第二章

第二章

「お知り合いでしたら、心強いですね。」

と、影浦が驚いている茉莉花を見ていった。

「で、でも、ただ大学で同級生だっただけです。それに彼女とは、学科も違いますし、直接面識があったというわけではないんですよ。」

水穂は、急いでそう説明したが、茉莉花にしてみれば、あこがれの人物であることは間違いないと確認できる。もともと、精神医学を専門としていた影浦は、ちょっとした顔の動きで感情の動きが読み取れるのだった。

「そうですか?彼女は、水穂さんに、あこがれていたようですね。何か、そういうきっかけでもあったのでしょうか?」

「ありません。彼女は声楽家で、僕はピアノを先行してましたから、鉢合わせになることはなかったはずです。ただ、声色を覚えていたので、思い出しただけの話です。」

本人にしてみればそうだったかもしれないが、茉莉花にとって彼は、桐朋を揺るがす大天才だ。同じ学年であれば、一度や二度は彼のことをうわさしたことがあるだろう。

「ごめんなさい。私のほうが、うわさしただけのことよ。あなたにはいい迷惑だっただけでしょ。あたしたちは、しょっちゅう噂してたけど、すごい天才なんだって。あたし、ピアノ専攻の友達も結構いたから、よく聞かされてた。」

「いい迷惑といいますか、そう思っていることは気が付きませんでした。」

茉莉花の話に、水穂はそれだけ返答した。

「時間がないので、診察だけさせてくださいね。最近は、具合いかがですか?」

影浦が、そう切り出した。一瞬、聴診するのかと思ったが、そのような命令は出さなかった。

「ええ、変わりありません。」

質問に答える水穂。

「変わりないですか。それでは力が抜けてしまいますね。ほかにも聞きますけど、夜は眠れますか?」

「睡眠薬さえあれば眠れます。ないと、咳込んで眠れないです。」

「そうですか。じゃあ、食事はできますか?」

当たり前の質問であるが、精神的に病んでしまうと、これが全部できなくなってしまうのである。それは茉莉花も知っていた。

「それが全く、、、。ほとんど、食べられません。それではいけないのは十分わかっているつもりですけど、どうしてもだめです。」

「ははあ、それはなぜでしょう。」

影浦がそう聞くと、水穂はそれは言いたくないような顔をした。

「言いたくないですか?」

「それでは、具体的にどうのこうのとは聞きませんから、要点だけでも話していただけないでしょうか?」

ちょっとじれったいやり方ではあるけれど、精神関係の質問とは直接的に言わないほうがかえって明確な、答えを得られる場合が多い。影浦もそれはちゃんと心得ていた。

それでも、水穂は黙ったままだった。

「じゃあ、今日は一分だけにしましょう。きっかけだけ教えてくれませんかね。」

「きっかけはこれだけです。ただ、八百長を持ち掛けられて断っただけのことです。」

水穂は静かに答えた。確かに、音楽コンクールでも八百長があったとうわさされたことがある。大相撲で問題になったほど、おおっぴらにされることはないが、多かれ少なかれあるだろう。特に、出場者というより、指導者のほうで取引が行われる場合が多い。例えば、うちの子を優勝させるように審査してくれと持ち掛けるとか。昨年も、浜松市のピアノコンクールで、ある有名なピアニストが優勝したのだが、聴衆は、一人の青年を支持しており、彼が最下位と報じられたときに、「八百長だ!」というブーイングが持ち上がったと、茉莉花は聞いたことがあった。これによって、公平な審査とは何か、といった記事が多数新聞に掲載されたことがある。

「具体的に何をされたか今回は免除しますが、次はお話できるようにしてくださいね、水穂さん。いずれにしても、食欲を消し去ってしまうほどの、非常に大きな出来事であったことは間違いありませんね。口に出すのは難しいかもしれないですけど、もう過去のことだと割り切ってできるだけ食べられるように努力してくださいませ。」

「はい。」

水穂は小さい小さい声で答えた。その表情を見て、茉莉花は自分の息子と共通するものがあると感じた。

「でも、非常に大きな出来事であったから、割り切ることも難しいでしょうね。音楽家と呼ばれるほどの人は、大体繊細な面がありますからね。それを否定しているわけではありませんが、そういう方は、この社会では、非常に生きにくいというか、生きづらいでしょうね。」

「はい、だから、僕も早く逝きたいといいますか、そういうところがあるのです。」

えっ、と感じられるものがあった。あれだけ大学時代に教授から天才だと騒がれた人が、なぜそのようなセリフをいうんだろうか。

「確かに、八百長に利用されてしまうなんて、自分のやってきたことが、無駄になってしまったと絶望することはありますよね。」

「ご、ごめんなさい。」

ポロンと涙を出して、少し泣き顔を見せる水穂に、

「いや、謝ることはないですよ。これははっきりさせなければいけませんが、八百長というものは、もともとそれをするほうが悪事なんですから、そこを断ったからと言って、謝る必要はありません。といっても、大体正義を唱えると負けてしまうんですけどね。世の中とはそういうものと考えなければいけないかもしれない。

でも、そうなれば、世の中に絶望してしまう人が、非常に増えてしまうので、そこも何とかしなければいけないのですが、そこはまだ、無理のようだから、とりあえず、あなたは、悪くなかったということだけはお伝えしておきましょう。まあ、しょうがないかもしれないけれど、八百長が蔓延る世界には、いるべきではなかっ

たゆえに、今のような姿になったとも考えられる。そうなると、病んだこともそう、悪いことではないのかもしれませんね。」

と、励ます影浦。やっぱり、彼はそういうところはお医者さんだなと茉莉花は感心してしまった。

「まあ、そういうことを伝えるしか、僕たちにできることはありません。薬を出したって、何も解決には至りませんもの。医者は医者でも、僕たちは何もできませんよ。今日はそれをお伝えするだけで、終わりにして置きましょうか。また、こちらに来ますから、その時はせめてご飯だけでも口にできるといいですね。」

そう、次回の約束をさせるのも、精神科ならではのやり方だった。そうするのは、自殺を防止するためでもある。

「じゃあ、僕らはこれで帰りますが、また来週、こちらに来ますので。」

と、影浦はそう言って、軽く座礼し、茉莉花に帰るように促した。

「知りませんでしたわ。」

思わず、茉莉花はそう呟いてしまう。

「なんか、もう私が描いていた右城さんとは、別の人みたい。顔を見れば後さんとわかるけど、違う人なのかしら。私が知っていた右城さんというと、いろんな教授方がそばについていて、みんなの前で華やかにゴドフスキーの曲をやっていたような人。」

「ええ。もう、右城とは名乗らなくなりましたから。今の苗字は磯野です。もう右城としてはやっていけなくなって、磯野家に婿入りして磯野と名乗りました。」

そう返答が返ってきて、茉莉花はなんだか悲しくなってしまった。

「なんだか、悲しいわね。右城さんだけは、私たちと同じようになってほしくはなかったわ。それなのになんで同じどころか、こういう形で再会しなきゃならないの?」

「仕方ないじゃないですか。そういう人生なんだから。」

「そういったって、あなたは、大学中を揺るがした大天才だったのよ。」

「そんなことありません。生活するためにそうしただけです。」

余計につらくなってしまう。あこがれていた人物が、生活がどうのとか、八百長に利用されたりとか、そんな苦労を強いられてしまうなんて。確かに私も、大学を出てからは、すごくつらかったけど、あなたのほうがもっとつらかったなんて、信じられないわ!

「もう、演奏には帰ってきてくださらないの?」

「はい。帰りません。この体では無理でしょう。」

水穂はそういって、また咳き込んだ。それだけでもつらそうなのに、体全体ががりがりにやつれた痛々しい風情を醸し出していた。もし、体を壊してしまった原因が八百長にかかわったことだったら、本当に世の中というものは、、、そう、誰かの歌にあった、「世の中バカなのよ」。まさしくその通りだった。

「茉莉花さん、今日はもう帰りましょうか。あんまり長居をすると、負担になってしまう可能性もないわけではありませんから。」

本当は、八百長の話とか、もっと聞きたかった。もし、彼女が持っている称号が効力を発揮してくれれば、少なくとも一時間は彼と話す時間を持つことも許されるが、精神科医というものはそういう特権はもっていないらしい。それが、医者と民間資格とのちがいかもしれなかった。とりあえず、初めてということもあるから、

茉莉花も今日は帰ることにしたが、彼女には別の提案が浮かんでいた。

「じゃあ、すみません。またきますから、今日はこれで帰ります。それでは失礼しました。」

返事の代わりに咳が返ってきたのが、また痛々しい光景であった。それではと言って、二人は部屋を出た

が、ありがとうとか、また待っていますという言葉は、水穂からは返ってこなかった。その代わり、恵子さんのほうが、手厚く挨拶をした。

「あの、先生。初仕事で、わたし、思い付いたんですが。」

医院に戻る車の中で、茉莉花は、影浦に言った。

「先生が診察している患者さんたち、希望すれば対話トークと一緒に受けられるようにしたらどうでしょう?ほら、どうしても、先生がお話を聞くだけでは、患者さんたちも話したいことはたくさんあるのに、足りなすぎるんじゃないかしら。そうじゃなくて、もっと長く、少なくとも一時間程度は、お話させるようにしてあげませんか?あたしは、聞く資格もしっかりあるわけですから、ただの人に聞いてもらうよりはずっといいと思うんです。それをあたしが、随時先生にお伝えするようにしますから、そのほうが先生も診察しやすくなるでしょう?」

「はあそうですか。音大出だけあって、何でもはきはき言うんですね。精神科とカウンセリングって不仲なことで有名なんですけどね。」

影浦は思わず現状を言う。

「どういうことですか?」

「大体ね、精神科で答えが得られなかった人が、カウンセリングを利用することが多いんですよ。だから医者とカウンセラーって不仲であることが多くて。」

「つまり、前例がないんですね。じゃあ、やってみましょうよ。そのほうがよほどいいかもしれませんよ。私も、学生時代、文化祭で前例のなかった催しを実現したことだってあるんですよ。」

茉莉花はにこやかに笑う。もともと、音大の文化祭はつまらないことで知られている。というのは、ほかの大学と差別化を図りたいため、模擬店などが禁止される場合が多いからだ。茉莉花の時もそうだった。茉莉花はサークルのほかのメンバーと協議して、学園長に直談判し、模擬店の設置を実行したことがあった。

「わかりました。僕もこの町に来て、さほど時間がたっていないし、田舎の人は都会の人に比べると、話す場所に恵まれないことが多いのは確かですから、やってみましょうか。」

「それじゃあ、私も、出張に行ってもいいかしら?」

茉莉花は、一番やりたかった本音を切り出した。そこを、影浦に読み取られてしまったかは不明だが、

「あ、そうですか。まあ確かに、精神関係では車の運転を禁止される薬品も珍しくないですからね。それで車に乗れないために、来訪できない患者さんも多いですからな。やってみましょ。」

と言われた。

「じゃあ私、病院のホームページに、そのこと書き加えておきます。」

と、茉莉花は言った。ホームページなんて、比較的簡単に作ることができるのは、知っていた。大学のサークルで、パソコンもやっていた茉莉花にとっては、そんなことはお安い御用だった。

「わかりました。ありがとう。」

そうこうしているうちに、影浦医院の正面玄関にたどり着いたのであった。


午後の診療時間も終わって、茉莉花は影浦医院を出て、自宅へ向けて車を走らせた。途中、のどが渇いたと思ったので、近くのコンビニに立ち寄った。車を止めて、コンビニへ入り、ジュースを一本買って、また車に戻ると、車の中に置きっぱなしのスマートフォンが待っていたように音を立てた。音はメールの着信音だ。

一体誰からだろうと思ってみると、最近知り合った伊能蘭という人であった。私を、水穂さんに会わせた、張本人のような人物でもある。確か、フェイスブックか何かで知り合ったんだっけ。それで私が資格とったばかりだと言ったら、この影浦医院で働いたらどうかと知らせてくれたのも彼だった。もしかしたら、心配になってメールをくれたのかもしれない。蘭さんは、私のことを親身になって聞いてくれたから、お礼位しよう、と、茉莉花は蘭の番号を急いでダイヤルした。と、いうか、ダイヤルしたというより、フェイスブックさえあれば、電話することもできるが、なぜか電話したくなってしまうのだった。

「はい。伊能ですが。」

「あの、西郷です。西郷茉莉花。」

「ああ、どうもありがとうございます。で、採用してもらえたんですか?あそこへ。」

と、電話の奥で蘭がそう言っているのが聞こえてくる。

「ええ、おかげさまでわたし、影浦医院で働かせてもらえることになりましたわ。どうもありがとうございます。」

「あ、そうですか。就職おめでとうございます。僕はただ、場所を紹介しただけなので役にたてたかどうかはわかりません。」

お礼を言うと、蘭は、謙虚にそういった。ずいぶん腰の低い人だと茉莉花は思った。

「でも、不思議ですわね。蘭さんが私のフェイスブックを見たって声かけて下さるなんて。それに、右城さん、あいまは磯野さんでしたわね、彼が、そういう親友を持っていたことも初耳でした。彼、私が知っている限りでは、いつも練習室に閉じこもってキーをたたいている姿しか知りませんでしたから。友達がいるんなんて初耳でしたわよ。」

茉莉花はこれまでのやり取りで、疑問におもったことを言う。

「なんで、私のことを知っているんです?」

「いえ、水穂から、聞いてましたから、もうあいつには会いましたか?」

「ええ。今日会ってきました。思ったより、ずうっと辛そうで、もう大変そうでしたけど。」

「そうなんですよ。だから、あいつが、学生時代のころのこと、うんと思い出してもらって、あいつにもう一回生きるようにと言いたいんですよ。僕は。でも、あいつのことですから、ものすごいプライドの高い奴ですからね。僕ではどうしても、言うことを聞いてくれないのです。全く、ひどいものですよ。それが。ですから、同級生でちゃんと資格のある方を探しておりました。そのほうが、あいつももっと早く話を聞いてくれるかなと思いましてね。」

確かに、蘭の話は、理路整然としていて、わかりやすかった。

「ほらあ、男というものは、なかなか他人の話を聞かないでしょう。そういうやつだから困るんです。だから、僕が話すよりも、専門の先生のほうがわかりやすいかなあと。」

「ま、ま、まあ、そうですか。でもそれなら、もっとベテランのカウンセリングの先生とか、もっと権威のある人に話してもらうほうが良いのではありませんか?」

茉莉花は、もう一度疑問を言うと、

「いやいや、それもまた難しいところでしてね。ほら、よくあるじゃありませんか。偉い人、つまり肩書があると、かえって話しにくいでしょう。それだったら、同級生の話のほうがかえってすんなり頭に入るものですよ。それでいいじゃありませんか。かといって、僕みたいにいつも近くにいるような存在の話もかえって受け入れにくい。特にあいつはプライドが相当高い奴だから、そうなることは仕方ないと思ってください。もう、日ごろから天才天才と呼ばれていると、なかなか人選びが大変で困っているのです。」

と、電話の奥で蘭は、でかい声でまくし立てた。

「そうなんですか。一番身近な方の発言は、一番大きなはずなのに。」

「だから、それがだめなんですよ。あいつは。そういうやつですよ。まあ、わかると思うんですけど、日ごろから天才だといわれ続けると、自分はほかの人と違うんだという、優越感ばかり頭に入って、なかなか身近な人間は信用しなくなりますよ。それは、天才と言われれば誰でもそうです。ましてやあいつは、そうやって育ってきているんだからなおさらです。もう、わかるでしょ、子供のころからちやほやされると、変な人間になるじゃないですか。あいつもそうだったんですよ。」

確かに、あれだけ難しいといわれる、ゴドフスキーの曲を大量に弾きこなしていれば、そういう風になってしまうのもいたしかなかった。というか、コンクールで賞をもらったりする人たちは、多かれ少なかれちやほやされるのに慣れており、それが、態度がでかいという批評につながることがある。

「ですからね。そういうわけですから、あいつのこと、よろしく頼みます。それじゃあ、よろしくたのみますね。」

そう言って蘭の電話は切れた。茉莉花はスマートフォンを鞄にしまった。

ふいに、外から冷たい風が入ってきたのに気が付く。思わず窓を見ると窓ガラスを開けっぱなしだったのに気が付いた。慌てて窓を閉め、急いで駐車場を後にしたが、そこを、岳南鉄道の駅員帽をかぶった女性が目撃していたのには気が付かなかった。

一方、茉莉花と蘭の話を立ち聞きしてしまった今西由紀子は、いよいよ蘭さんが、「刺客」を送り込んだんだということを直感的に感じ取ってしまった。でも、名もなき駅員が、そんなことはやめろと詰め寄っても、わかるはずはないだろうなと思い、何も言うことはできなかった。きっと、水穂さん今頃せき込んで苦しいだろうな、と考えながら、彼女はその車を見送った。

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