。


 だが、アンデッド化したことでルネの心はほんの少し安らいだ。辛うじて精神の糸を繋ぎ止めることができた。

 疲れることなく、睡眠も食事も呼吸も不要。(形態によるが)血の流れない身体は体温を持たず、触覚も鈍く、肉体的なダメージでは痛みを感じない。霊体になれば肉の重さからさえ開放され、五感ではなく魔力知覚によって世界を視る。

 アンデッドの身体は、人間とは『存在しているという感覚』が違いすぎる。だから、人間であった時に受けた傷を遠いものと感じることができた。


 ルネはおそるおそる、自分の肩に触れた。先程とは違う。アンデッドの肉体は感覚が鈍い。

 憑依中のルネは感覚も憑依対象のものとなる。脆弱な人間の肉体にとって世界は鮮やかな刺激に満ちている。それは時に感動をもたらすが、時には……


 院長はただ肩を掴んだだけだ。だというのにルネは、心の奥底に刻まれた恐怖と屈辱を呼び起こされた。

 状況は、あまりにもルネの記憶と符合しすぎていた。

 人としての尊厳全てを否定する生きながらの地獄。『拷問』の名を借りた嗜虐遊戯の記憶と。


 ――また……自分の弱さを、見誤ってしまった……


 ルネは邪神の加護チートによって強大な力を手にしただけの、ただの傷ついた少女であった。


 今度こそ分かっていたはずなのに。この孤児院で何が行われているか聞いていたはずなのに。冷静に対処できると思い込んでいた。

 まさか神聖魔法ひとつ使えない相手に恐怖させられるとは思っていなかった。


 だがその判断ミスを悠長に後悔している暇は無い。

 すぐに気配を遮断したが、ルネがアンデッド化した瞬間を聖獣が察知したかも分からない。そうなると時間との勝負だ。

 マクレガー子爵を殺害して脱出する。情報収集は一旦中断し、念のためトレイシーも回収しておく。そのためにも、立ち上がらなければ。

 

 歯は……既に食いしばっている。

 拳は……既に握りしめている。

 だからルネは心を怒りで塗りつぶした。恐怖と痛みを怒りで塗りつぶし、そして立ち上がった。

 自分を傷つけた者たちを決して許さない。憎むべき者らがこの世の果てまで逃げようと、絶対に追い詰める。


 折りたたんで持っていた通話符コーラーを服のポケットから引っ張りだし、ルネはそれを起動した。


「トレイシー、計画変更よ。気付かれたかも知れない。

 ……神獣の鼻を誤魔化す手を打って、すぐに撤退してこっちに合流してくれるかしら。『銀鏡の仮面』も使っておきなさい」


 * * *


 生活を手に入れるためには代価が必要。

 ユーニスにとって、それは単純な話だった。


 神殿から貰えるお金だけでは、皆の生活が立ちゆかないのだと院長は言った。

 ユーニスにできる事があるのだと言った。


 初めは何かに抗うように、マクレガー子爵の訪問を数えていた。

 でも20回を越えた辺りからユーニスは数えるのをやめた。

 それはユーニスの日常になっていった。


 慣れた、とは言い難い。本当は嫌だ。なにしろマクレガー子爵は明らかに人として最悪の部類だから。

 それでも自分一人の犠牲で子ども達みんなを守れるならいいのだと思っていた。


 ――でも、私はもう……この孤児院を出て行く。


 孤児院に居られるのは成人までだ。

 それは孤児院の『稼ぎ頭』であるユーニスでも変わらない。


 引き留められたりはしなかった。

 ユーニスが居なくなってもはいくらでも居るのだから。


 ――私は……『自分ひとりで済むなら』と今日まで頑張ってきたのに、残るみんなを見捨ててどこかへ行ってしまえるの?


 ユーニスは迷い続けていた。

 いつまでも面倒を見るなんて事はできないはずだという現実的思考。

 問題の先送りでしかなくてもみんなを助けたいというモラトリアム思考。


 考えが固まったのは、明日マクレガー子爵が来るという話を聞いてだった。


 ――聞いてくれるかは分からないけれど、もう一度、院長先生に言ってみよう。

   こんな事はもうやめて、って……

   私が働いてみんなのために寄付をするから、あんな事をさせるのはもうやめて、って……


 就寝前にユーニスは院長室へ足を向けた。

 足が妙に重く感じた。


 だが、廊下の奥から子どもの泣く声が聞こえてきて、ユーニスははたと足を止めた。


 ――誰か、居る? 女の子……? まさか!?


 絶望的な可能性。ユーニスははじめてマクレガー子爵を迎える前の晩、院長から『指導』を受けた。

 自分が出て行くまでは他の子は大丈夫だ、と思っていた。だがそれは悠長に過ぎる考えだったのかも知れない。


 ユーニスは掛けだした。

 泣き声はいつの間にか止んでいた。

 院長室の扉に飛びついた。開かない。


「先生! そこに居るんですか!? 一緒に誰か居るんですか!?」


 扉越しに必死の声を投げつけると、ややあって返事があった。


「……わたししか居ないわ、ユーニス」

「パニーラ!? 泣いている声が聞こえた気がしたのだけど……」

「大丈夫」

「パニーラ、あなた声が……」

「ちょっと風邪気味なだけ」


 しゃべり方でパニーラと断定したが、声が少しおかしいとユーニスは思った。

 扉越しであることを差し引いても、少し違う。パニーラはもっと掠れたような低い声だったような気がする。

 とは言え、だとしたら誰がここでパニーラの名を騙って声真似などするのだろう。涙声なせいで、普段とは違って聞こえているだけだろうか。

 違和感を覚えながらもユーニスはそれ以上気にしなかった。それよりも今は大事な用があるのだから。


「院長先生はどちらに?」

「知らないわ。急に出て行ったの」

「え? そ、そう……分かったわ。それよりも、ここを開けてくれないかしら」


 冷静に考えると、何かが奇妙だった。

 院長が居ないなら、どうして部屋の鍵は内側から閉められているのだろう。

 何故パニーラだけが部屋の中に居るのだろう。

 パニーラはどうして泣いていたというのだろう。


「……あなたは強いのね、ユーニス。少しだけ、あなたが羨ましかったわ」

「え……?」


 すぐ近くから扉越しに声が聞こえて、がちゃり、と音を立てて鍵が開いた。


 ユーニスはほとんど扉を蹴破るような勢いで開けた。

 そこにはパニーラも、院長も居なかった。


「パニーラ……?」


 カーテンがふわりと宙に舞う。

 窓が開いていて冷たい夜風が吹き込み、それでも払いきれないかすかな血の臭いだけが残っていた。

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