[2-19] 表パン屋
「やべえ、もうこんな時間かよ……」
ユースタスは商会に勤めている男だ。
彼の勤め先は生活雑貨などを扱っている。
ノアキュリオ軍が現れたことで、商会は特需に沸き返っていた。
それはいいのだが、いきなり仕事が増えたからと言っていきなり人を増やせるわけではない。
普段より割り増しされた仕事がドカドカ降り積もっていた。
その日、ユースタスは帰りが遅くなった。
日はとうに暮れ落ち、人影もまばら。ぽつぽつと灯る魔力灯の明かりを頼りに、ユースタスは早足で家路を急いだ。
住み慣れた街とは言え、夜は怖い。どこで追い剥ぎが出るかも分からない。
しかし、彼が出会ったのは追い剥ぎよりも更に悪いものだった。
大通りから横丁に入ったところで、奇妙な声を聞いたような気がしてユースタスは足を止める。
風のうなりのような、壊れた笛のような、おぞましい残響を伴って聞こえてくる声が。
『…………ォォォォオオオオオォォォォォ…………』
はっきりと何かの声が聞こえた。
ユースタスは足を止めた。
早くこの場を駆け抜けて家に帰りたいし、そうすれば助かるという気がした。
だが、指一本でも動かしたらその瞬間に影から何者かが飛び出してきて自分に牙を突き立てるのではないかという恐怖に、全身を縛り付けられたようになってしまった。
そんなユースタスの前に光が浮かぶ。
魔力灯が突然増えた?
いや、違う。もっと恐ろしい何かの光が。
朧で、輪郭が曖昧で、宙に溶けかかったような姿の男がそこに居た。
「ひっ……ひぇっ…………」
ユースタスは押し殺した悲鳴を上げることしかできなかった。
亡霊だ。
男の亡霊が宙に浮いている。
亡霊は、すぐ近くに居るユースタスが目に入っていないかのように、恨めしげに天を睨んでいた。
『私は……ノアキュリオ兵に殺されそうになった息子を助けただけだ……
だが侯爵は……ノアキュリオ軍に媚びるため、私の罪をでっちあげた……
私は……侯爵に裏切られたのだ……!』
亡霊は慟哭する。
ユースタスもここまで聞けばピンとくる。
街を騒がせたあの事件。騎士がノアキュリオ兵と揉め事を起こして殺めてしまい、事件から10日もかからず処刑された。
迅速すぎる事件の処理は、やはり侯爵がノアキュリオとの関係を考えてした事だと思っていたが……
――じゃあ、こいつがあの死刑にされた騎士なのか? これが事件の真相なのか……?
『おのれ……憎らしや……!
おのれ……恨めしや……!!』
恨みを込めた叫び声を上げて、そして亡霊は消えて行った。
後には風の音だけが残っていた。まだどこかで亡霊が吠えているかのように。
ユースタスは、闇に紛れるように走り去る少女には気付かなかった。
* * *
一方、トレイシーは。
「や、久しぶり。お互い無事で何よりだね」
「なんとかな」
街にある冒険者の酒場で、筋骨隆々たる戦士(ファイター)と会っていた。
* * *
「すっごい怪しいお婆さんを見たんだけど、あの人ってなんなの? 今侯爵様に雇われてるなら何か知らない?」
「怪しいって言えば怪しいんだよな。だがよく知らん。つーか誰もあのババアのことは知らねえみてえだ」
昼下がりの街角で、ロングモヒカンを顔の片側に垂らした傾き者の戦士(ファイター)と会っていた。
* * *
「そんなよく分からない人がどうして軍に混じってるの?」
「あいつは諸侯軍じゃなく中央軍に取り入って取り立ててもらったらしいぜ」
雑貨店で、ノアキュリオの一般兵と会っていた。
* * *
「実際どういう立場の人なの?」
「
上品なレストランで、ノアキュリオの下級騎士と会っていた。
* * *
「じゃあ、みんなよく分かってないのに重用されてるのか」
「詳しくは将軍しか知らない。ただ、あいつは魔法もろくに使えないのに聖獣を扱っているんだ」
小洒落たバーで、ノアキュリオの騎士と会っていた。
* * *
「本人は強いわけじゃないのかな」
「でもな、こいつは噂だけどな……あのババア、自分が受けた傷を聖獣に移す術を持ってるらしいぞ」
妖しい雰囲気の賭場で、ノアキュリオの傭兵と会っていた。
* * *
「そう言えばさ、ノアキュリオ兵が侯爵様の騎士に殺された事件って知ってる?」
「もちろん聞きましたよ。街中大騒ぎだったから誰でも知ってますって」
冒険者ギルドで、新米冒険者のパーティーと会っていた。
* * *
「あれ本当は殺された兵士の方が悪かったんだってさ。ノアキュリオ軍が反発を恐れて侯爵様に圧力を掛けて、正当防衛だった騎士を一方的に悪者にしたらしいよ」
「マジかよ。処刑された騎士が化けて出たって噂は聞いてたが」
街の武器屋で、知り合いの店主と会っていた
* * *
「これホント、ここだけの話だよ? 誰にも言わないでね。偉い人たちがひた隠してる話だし、ボクが喋ったって知れたらまずいから」
「大丈夫よ。アタシ、口が堅いことで有名なんだから」
教会で、軽い雰囲気の女
* * *
事件の『真相』にまつわる噂は、テイラカイネの街に野火のように広がっていた。
まだこの件でノアキュリオ軍や領主を表立って非難するような声は聞こえない。
しかし、コップに水を注ぎ続ければいつかは溢れるように、どこかで閾値を超えれば噴出する。爆弾を抱え込んだようなものだ。
「あたしの管轄じゃないと思うねえ。聖獣がちーっとも反応しないんだもんさ。仮に『亡霊』が高位のレイスだとしても、魔法による気配遮断はいつまでも保つわけじゃない。
だいいち処刑場はちゃんと神官が清めて、死体も聖油で焼いて、魂が居なくなったのも霊視で確認したんだろう。アンデッドになるのはおかしいよ。こりゃ
マークスとパトリックに呼びつけられたモルガナは、そう自らの所見を述べた。
パトリックは苛立たしげに眉根を寄せる。
「……幻術?」
「そう考えるのが自然じゃないかね」
誰かがユインの幻影を生みだし、亡霊であるかのように操り、街の人々に見せているのだ。
「誰がそんな真似を……いや、やりそうな奴らが居るぞ」
「西の連中か」
「だとしたら随分と手が早いことだが……」
マークスはジスランとノアキュリオを軸に、国家体制の再構築を(そして自分がその中心人物となることを)画策している。
無理やりに開催した諸侯会議でジスランの擁立を宣言し、マークスは反対派諸侯に思いっきり喧嘩を売った。
向こうもマークスの意図をくじくために手を打ってきておかしくない。
「神様の邪魔するのはよくないね。でも聖獣で下手人を探すのは難しいよ。あんたらの仕事だ。
早く見つけ出して、生き地獄を味わわせた後に本物の地獄に落としてやんな」
「聖獣には頼れぬか……」
「仕方ありませんな、兵を動員して夜警に当たらせましょう。薄汚いネズミめ、尻尾を掴んでくれる」
* * *
マークスの命令が下り、『亡霊』の目撃証言があった地域は夜間の警備が増員された。
だがその矢先。夜回りの者たちを嘲笑うかのように、『亡霊』の出現はぱったり途絶える。
既に噂は街中に広がっていて、これ以上騒ぎを起こす必要が無かったのだ。
マクレガー子爵ではなく侯爵のせいと言ったのは、市民の疑念をノアキュリオ軍だけでなく侯爵にも向けさせ、今後の作戦を進めやすくするためだ。
……これは偶然にも事実を言い当てていたのだが、
冷たく輝く月の下。
手近な建物の屋根に腰掛けた
火の無いところにだって煙は立つものだが、やはりちゃんと火種があった方がより大きな煙が立つ。
ノアキュリオ兵が起こしていたトラブル、本物の目撃者、事件の場に居合わせたユインの息子……
『亡霊』の叫びを補強する材料には事欠かない。情報操作によって埋もれていたはずの真実が、掘り返されていく。
今のところ大きな騒ぎに発展してこそいないが、ルネはこの街に、見えない傷を付けた。
その傷は、やがて血を流す。
眼下では街頭に立ちっぱなしの兵士が震えながら欠伸をしていた。
「お勤めご苦労様、ってとこね。そのままそこで寝不足になってなさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます