第三章

第三章

茉莉花は、自分のもつ称号の力を借りて、水穂をはじめとして患者さんたちの話を聞くようになった。一度このプロジェクトを開始すると、怒涛のごとく患者さんがやってきた。患者さんたちは、藁にもすがるような態度で、自分のことを延々と喋り出すので、しまいには苛立ってきた。

影浦が、田舎には話す場所がないというのは本当で、やってきた患者さんたちは、制限時間を過ぎても話しつづける。まあ、延長料金をとれば、確かにお金は儲かるが、逆にへとへとに疲れるのだった。

その日も、仕事が終わって、自宅マンションに戻ってきた。いつもなら、長男は高校の部活でまだ帰ってこないだろうし、次男は塾にいっているはずだから、灯りなどついているはずがない。しかし、今日はついていた。

「ただいま、二人とも、どうしたの?学校早くおわったの?」

わざと明るく、そう聞いてみると、

「わかったよ。じゃあ、兄ちゃんがずっといてやるからな。」

と、弟を優しく励ます、長男の声がした。本人のしゃべり方は優しいが、茉莉花にはちょっと嫌な響きがあった。

「ちょっと待ちなさい。由紀夫、いまなんといった?」

茉莉花が、思わずそういうと、長男の由紀夫は、初めて母のほうをみた。

「あ、お母さん。お帰りなさい。曽良夫が、もう学校にいきたくないというから、僕がしばらくうちにいて、面倒を見るよ。お母さんは仕事にいかなきゃいけないでしょ。一人にしておくわけにはいかない。だから、僕がやるしかないじゃないか?」

う、嘘ばっかり!だって学校に入り始めたばかりの曽良夫は、毎日でかい声で一年生になったーら、一年生になったーら、なんて歌っていたから、学校なんて、楽しいんだろうなと思っていた。なのに、何でもう学校にいきたくない!なの?

「かなりひどいことをされていたようだよ。靴の中に画鋲を入れられて、怪我をしたりとか。」

確かに、曽良夫が、学校から、包帯を巻いて帰ってきたことがあった。すぐに学校へ電話したが、体育の授業で曽良夫君が転んだんですと、教師に冷たくいわれ、それで納得してしまったのである。

「ほかにもあるよ。防災頭巾に落書きもされたり。」

それは、学校の話によると、泥水の中へ落としたということだった。

「そんなひどい事をする生徒がいて、先生もそれを見て見ぬふりをするなんて、いくらなんでも許せない。曽良夫は、しばらくうちにいたほうがいいよ。一人ではしんぱいだから、僕が面倒を見る。」

「ちょっとまちなさい!由紀夫、あんた自身の学校は?」

「まあ、しょうがない。しばらく行かないようにするよ。勉強に関しては、Z会の本を読もうかな?」

そんなのんきなこえで、返答する由紀夫をみて、

「何バカなこといっているの!あんただって自分の人生を決めなきゃいけない大事な時期なのよ!」

と怒鳴り付けた。

「そんなものどうでもいいよ!高校なんて、また別のところへ行きなおすこともできるし、大検だってあるじゃないか。それよりも、いまは曽良夫についてやった方がいいんじゃないかとおもうから、そうするよ。これは、僕が決めたことで、お

母さんは何も介入しなくていいからね!」

由紀夫も負けじと言い返すが、そうはいかない年齢であった。確かに高校は義務教育にはなっていないが、それを拒否するとなると、また別の問題が発生してしまう。

「由紀夫、そうはいかないのよ。あなただって一応高校生なんだから、それをやめてしまうのは酷というものよ。一度やめたら、あなたの人生だって、悪い影響が出るかもしれないわ。そうしたらどうするの?社会では認めてもらえないかもしれないのよ?」

「お母さん。社会がどうのこうのよりも、今は曽良夫のことを考えてあげようよ。曽良夫は、きっと学校でものすごく苦しかったと思うんだ。新しい学校を探すのだって、時間もかかるじゃないか。その間はどうしても家にいなきゃいけない

だろ?だから、僕がその間だけ面倒を見るから。それではいけないのかい?」

「由紀夫、何を言っているの!それじゃあ、あなたの人生はどうなるの?お父さんが亡くなって、せっかく恩返しするような形で、富士高校、入ったのに!」

「そんなこと知らないさ!今は曽良夫のことを一番に考えたい。僕が高校に行っていたら、それこそ曽良夫がただのお荷物さんになってしまう。それだけはどうしても避けたいんだよ!」

「なんでそんなに曽良夫のことばかり考えるの!」

「決まってるじゃないか!僕の弟だからだ!十年離れていても、関係ないさ!」

由紀夫がちょっと語勢を強くして言うと、隣の部屋でバタン!と何かが倒れる音がした。

「今のは何の音?」

「曽良夫が倒れたんだ!」

と急いで居間に直行する由紀夫。それを追いかけていくと、テレビの前で曽良夫が倒れていて、由紀夫は一生懸命介抱しているところだった。

「曽良夫、大丈夫だからな、兄ちゃんがずっと守ってやるからな。」

その言葉には、大人なんてもう役に立たないぞ!という怒りの意味も込められていた。

「勝手になさい!」

茉莉花も、怒りたってしまって、自室に戻っていった。茉莉花は、結局その後で何が起きたのか、まったく知らなかった。


その翌日のことである。

「大丈夫だよ。病院のお医者さんは怖い人じゃないから。きっと優しい顔をして診察してくれるさ。」

まだ、受付時間を開始してすぐの池本クリニックで、由紀夫は怖がる曽良夫をそう言ってなだめながら、中に入らせた。受付に行って、

「すみません、弟なんですけど、ちょっと診察していただけないでしょうか?」

と、由紀夫は受付のおばさんに話しかける。

「あ、はい。でも、あなた、こんな時間に来て、大丈夫なの?もう学校はとっくに始まっているでしょう?もし、弟さんのことが心配なら、お母さんに仕事を休んでもらって、来てもらったら?」

受付のおばさんは変な心配を始めた。

「ええ、たしかにそうですが、弟が心配なので今日は、休ませてもらいました。もし必要があれば、しばらく休む予定です。」

由紀夫は、用意した答えをそのまま述べたが、おばさんは変な顔をした。まるで、何この子?学校さぼったことを正当化するなんて、生意気ね、とでもいいたげだった。

「だって、仕方ないじゃないですか。うちは、父もなくなってしまって、母が働かなければならないので、弟に何かあったら、僕が手伝うのは、ある意味しかたないと思います。なので、多少学校を休まなければならないことは、覚悟しているので、何も抵抗はありません。」

「そういうのを、親不孝っていうの。そうじゃなくて、もっと勉強して、いい成績をとるのが親孝行ってもんでしょ。ましてや富士高なんてすごいところに入ったんだから、その名が泣かないように、頑張って勉強しなさいな。」

受けつけのおばさんは、彼がそういうのを見て、今ならではの一般常識を語って聞かせた。

「そういうことは、バカな高校に行っている子がすることよ。富士高なんだから、そういうことは免除してもらって、勉強に励みなさい。」

「そうですか。彼にとってこういう体験は、非常に大きな収穫となるかもしれませんよ。それに、高校で順位をつけてしまうなんて、誰がすることですか?生徒本人に、変な優越感を植え付けるだけで、何も在りませんよ。若者は年寄りの道具ではありません!」

ふいにこういう言葉が聞こえてきたので、受付のおばさんは次のように言い返した。

「当り前よ。今の若い子はただでさえダメな子ばっかりなんだから、富士高生ほどかわいがってやりたいというか、期待したいものはないわねえ。せめて富士高生だけは、そういう子たちと同じような人生は歩んで行ってほしくはないわ。」

「あ、わかりました。それじゃあ、今のことば、しっかり録音させてもらいましたから、うちの党からの立候補者が立ち合い演説会を行う際に参考にさせてもらいますね。汚い証言をどうもありがとうございます。」

そんなセリフが聞こえてきたので、おばさんはぎょっとして前を見ると、受付にいたのは高校生の由紀夫ではなくて、和服姿の中年男性であった。その人は、持っていたスマートフォンを鞄にしまい込んで、

「全く、今の大人といいますのは、自分ができなかったことの腹いせに、そうやって若者を傷つける発言を平気でするんですね。」

とあざ笑うかのように言った。

「曾我さん!ど、どうしてここにいるんですか!」

「はい。耳鼻科に来させてもらっているだけですけど、それが何か?」

そこにいたのは、曾我正輝、つまりジョチであった。

「そ、それはそうですが、診察まで、待っててもらわないと、、、。」

「ええ、どうせ二時間待たされますから、退屈で仕方ないんです。院長に、この子達の診察をするようにとお伝えください。もし、診察料が高いようでしたら、支払いは僕がします。」

「あ、は、はい。わかりました。ちょっと待ってくださいね。」

「いう言葉が違うでしょう?そうではなくて、二人に謝ってもらわないと。」

「謝るって、私が?」

素っ頓狂な声を出す受付係。

「当り前じゃないですか。二人に対して、人権侵害的な発言したんですから。ほら、富士高に行ったからと言って、

病院にきてはいけないという。」

人権侵害なんて、もちろんそういうことをした自覚はない。おばさんはびっくりしてしまった。

「だって、そういうことは、立場の低い子にいう発言のことを言うんでしょ?」

「いいえ違います!いくら優秀な高校に通っていても、事情がなければ病院には来ません、それをわかってやってください!」

そういわれて、受付係はしぶしぶ、

「ご、ごめんなさい、、、。」

といった。

「よかった。じゃあ、診察まで二時間以上待たされるから、僕たちは、中庭で待たせてもらいましょうね。」

「おじさん、ありがとう!」

素直な曽良夫君は、もう彼になついているらしい。

「ちょっと待ってよ!曾我さん!」

受付係は、それを呼び止めた。

「まだ何か?」

「ほら、問診票、書いてよ!それがなければ、先生に症状が伝えられないわよ!」

「失礼しました。じゃあ、中庭で書かせますから。どうぞゆっくり待っててくださいませね。」

ジョチは、画板を受け取って、それを由紀夫に渡し、二人を連れて中庭に行ってしまった。受付係はまたあいつにしてやられたという顔をして、それを眺めていた。

中庭につくと、ジョチは二人を近くにあったテーブルに座らせて、近くの自動販売機でオレンジジュースを買ってやり、二人の前に置いた。

「本当にどうもありがとうございました。曾我さんのおかげで、病院に入らせてもらうことができて、よかったです。」

由紀夫が礼をすると、曽良夫も続けて礼をする。

「いえ、かまいません。それより富士高校に行っている生徒が、すべて金持ちのエリートしかいないという変な先入観を持たれてしまうことが問題です。昔は、神戸一中のようなところがそうなっていましたが、今でもそういう高校があるというのがまずい。」

「はい、僕も声を掛けられるたびにそういうことを言われるので、嫌なんです。あの学校に通っていると、なんだか特別扱いされるというか。それで、悩んでいることがあっても誰もわかってくれなくて。あ、でも、今は僕のことより、曽良夫のほうが問題だ。曽良夫が、小学校でいじめを受けて、もう学校へ行きたくないと言いだしました。その前に、テレビを見ていて突然倒れるとかそういう症状を出すようになったものですから。」

由紀夫は、曽良夫の出している症状について語り始めた。

「初めのころは、楽しそうに小学校に通っていると思っていたのです。でも、だんだん表情が暗くなってきて、ある時は足の裏に包帯をして帰ってきたこともあり、なんだと聞いたら、靴の中に画びょうを入れられて、無理やりあるかされたそうです。その次は、防災頭巾に泥をくっつけられて帰ってきたり、ランドセルに泥がつけられていました。」

「で、テレビを見て、倒れるという症状を出し始めたのは?」

「はい、一か月くらい前だったと思います。僕がたまたま学校にまつわるテレビドラマを見ていたら、急に倒れました。最近は、学校の話をしたりしても、倒れるようになりました。」

「わかりました。そういうことですね。たぶん、自己防衛のためにそうなったんだと思いますよ。詳しいことは、聞かないとわからないですけど、学校関連の話が引き金になっているのだと思います。今の話を問診票に全部まとめることは難しいでしょうから、僕が要約して書いて差し上げますね。」

ジョチは、由紀夫の話をきいて、問診票にすらすらとそれを書き込んだ。

「たぶん、お医者さんの話も、正直わからない用語ばかりで、高校生には難しいと思いますから、僕が同伴しましょうか?」

「ええ、ぜひお願いします!よかった、誰かがいてくれないと、僕も困ってしまうところでした。」

ずいぶん素直な少年だなあとジョチも思った。というか、エリート学校に行っていると、比較的穏やかな子が多いとされる。最近ではそうでもない子もいるが、活発で遊び好きな子は、大体エリート学校には進学しないし、学校が受け入ない。

「じゃあ、これ、受付に出してきてください。」

「はい!」

由紀夫は、嬉しそうに問診票を受け取って、受付に走っていった。そういうところはやっぱり高校生だなあと思うのだった。

しばらく世間話をしていると、看護師が由紀夫たちを呼びに来た。呼ばれた場所は精神科。池本クリニックでも名物とされるところである。

医師は、問診票を見て、

「うーん、そうだねえ。子供には珍しいけど、解離性障害かなあ。そうだねえ、しばらく学校は休んだほうがいいかもね。」

とだけ言って、さっさと由紀夫たちを出してしまった。そのあとにも患者さんたちが大勢待っているので、そうなってしまうのはいたしかなかった。

三人は、もう一度中庭へ出た。

「まあ、医者というのはそのくらいしかしてくれないものですよ。それは仕方ないことだとあきらめてください。」

先ほどのテーブルに、三人はもう一度座った。

「しかし、解離性障害というのは、どういうものなんでしょうか。いわゆる心の風邪みたいなものですか?」

由紀夫がそう聞くと、

「それどころじゃありませんよ。どうしてもその場にいたくないとか、自分の嫌なことにまつわる話を聞きたくない場合、その記憶を忘れたり、気を失ったりすることです。そればかりが続いてしまうと、嫌なことと正反対の人間を作り上げて、その人間にあらゆることをしてもらったりすることもある。これはいわゆる、解離性同一性障害と呼ばれて、治療も異なるんですけどね。」

と、ジョチは正直に答えた。こういうときは、いくら高校生であっても、柔らかい言葉を使うべきではない。そんなことをしたら、かえって正常な知識が得られないこともある。

「じゃ、じゃあ、曽良夫も曽良夫ではなくて、別の人が何かしているということになりますか!」

「いえ、そこまではいってないと思います。それは、何十年も同じ状態が続かないと発生しませんから。曽良夫君は、まだ、」

「はい、まだ小学校一年生です!」

「そうでしょう。ですから、そんな早い年で、別の人格さんにどうのこうのとやってもらうほどの知恵はありませんよ。そういうものは、別の人にやってもらわなければだめだと、はっきりと決定する出来事があるはずですからね。例えば、お母さんにひどく叱られたとか、学校の先生に叱られて、居場所をなくしたとか。」

「じゃ、じゃあ、けっきょくの所、僕たちはどうしたらいいんでしょう?」

由紀夫は単刀直入に言った。そういう言い方をするのもまさしく高校生だ。いくらエリートといっても、頭の中は純粋そのものだった。

「そうですね。まず、人間が怖いものでないことを、教えることから始めるべきでしょう。もともと解離性障害というものは、天災というよりか、人災が原因で始まることが多いですからね。そうなると、誰かがつきっきりでそばにいてやるの

が一番ではありますが、そういう人は、お宅にはいなさそうですね、、、。」

「わかりました!僕が、しばらく学校を休んでおとうとの面倒を見ます!母には、僕が何とか説得しておきますから、

僕がしばらく弟に付き添って、、、。」

「そうですね。ただ、たった一人だけではダメなんですよ。複数の人間が接してやるようにしてやらないと。たった一人だけですと、難しい用語ですが、共依存を生じてしまう可能性があるのです。」

張り切って言う由紀夫に、ジョチは注意を促した。この失敗はよくあることなのだ。特に母親と娘に多く、その結果として心中を図った例も珍しくない。

「せめて、もう一人くらい人材が欲しいですね。それも、親族でなく、できるだけ他人のほうがいい。それは、誰でもそうだけど、親族であると、どうしても客観性にかけてしまいますので。」

「そうですか、でも、僕たちの知り合いはみんな仕事を持っていて、なかなかすぐに来てくれる人はいませんよ。そうなると、やっぱり身内ばかりになってしまいますよね。」

ジョチの話に、由紀夫は現状をいった。それはどこの家も大体そうだ。暇人なんてそうはいない。

「もしよければ、こちらで手配してあげましょうか?ちょうど一人よさそうなのが、いましたから。まあ豪快で、大食いで、あきれ返るほどの笑い上戸ですが、そういう、お笑い芸人のような人間が一番いいのではないかと思われますので。」

そういうと、由紀夫の顔がぱっと輝いた。

同じころ、カレーを作っていた杉三は、ちょうどニンジンを鍋に入れようとしたところで、

「へくしょい!」

と、大きなくしゃみをした。


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