恋愛編1、芙蓉の花
増田朋美
第一章
芙蓉の花
弟一章
新年記念の儀式も一つ終わり、みな仕事はじめとなって、通常の生活を開始するようになってきた。学校も会社も役所もみんないつも通りに働き始めるようになった。各会社や学校では、いつまでも正月気分でいるもんじゃないと、上司や先生が騒ぎ立てる声が聞こえてきた。
製鉄所も、いつも通りの生活に戻ったが、水穂だけがいつも通りになれないでいた。その時も恵子さんに食事として雑炊を作ってもらったのだが肉魚がどうしても怖くて、くちに入れてみたものの、せき込んで吐き出してしまうのだ。
せき込み続ければ、恵子さんは嫌な顔をする。確かに、作ったものを食べてもらえないで吐き出されるのは、誰だっていやな気持になる。
「またやる!もういい加減にしてよ。本当にどうしてこうすぐに吐き出しちゃうんだろう?そんなんじゃ、いつまでも六貫のままで歩けなんかしないわよ。」
恒例の言葉になってしまったのを、恵子さんは情けなく思った。本当は、この言葉を、いわなくてもいいようになることが、一番なのに。
「ねえ、もしかして、よくなりたくないの?よくなりたくないから、食べないの?」
「そんなことありませ、、、。」
恵子さんは、変な質問をし始めた。水穂は、答を言いたかったが、咳に邪魔されて答を言えない。
やがて、口に当てたその手のひらに、生臭い液体がバッと飛び出した。
「ほら!」
恵子さんにわたされた濡れタオルでやっと手を拭いた水穂だが、その時の恵子さんの顔はとても怖い顔で、まともに見ることができないのだった。
「もう!これじゃあ、いつまでたってもだめね。悪いけどかっぱ巻きは、そうは作れないわよ。あれは作るのに時間がかかりすぎて、ほかの子の食事と釣り合いが取れないのよ。」
製鉄所も短い正月休みを終えた。また、利用者がちらりほらりと増え始めている。最近は、受験のストレスに耐えられなくなって、体を壊したりする利用者も多いので、恵子さんは特に、食事には気を使う。そういうこともあるから、できる限り、食事は同じもので統一したいと思う。かっぱ巻きは、用意するものも多いし、非常に手のかかる料理で、毎日かっぱ巻きばかりというのは、やっぱり苦手というか嫌だった。
「多数の子が水穂ちゃんのために苦労をするということは、どうしても避けたいの。わかるでしょ?一人の人間のせいで、大多数の人が犠牲になると、どうなるか。」
まあ確かに、その原理はよく理解できた。ある映画で、人種差別は人間の生きる本能から生じているものであるから、やむを得ずやっている、という名台詞があったけど、それもわからないわけではない。
「ただでさえ、あたしたちは、ほかの子の世話もあるし、忙しいのよ。ブッチャーだって、自分の商売に専念したいでしょうから、いちいち呼び出すわけにはいかないわ。だから、もうちょっとほかの子の負担にならないように過ごしてちょうだい。そうするためには、渡されたものを素直に食べることよ。それが、栄養が取れて病気の回復にだってつながるの。だから、いちいちせき込まないでさ、食べられるように、努力して。もちろんこういう人は介護されなきゃいけないんだけど、ここにいるんだから、少しはまわりの人に感謝して、その人たちに迷惑かけないように努力してもらわなきゃ。それをちゃんとやることだって必要よ。働かざる者食うべからずとは言わないけど、やっぱり、いさせてもらっているんだから、努力はしてもらいたいわね。」
恵子さんは、耳の痛い話を始めた。でも、話の後半になると、もう聞いていられない。またせき込み始めるのである。
「あーあ、馬耳東風とはこのことか。」
恵子さんは、大きなため息をついた。すると同時に玄関先で、
「おはようさん!」
とでかい声がした。誰だろうと思って急いで玄関先に行くと、広上鱗太郎先生であった。
「あら広上先生!おはようございます。今日はどうしてここに?」
「いやね、今日またオーケストラの練習があるのよ。今日は演奏会前だから、一日がかりさ。それで、練習会場に行く前に、ちょっと寄ってみただけ。少し、上がってもいい?」
広上さんのような偉い人にいわれると、恵子さんは、無理やり笑顔を作って、どうぞと中へ入れてしまった。
「おーい、水穂。いるか。ちょっと、こんな朝早く来てしまって、申し訳ないんだけどさあ。」
広上さんは、四畳半に直行した。ふすまを開けると、畳にまだついたばかりと思われる汚れがついていたので、
「なんだ、またやったのか。また畳屋さんに来てもらわないといけないなあ。ああいうところは正月休みが長いと聞いているがどうなんだろうね。」
と、明るい声で、それを持っていたタオルでふき取ってやった。水穂は、横になっていたが、広上さんのほうを向いてはいなかった。
「おい、お前。どうしたんだよ。また具合悪いの?」
広上さんが心配してそういうと、
「恵子さんに御免なさいって、言ってください。先ほど、言いたかったけど。」
と、答えが返ってきて、またせき込む音がした。
「そんな、謝る必要はないと思うけどねえ。仕方ないじゃないか。謝る前に畳汚すくらい自分の体が大変だと自覚しろよ。こんな寒いときだもん、誰だって体はつらいよ。まだまだ冬は続くけどさ。その間のことだから、辛抱しろ。」
広上さんは一生懸命励ましたが、水穂は反応しなかった。
「せめて体を暖かくすることぐらいしたらどうだ?お前、体重量ったら六貫しかなかったそうだな。それでは、間違いなく皮下脂肪がなくなって、凍え死んじゃうよ。ほら、こないだ、曾我さんに買ってもらったあのあったかいかけ布団。あれ、すごくいいと思うんだけど、なんで使わないの?」
「も、申し訳ないからです。贅沢してはいけないような気がして。」
「バカ。それじゃあ、宝の持ちぐされじゃないかあ。えーと、どこにあるんだ?」
「一応、タンスの中にあります。」
水穂がそう答えると、広上さんは何の迷いもなくタンスを開けてしまった。几帳面に整理されすぎたタンスだったから、すぐにフランネルのかけ布団は見つけることができた。それを急いで広げて、しわを伸ばし、
「ほらよ。」
と、水穂にかけてやった。
「せめて、防寒だけはやってろや。そうじゃないと、また恵子さんに迷惑をかけてしまう。こういう時期だし、その体なんだからさ、贅沢は敵だなんて言ってないで、寒さから体を守るようにしろ。」
フランネルのかけ布団は確かに暖かいが、同時に別の感情も沸かせる。
「ほかの利用者さんたちは、こういうものは持っていないのに、どうして贅沢ができるんでしょうか?」
「だから、一緒にしちゃだめだよ。そうじゃなくて、利用者さんたちより体が大変だと思わなきゃ。そういうもんだろ?それがあるんだし、何も気にしないでいいんだよ。」
「でも、学校でそういう不公平さに傷ついた人が利用するわけですから。」
広上さんは、すこし、というかかなりあきれてしまった。
「そういうことは気にしない。利用者さんと一緒にしないで、病気の快復だけを考えればいい!」
それを実現するには、経済的に豊かとか、ある意味条件がないと、実現できないことは水穂も知っていたが、それを口にしても、偉い人といわれている広上さんには、理解できないだろうなと思ったのでやめておいた。水穂が黙ってしまったのを、広上さんは理解したとうけとったらしい。
「で、今日も食に当たったようだけどやっぱり碌なものを食べてないだろうな。」
そこだけは本当だった。
「じゃあ、少しの間だけだけどさ、これで足しにしてくれ。これで、恵子さんに食べさせてもらいな。かっぱ巻き、20貫作ってもらったから、少しの間は、持つだろう。」
と言って、四角形のすし桶を一つ差し出した。すし桶に書かれた店舗名をみてまたびっくり。そこいらにある回転ずしや、宅配ずしでもなかったのである。さく寿司という、富士市でも有名な高級すしやだった。
「い、いただけません。こんな高級な寿司。」
「そんなこと言ってられないだろ。お前、本当に何も食べないと、大変なことになるよ。だからちゃんと、食べることは食べないと。もし、誰も用意してくれないのなら、外部の人に調達してもらえばいいだろう?その中に身分とかそういうものを持ちこまなくていいんだよ。それよりも、必要なものは何か、しっかり考えなきゃ。」
そうなんだけど、やっぱり生活していくのには、みぶんというものは、密接にかかわってくるんだよ。と、水穂は言いたかったが、その前にせき込んでしまった。
「おいおい、、、。しっかりしてくれ。お前にはもう一回協奏曲をやってもらうからな!そのつもりでいてくれよ。頼むから!」
協奏曲!それはまたなんと恐ろしいことを!
「そうだよ。協奏曲だ!最近、うちのオーケストラで、リストの協奏曲とかやってみたいという話が出ているが、そのためにはオーケストラも練習せねばならん。それに向かって一生懸命やっている。ソロはぜひ、お前に頼みたい。リストは確かに難しいが、ゴドフスキーに比べると、簡単ではないかと思うので!」
広上さんの恐ろしい計画に、水穂はどう返事を返したらいいのかわからなくなってしまった。確かに、リストは難曲が多いが、ゴドフスキーに比べると難しくはない。もちろん、リストだって、それなりに、難しい曲はあるのだが。と、いうより、化け物的な、気持ち悪い曲が多い気がする。
「じゃあ、頼むよ。かっぱ巻きをしっかり食って、何とか六貫から脱出してくれ。そして、よくなったら、お前をソリストとして、うちのオーケストラの団長とあわせるつもりだからな。それで、納得してくれよ。」
本当に偉い人って、なんでこういう風に強引に話を持っていってしまうのだろうか。もちろんオーケストラをまとめるわけだから、それなりに権力は必要なのだが、それを繰り返していると、こうして、やたら権力志向が強くなってしまうらしい。多少の意見を無視して勝手に決めてしまうことが多くなる。それについてどういう弊害が出るのかも考えないで。
「あ、あと、ワサビは抜いてもらったからな。辛いものは刺激が強いかもしれないからな。」
広上さんは、そこだけはよかったのかもしれなかった。
「また、足りなくなったらいつでも作ってもらうように言ってある。いつでも連絡をよこせ。生ものだから、すぐに冷蔵庫に入れてもらってくれよ。」
水穂は、力なくうなづいた。
「じゃあ、俺今日は練習があるんで、長居はせずに、ひとまず帰るわ。」
と、広上さんは立ち上がって帰っていく。
枕元に置かれた、すし桶は、悲しそうにそれを見送った。
水穂は、大きなため息をついた。こんなものをもらっても、食べきれる自信すらなかったのである。ワサビを抜くのではなくてしょうゆを抜いてほしいよ、と言えたらどんなに楽だろう。
仕方なく、すし桶と一緒に寝ているしかなかった。
一方そのころ。
「今月から、お世話になります、西郷茉莉花と申します。まだまだこういう仕事は経験がないし、資格を取ったばかりなので、戸惑いの連発だと思いますが、精いっぱい務めさせていただきますので、よろしくお願いします!」
一人の中年女性が、医師影浦千代吉に向かって最敬礼をした。影浦がもらった履歴書を見ると、確かにカウンセリングにまつわる資格は持っているが、果たして本当に役に立つのかわからない資格だった。うまく言えば、臨床心理士のような、公認の資格ではないということだ。
まあでも、誰かひとり助手が欲しいなとは思っていたので、彼女を採用してみることにした。長年求人雑誌にも投稿していたが、精神科に対する偏見が強すぎて、応募者は一人も現れなかったのだ。
「はい、西郷茉莉花さんね。まあ、初めてですから、多少ミスをしても仕方ありませんよ。それよりも教訓を学ぶほうが大切ですから、多少のことではめげないで、仕事を続けてくださいよ。」
「はい!病院で働くのは初めてなので、そう言ってくれると嬉しいです!」
病院といっても、クリニックであって、本当は病院でもないのだった。一応、影浦医院と看板は出しているが、それはわかりやすくするためだけである。もし、影浦精神科なんて出したら、前述した偏見のせいで、患者さんは来なくなってしまうかもしれない。
「じゃあ、まず初めに、何をしたらいいですか?病院内の掃除?」
と、聞いてくる茉莉花だが、
「いえ、今日は往診に行かなければなりませんので、診察は午後からなんです。」
と、影浦は答えた。それに対して、茉莉花は今時?と少し驚いた顔をする。
「ええ、行きますよ。だって、困るでしょ?歩ける人ばかりが患者さんではありませんよ。」
と、茉莉花に言い聞かせたが、やっぱり今の女性には、往診なんて、過去のものになっているんじゃないかと思わざるをえなかった。
「そ、それはそうですね。じゃあ、私、車の運転しましょうか。」
「そうしてください。」
茉莉花は茉莉花で、影浦の着物に袴姿というのがちょっと変だなあという気がしてしまうのだが、それは言わないことにした。とりあえずふたりは、茉莉花の運転する車で製鉄所に向かったのだが、彼女の運転は恐ろしいほど下手だ。
「いつ、車の免許を取ったんですか?」
「あ、すみません。ばれてしまいましたね。まだ、一年しかたってないんです。東京にいたころは、私、電車で移動していたので、それで車の運転は習ったばっかりなんですよ。嫌ですよね、こんなおばさんが、車の運転免許取り立てなんて。」
こんなおばさんって、履歴書によると、年齢は46歳と書いてあったが、実際に彼女に会ってみると、まだ、30代のように見えた。そうなると、かなりの美女だ。おばさんというにはふさわしくない。
運転はへたくそで、時折後続車にクラクションを鳴らされながら、二人は目的地である製鉄所にたどり着いた。
「ここですか?こんなところへ往診に?一応たたらせいてつと書いてあるから、鉄を作っているところなんでしょうが、産業医として、この従業員さんを見ていらっしゃるとかですか?」
「少し、黙っててください。」
影浦は、茉莉花を牽制した。
とりあえず、正面玄関前で二人は車を降りた。影浦は、何にもためらいもなく、玄関の引き戸を開けた。
「おはようございます。影浦です。往診に来ました。」
すぐに、恵子さんが迎えにあらわれた。
「どうもありがとうございます。今たぶん寝ていると思いますから、起こしてきますね。」
「いや、時間もありませんし、すぐに入りますよ。今日は午後も診察がありまして。やっぱりこういう医者は診察したらすぐ終わりというわけにはいきませんから。すぐに、帰らなければいけないんです。」
影浦は精神科特有の話を始めた。
「あ、そうなんですね。それ私も何となくわかります。それなら、おあがりください。」
と、二人分のスリッパを出す恵子さん。
「申し遅れましたが、この人は、手伝い人の西郷茉莉花さんです。」
影浦に紹介っされて、茉莉花も頭を下げた。恵子さんは、ずいぶん頼りなさそうで、可愛い人だと彼女を評したが、茉莉花は気にしないで、影浦と一緒に中へ入った。
「こっちです。一番奥。」
長い廊下を歩きながら、影浦はそう説明した。廊下は歩くたびにきゅきゅきゅと音を立てた。いわゆる鴬張りである。でも、それは茉莉花には、ちょっと不快だった。
「この部屋です。」
と、影浦は一つの部屋の前で止まった。そして、なんの迷いもなくふすまを開けてしまう。
「水穂さんこんにちは。」
あれ、どこかで聞いたことがあるような名前だな。
「ご気分はどうですか?」
「変わりありません。」
偉く細いこえだったが、何か聞き覚えがあった。
誰だろう?と考えても思い浮かばない。
「そうですか。今日はというか、今年から、うちで新しく手伝い人を一人雇いました。ちょっと紹介してもいいですか?名前は、えーと、」
「西郷茉莉花です。」
茉莉花は慌てて、そう自己紹介する。
なかなか患者の水穂さんは、こっちを向いてくれないが、
「水穂ちゃん、ほら、起きてやってよ。せっかく、先生が来てくれたでしょ!」
恵子さんに従って、水穂はよろよろと分銅みたいに重い体を起こした。ここで初めて、畳に座っている茉莉花と影浦の姿を見てくれた。
すると。突然、
「西郷さんって、もしかしたら?」
と言い出す。茉莉花も水穂という名前はどこかで聞いたことがあると、一生懸命思い出していた。直接顔を合わせたことはないが、確か大学時代に、うわさになっていた人物で、ものすごい天才的な才能があるとして有名な、、、。
「あれ、も、もしかして、声楽家の西郷さんでは?」
水穂のほうからそう聞いてきたので、茉莉花もびっくりする。
「あ、でも、西郷さんは、結婚されて渡辺茉莉花さんに、、、。」
渡辺は元夫の苗字である。数年間それを名乗っていた時期があった。
「はい、それ、私のことですよ。もう離婚して西郷に戻りましたけど、、、。」
「あ、そうですか。じゃあ、やっぱり、西郷さんでよかったんですね。声色だけは変わっていないから、それでわかりましたよ。ソプラノでしたから、キーがやたら高くて。」
茉莉花も、目の前に座っている患者さんをみて、
「あの、もしかして右城さんでは?右城水穂さん。」
と、聞いてみた。
「はい、そうですが、それは旧姓で今は磯野水穂です。」
と、答える水穂。茉莉花は驚いて腰が抜けそうになった。あろうことか、自分の大学時代の同級生でしかも、天才と称されていた人物が患者としてこんなところに座っているとは思わなかったのだ。
「お二方とも知り合いだったんですか。それなら話が早いかもしれませんね。」
でもさすがに、患者さんとして会うとは予想していなかったので、茉莉花は、何も言えなくなってしまったのである。
「やっぱり、誰からも覚えてもらえて、イケメンは得ねえ!」
恵子さんが、ちょっと皮肉るように言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます