[1-38] 姫は怨獄に謳う

 いかに強力な再生能力を持っていても、あれだけダメージを与えた末に首をはねられればディアナも死んだ。

 彼女の発していた感情は途絶えた。その感情は最期まで、ルネにとって温かく感じられるものだった。

 胴体を離れた首が雪の上に転がる。穏やかに眠るかのようなその微笑みは、どこかの地球の宗教画の聖母か、はたまた天使の彫像か。


 その首が、腹部に穴の開いたディアナの身体が、突如炎上する。


 青白く輝かしい炎がディアナの身体を舐め尽くし、火の付いたロウソクが溶けるように、灰すら残さず消し去った。後に残るのは焦げひとつない、血濡れた空っぽの僧衣。そして銀鞭の残骸。


「消え……た……?」


 何故かルネはその時、『消えてくれて助かった』と思っていた。自分でもその思考過程が分からないままに。


 ディアナだけではない。ベネディクトとヒューの死体も同じように輝きの中に消えた。彼らは雪の上に倒れていたはずなのに、炎は全く雪を溶かしていない。


「今のは……聖気のエネルギー? 何が……」

『あら、もしかしてディアナの声が聞こえてないの?』


 すぐ近くから少女の声が聞こえて。それは聴覚的に聞こえたのではなく、ルネの魂が聞いた声で。

 顔を上げるとそこには、ルネが依り代としていた少女が浮かんでいた。


『そーよね。だってこれはアンデッドや邪神から魂を守るための魔法。

 神様の腕に抱かれた人の声なんて、アンデッドには聞こえないのね』

「イリス……?」


 ウェーブが掛かった金髪に藤色の目。ちょっとサイズが大きいローブを着た少女魔術師。

 イリスが哀れみと侮蔑の視線でルネを見下ろしていた。


『『滅月会ムーンイーター最期の奥義。身体を神様への供物として捧げ、魂とともに天へ還す。身体と魂を邪神に渡さないための守護。【聖棺紋コフィンスティグマ】』……だってさ。ディアナは滅月会ムーンイーターだったのね。

 ディアナはもう、ここには居ないの。私たちを引っ張り上げるためにへ行かないといけなかったみたい』


 混乱してめいっぱいの頭でルネは状況を理解しようと試みた。


 死後、肉体をアンデッドとして邪神の軍勢にされたり、魂を囚われて邪悪に歪められるのは避けるべき事だ。そのためアンデッドとの戦いを生業とする高位聖職者や王侯貴族などは、死後悪しき者に魂を奪われないよう、特別な儀式により魂の保護を行う。

 それと同じような何かをディアナは準備していたようだ。


「ディアナ……? ディアナが?」


 思わずルネは闇夜を見上げてディアナの姿を探した。そこには闇しか存在しなかった。

 声も、姿も。


 アンデッドとは生と死の狭間で時を止めた者。

 生者ではないが、しかし死後の世界を覗くことはかなわない。

 これで、ルネとディアナの世界は分かたれた。


『ディアナは優しいから代わりに私が言うよ。……あなたがその名前を呼ぶ資格は無いの』


 イリスの言葉はとげとげしく、冷たかった。

 ルネは“竜の喉笛”の全員を殺したことになる。ディアナにとっての大切なものを奪い、ディアナ自身の命も奪った。この上で哀れんで貰おうなんて、それこそ虫のいい話だ。


 ただそれだけの、当然の事実が、信じられないほどの威力でルネを打ちのめした。


 ――他にどうしようもなかった。戦いになった時点で『ディアナを殺さない』という選択肢は消えていた。他にどうしようもなかった。他に、他に……


『ざまーみろ。それがあなたへの罰。

 復讐のために見境無く殺すなら、そのうちあなたは自分にとって大切な人だって殺す。

 可哀想なお姫様は、奪った命の分だけひとりぼっちで苦しむの』


 藤色の目が嗜虐的に細められる。ルネの苦悩を、本人すら気がついていない部分まで見透かすように。

 いくら天才的な魔術師と言ったって、イリスは人生経験的にはほんの子ども。

 そんなイリスにすら見透かされるほどに、ルネは。


 ふと、イリスはどこか高いところを見上げた。

 そして困ったような顔をする。


『……ごめん、ディアナ。ディアナのお願いでも、その言葉は伝えられない。私、この子を許す気無いから』


 ディアナが。

 ルネには手の届かない場所にいるディアナが何かを言ったようだ。

 そしてイリスに言伝を頼み、それをイリスが拒否した。


 ディアナが何を言ったのか聞きたいとルネは思った。

 聞けるわけがない。

 声が出なかった。


『さよなら』


 イリスがひらりと手を振ると、彼女の魂は消え去った。

 唐突に。はじめからそこには何も無かったかのように。

 神の腕に抱かれ、不浄のアンデッドたるルネと隔てられた。


 呪いの赤刃がルネの手を離れ、雪の上に突き刺さった。

 文字通り頭を抱えて、ルネは膝を折る。


「あ、あ、あああああああ!!」


 ――『心まで化け物になった』だって……? だとしたら何だ、この喪失感と……絶望は!


 その感情は罪悪感ではなかった。ベネディクトやヒューと同様、ディアナを殺してもルネは全く良心の呵責を覚えなかったのだ。


 ただ、今際の際までルネを想ってくれたディアナにはもう逢えない。

 ルネが抱く感情は、母を失った子が母を恋しく思い悲しむ気持ちにとてもよく似ていた。

 それも今度は王弟派の騎士などではない。ルネ自身が首を切ったのだ。

 自分にとって掛け替え無く大切だったはずの宝物を自分自身の手で台無しにしたという後悔が、ルネの心に牙を突き立て、呑み込もうとしていた。


 ルネはあくまでもイリスとしてディアナと接してきた。

 ディアナがルネに対して掛けた言葉は、本来はイリスに向けてのもの。それをまともなコミュニケーションとは言えないだろう。

 しかし、そんな状況でもルネは満たされていた。ルネは奪われた母の代わりを求めるように、ディアナに母性を求めていた。

 砂漠で干からびかけている旅人には数滴の水さえも天上の甘露だろう。それと同じように。

 壊れた器に水は溜まらないけれど、注がれている間だけは潤いを得るのだ。


 そして最期には……イリスではなくルネに対して、ルネの救いを祈ってくれた。


 『復讐しか残されていない』? きっとそうなのだろう。だがそれは『復讐以外の全てがどうでもいい』という事ではなかった。

 ルネは復讐のための装置ではなかった。

 邪神の加護チートによる超越的な力、前世での人生経験……そんな強さを鎧のように纏ってみても、所詮ルネは怨みと痛みを抱えて化けて出ただけの、もう一度母に抱かれたかっただけの傷ついた少女であった。それをルネは忘れていた。今思い出した。


『あたしはね、政治の事はよく分かんないよ。でも、ちっちゃい子にそんな顔させる連中がマトモだとは、どうしても思えないね』『こいつめ! かーわいいこと言ってくれんじゃないか!』『仮にその、イリスじゃないあんたがあたしに大事にして欲しいなら、きっとあたしはそうするだろうね』『だって、あんた、あたしに大事にして欲しかったんだろう……?』『あたしは、あんたにも、他のどんな子ども達にもそんな顔してほしくない。笑っててほしい』『なんでもいい……『もう復讐なんてしなくていい』って思えるくらいの幸せを……見つけてくれると、嬉しいね』『しかし……年端もいかない女の子に、連中もまた酷いこと『特に女の子の笑顔ってのはそれだけで魔法みたいなもん『怒るのは体にも心『にも『毒だよ可愛い女の子がそんな顔し『て『るのを放ってはお』け『』ない。勝手なお節介だがあんたを『人が使っちゃならない魔法を使『死ぬ前に、仲間たちと……あんたの『言ったろ? あん『たが辛そ『うだったから』止『めてやりたか』った』ために祈る時間を貰え『……よだんいなれらいはにずわ願うそ、てっにうよぐら安かついが魂のたんあ……ねだたはしたあ』ないかな、姫様』するのもい『い。オシャレもで』きれば……恋』も、できるかも知れない』『はは……寂しん坊め』てしを顔なうそ辛になんそ……『……あたしの祈りがあんたの運命を変えてくれないかなって……』よなきとめ』やもでらか『あんたは可哀想だし、あたしに『できる事ぁしてや』りたかった『『んたをこんな風にしちまった連中を、あたしゃあ……恨むよ『……幸あれ』


『あんたには……ちゃんと普通の女の子として生きて欲しかったよ』


「う、わあああああ!!

 うわあああああああああ!!」


 胸の奥底に刃が突き立てられている。

 心が、歪む。

 人としての尊厳一切を奪い去る生き地獄の中で感じたものと同じ、心が歪んでいく痛み。

 抱えたままの頭をルネはぶんぶん振った。


 だが。突如、間近から電子音が鳴り響き我に返る。


 どこかで聞いたような記憶の奥底のメロディ。と言うか効果音。

 ピリリリリリリ、という古式ゆかしい着信音だ。


「え……? なに? 何の音……?」


 音を発する何かがローブのポケットに入っている。

 ふらふらと立ち上がってローブのポケットに手を突っ込んだルネ。その手が何か固い物にぶつかる。

 引っ張り出してみれば、それは転生前の地球でも既にあまり見かけなくなっていたボタン式携帯電話。ガラケーとか言われる代物だった。

 こんなものがこの世界にあるはず無い。と言うかさっきまでローブのポケットには何も入っていなかったはずだ。


 ルネが携帯電話を手に取ると、着信音は勝手に鳴り止み、無機質極まる合成音声が流れ出した。


『こちらは、邪神ネットワーク・チートサービスサポート局です。

 お客様がお受け取りになったチートは、本日24時を以てクーリングオフ期限終了となります。

 クーリングオフをご希望でしたら1を、それ以外の方は2を押してください。

 こちらは、邪神ネットワーク・チートサービスサポート局です……』


 ご丁寧に邪神さん本人の声であった。


 ――今が……あれから一ヶ月?


 処刑台で首を切られた、あの忌まわしき日。邪神と出会った日。ルネの復讐の始まり。

 ルネに力を授けた邪神は一ヶ月のクーリングオフ期間を定めた。チートが気に入らなければ、この期間内に返上すれば安らかに眠ることができるのだと。


 ルネははっと顔を上げた(正確には、左手に持った顔を上に向けた)。


 もし、今ここでチートを返上してアンデッドでなくなったとしたら。

 ギロチンに掛けられた母と天国で再会できるのだろうか。母の胸に飛び込んで、痛かったと、怖かったと泣いて、泣き疲れるまで泣いて、そして安らかに眠ることができるのだろうか。いつものように優しく頭を撫でてくれるだろうか。


 ディアナの後を追えるのだろうか。もう一度彼女に会って……全てを謝罪すれば、イリスではなくルネとして抱きしめてくれるのだろうか。もちろんイリスは嫌な顔をするだろうけれど。彼女が何を伝えようとしたのか、彼女自身から聞くことができるのだろうか。


 教会によれば、人は生前の罪によってのみ神の裁きを受けるという(死後の罪まで計上してはアンデッドになった・された人が報われないからこういう教義なのだろう)。それが事実なら天国へ行くには問題ないはず。生前のルネの罪なんて、道を横切っていたアリさんの行列を間違って踏んでしまったことくらいだ。

 いや。もう一度母やディアナに会うことさえできたなら、その後の行き先が地獄でも構わない。邪神から賜った加護チートを捨て大神の裁きを受けるのが、あれからルネがしてきた事への償いになるのなら……


 ルネは。

 ルネは歯を食いしばった。


『……お客様がお受け取りになったチートは、本日24時を以てクーリングオフ期限終了となります。

 クーリングオフをご希望でしたら1を、それ以外の方は2を   』


 音声が3ループ目に入ったところで、途絶えた。

 ルネが赤刃で携帯電話を叩き斬ったからだ。


「それでも……」


 サラサラと形を崩して空気に溶けていく携帯電話を見ながら、ルネは叫んだ。


「それでも……わたしには復讐しか残されていないのよ!

 わたしは復讐者。“怨獄の薔薇姫”。ルネ・“薔薇の如きローズィ”・ルヴィア・シエル=テイラ。

 この怨みが晴らされるまで復讐劇の幕は引かない。誰にも引かせはしない!!」


 自分勝手であろうと。救いようがない悪であろうと。孤独であろうと。

 ルネは、救われるには傷つきすぎていて、償うには怨みすぎていた。


 なれば。

 ただ戦うのみ。

 ただ復讐を為すのみ!

 仇を殺し、国を滅ぼし、この刃が神に届くまで……


 ――…………戦え!!


 雪を踏みしめて立ち上がり、ルネはいつの間にか滲んでいた涙を拭う。


「首を洗って待っていなさい。

 裏切りの騎士団長ローレンス……! 僭主ヒルベルト……!!」


 少女の胸に宿ったものは義憤にあらず。正義にあらず。

 全てを奪われた少女は、ただ怨み、怨む。そして再び歩き出した。今にも小さな身体を突き破って燎原の火のように燃え上がろうとしている、黒き怨みの炎に突き動かされて。

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